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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
アスリートになるためのスタートライン
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第1話 世界を夢見るアメジスタの少女(5)

「これが、グリンシュタイン総合競技場だった場所だよ」

「総合……競技場……」

 ヴァージンは、鉄格子に手を掛けて、食い入るように体を鉄格子から乗り出した。彼女が雑誌でよく見る、アスリートたちが大会で走る場所とは、あまりにもかけ離れた無残な光景が、目の前に広がっていた。

 普通の土に茶色のペンキを塗っただけの400mトラックは、もはやその褪せた茶色すら確認できないほど背の高い草がところどころ伸びており、人間の靴で踏むことすらできないほど茂っていた。トラックの中はそれ以上に草が生えており、トラックの端に引かれたロープが分からなければ、どこまでがトラックなのか分からないほどだった。鉄格子もところどころ錆びついており、この場所が閉鎖されて何年になるか、二人にも分からないほどだった。

「これを見て、君ならどう思う?」

「昔は、ここでみんな練習してたのかなって思います」

 アルデモードに顔を向き直ることなく、ヴァージンは荒れ果てたトラックを見ていた。足は竦み、普段のクラブ活動ならその場所で懸命に駆け抜けようとするヴァージンであっても、その足を前に出すことすらできなかった。

「僕も、その頃を知らないんだ。子供の頃、たまたまこの場所を通りかかったら立ち入り禁止になってたと思う」

「アルデモードさんが子供の頃から……」

「うん……」

 そう言うと、アルデモードは深いため息をつき、ヴァージンと同じように体を鉄格子から前に乗り出した。


「ここにはもう、希望なんてないのかも知れない」


(えっ……?)

 アルデモードの口が開いているように思えなかったが、ヴァージンはアルデモードらしき声をその耳ではっきりと聞いた。その言葉に恐怖すら覚えて、ヴァージンは鉄格子から身を引いてアルデモードに顔を向けた。

 アルデモードの表情は、彼女が見るにどこかやつれてそうだった。

「アルデモードさん、大丈夫ですか。なんか疲れたような顔して」

「う……うん。何でもないよ。ただ、君を連れて行きたいと思ってた僕の方が、久しぶりにこの悲しい場所を見て、絶望を感じてるだけだ」

 アルデモードは、ようやくヴァージンに顔を向けて、またため息をついた。

「でも、アルデモードさん。この草を取り除いてきれいにしたら、私、この場所で練習できると思うんです。たしかに……他の国には、もっと素晴らしい競技場とかあるけど……、ここで走るだけなら、そんな難しくないと思うんです」

「君ならそう言うと思った。でも、この場所を整備するお金すら、今のアメジスタにはないんだ」

「……そうですか」

 そう言って、ヴァージンは思わず首を横に向けた。緑が豊かなグリンシュタイン総合公園は、入った時にはその大きさに驚くだけだったが、注意深く見ると時計の針が取れていたり、手書きの看板が地面に投げ出されていたり、ゴミが散乱していたりなど、管理がほとんど行き届いていないようだった。それでも、死の空気すら漂ってくる競技場に比べれば、マシと言わざるを得なかった。

「ほら、アメジスタが世界一貧しい国だって、残念だけど学校でそう習ったでしょ」

「えぇ……。学校の先生が何回もそう言ってただけで……、そんな実感はしなかったです」

「でも、これが現実なんだよ」

 そう言うと、アルデモードは両手を頬に当てて、再び鉄格子の上から首を伸ばした。

「いま、アメジスタは世界からいろいろと借金をしている。それでも、国が使えるお金は、なけなしの貧困対策と、どうしても必要な工事だけ。僕らが今いるスポーツの世界には、全く補助を出せないんだ」

