表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界記録のヴァージン  作者: セフィ
国境の壁 そして勝負以前の敗北
58/503

第10話 自分を支える大きな存在(5)

「待機位置に並んでください!」

 女子5000mのレースの時間が迫り、軽く膝を伸ばしていたヴァージンは、係員の声で飛ぶように待機位置についた。イクリプスの軽いシューズと、アメジスタ色に染まった力強いトップ、まるで王者の風格を表すような黒のショーツが、スタジアムを撫でるやや熱い風に包まれ、動き出すその時を待っている。

 待機線上に立つ15人の選手たちを、レーンの外側から内側に向かってカメラで映す。スタジアムのビジョン、そして世界中に配信される映像に、一人一人の勝負前の姿が流れる。そのカメラが、一歩、また一歩とヴァージンに近づいていく。

 そして、これまで止まることのないカメラが、ヴァージンの前で止まった。

(私の姿が……、映し出されてるんだ……)

 いま、世界のどこかのテレビで、世界記録保持者の名が呼ばれている。その現実に、ヴァージンはほんの少し息を飲み込み、そして出せる限りの笑顔と、軽く左右に振った右手をカメラに見せた。これまで、メドゥやグラティシモが、止まったカメラに向かってそうしてきたように。

(これで、いいのかな……)

 これから始まるレースに向けて、高まっていたはずの緊張が、カメラに映るという別の緊張にすり替わってしまったようにさえ、ヴァージンには思えた。吸い込む息が、どこか普段と違って落ち着いている。

「よし!」

 カメラがメドゥの前に移り、そして数人の地元・スィープスランドの選手の姿を映し、トラックの内側に消えていった。勝負開始だ。

「On Your Marks……」

 待機位置から、スタートラインに向かう。ヴァージンは、軽いシューズでトラックをギュッと踏みしめた。

(ここで、自分の力を出さないわけにはいかない)

 世界記録を叩き出したネルスでの激走から、はや2ヵ月。その間、ヴァージンはベストの走りをトレーニングでほとんどできていない。だが、今は本番。そんなことを心のどこかに隠すわけにもいかなかった。

(今日、またメドゥさんを追い抜けばいいだけじゃない……)

 スタンディングスタートから、勝負の時を告げる号砲が鳴る。ヴァージンは、二人隣からスタートしたメドゥの横顔を少し見て、ネルスでの大会と同じように、あえて先頭に立たず、他のライバルたちの出方を伺おうとした。だが、ヴァージンにとって強力なライバルのいないこの勝負で、スタートから飛び抜けようとする者は、最初の半周を過ぎても現れない。

(メドゥさんも……)

 ここにきて、ヴァージンはメドゥの作戦が普段と違うことに気が付いた。普段は最初からハイペースで飛ばし、他のライバルを次々と引き離してしまう走りが、全く見られない。体感的には、最初の1周が78秒程度のスローペースの中で、ヴァージンやメドゥといった8人ほどでトップ集団が作られていった。

 最初の400mを過ぎた瞬間、ヴァージンは不意に首を横に振った。

(いつもと違うメドゥさんなんて、気にしない方がいいかも知れない!というか、楽勝じゃない!)

 これまでメドゥから何回も見せられてきたように、ヴァージンはストライドを大きく取り、わずかながらスピードを上げた。そして、序盤のシーンでは初めて、メドゥに背中を見せる。そして、目の前に誰もいなくなった。完全にヴァージンの独走状態だ。


(これで、いいのかな……)

 2周目のタイムが約73秒、1000m通過タイムが約3分07秒。歓声に包まれるスタジアムの中で、残り距離だけが短くなる。だが、その中でヴァージンはわずか5分の1の距離にして、ほんの少し違和感を覚えていた。これまで経験したことのない、大会での独走状態。目の前に、誰もライバルがいない。

 次の瞬間、意識的に大きく開いていたはずのストライドが小さくなる。同じ力で走っているのに、ガクンとスピードを緩めたように感じた。

 怖い。トラックを懸命に走っているはずのヴァージンの脳裏に、かすかな恐怖が漂った。


(……!)

 だが、その止まりかけた時間は長く続かなかった。ヴァージンの外側に、誰かが近づいてきた気配がした。姿を見る。やはり、メドゥだった。

(違う……!やっぱり、メドゥさんとの勝負に、やっぱり勝たなきゃいけない)

 追いつかれたヴァージンは、緩めていたギアを再び上げた。真横にいたメドゥを次のコーナーで後ろに追いやり、リードを許さない。一方、メドゥもラップ70秒~71秒に上げたヴァージンの走りにぴったりとつき、元世界記録保持者の実力をはっきりと見せつける。ヴァージンを、そう簡単に勝たせないと言わんばかりに。

 だが、メドゥがぴったりとついていることを感じたヴァージンは、逆にこう悟った。

(前に誰もいないってことは、やっぱり練習と一緒じゃない。後ろにメドゥさんがいるだけで、後は何も変わらない)

 練習でさえ、ベストタイムを出すことをためらわないヴァージンにとって、いまこの状況はトレーニングと何も変わらない。強いて言うなら、トレーニング中はラップごとのマゼラウスの声が走る体を後押しするが、今はメドゥの気配がトレーニングよりも少しだけスピードを速めなければいけないかのように、ヴァージンの背中を押す。

 そして、そのまま残り1000mのラインを割った。


「……っ!」

 残り1000mを過ぎて、最初のカーブに差し掛かったその時、メドゥが突然ヴァージンの真横に