「だから、ここが長いこと荒れ果てているんですね」

「そうだね…。学校の運動場に比べたら、はるかに優先順位が落ちるし……、何と言ってもアメジスタから出たアスリートは全くいい結果を残していないから……」

 そう言うと、ついにヴァージンはいたたまれなくなり、競技場に背を向けた。そして肩をすぼめて下を向いた。

「何とか……、ならないんですか……っ!」

 ヴァージンの目に、荒れた砂利道が潤んで見え始めた。目に悲しみの雫がぎっしり詰まっていることを知るまで、彼女には時間がかからなかった。

「こんなんじゃ、アメジスタでアスリートになろうって、誰一人思わなくなります」

 ヴァージンは、まだ鉄格子に寄り掛かっているアルデモードの右足を見た。エースストライカーの道を約束されていたその力強い足が、アメジスタに生まれたということだけで世界に認められず、その世界で生きていくことを閉ざされる。

 その悲劇の全てを、この荒れた競技場は物語っていた。

「僕も、そう思うよ……」

「アルデモードさん……」

「だって、君も見ただろ。学校から出たら、誰も走っていないのを。……強くなろうとしないのを」

「はい……」

 いつの間にか、アルデモードはヴァージンの真横に立ち、今にも泣き崩れそうなヴァージンをそうさせないように、優しく見つめていた。

「アメジスタでは、僕たちアスリートは見向きもされない。外国と勝負すれば、必ず負ける。それも、勝負にならないほどに……」

「それで、ほとんどの国と勝負させてもらえない……」

「そうなんだよ……。外国に勝負を断られ、国は何も支えてくれず、人は僕たちを国の恥と言う……。アスリートは、恥を晒してるんだって……」

 アルデモードは、言葉を選ぶたびに首を左右に激しく振り、その度に息の詰まりそうな声をヴァージンに吐き出していた。

 しかし、ヴァージンはアルデモードに向けて目を細め、ギュッと唇を噛んで力強く言い放った。

「私は……、私は自分を恥だと思いません。ただ、相手に勝ちたい。その夢とか……希望とか……叶えるために、私はアスリートになりたいんです」

「……っ!」

「いつか、私は世界の頂点に立つ!アスリートにかすかな希望すら持てないアメジスタを、それで少しでも元気づけられたら……、変わると思うんです」

「僕も……、そう思ってた!」

 アルデモードは、突然ヴァージンに手を差し出した。ヴァージンの右手は、差し出されたアルデモードの左手に自然と収まっていく。

「みんな、僕を見てサッカーをしたいって思ってほしいんだ……。この、どうしようもないアメジスタが少しでも元気になっていければ……」

「うん……」


 そう言って、ヴァージンはもう一度だけ荒れ果てた競技場を眺めた。

 その場所が、いつの日か希望の溢れる場所になることを誓った。


「ゴメン。小さい君には、この場所はちょっと辛かったかな」

「いや、そういうことはありません。もしかしたら、何か……元気がでてきたかも知れません」

「元気……?」

 二人は、公園から市街地へと戻る石畳の道をゆっくりとした歩幅で歩いていた。ヴァージンの声はすっかり元通りになっていた。

「だって、私、あの競技場で練習したいって思ったから……。あと少し整備すれば、学校の400mトラックより、もしかしたらずっといい場所だし」

「じゃあ、僕たちがみんなに働きかけるしかないね」

「そうですね……」

 そう言うと、ヴァージンは雲一つなくなった空を見て、目を細めた。

「私、思ったの」

「どう思ったんだい?」

「私が世界の頂点に立てば、消えてしまった希望も取り戻せるって」

 そこまで言って、ヴァージンは首を正面に戻した。ふと視線を右に移すと、アルデモードはうっすらと笑っていた。

「僕も、力を貸すよ。できる限りね。もちろん、今のままの君だったらね」

「それは分かってます」

「じゃあ、5000mで僕に負けてたらダメだよね」

「うん」

 アルデモードは左足を後ろに引いて立ち止まった。走り出そうとする姿勢だ。ヴァージンも慌ててその位置に立ち、呼吸を整えた。

「さっきの聖堂まで、勝負だ」

 二対の大きな足が同時に力強く地を蹴った。その先にある未来へと、二人のアスリートは駆け抜けていった。

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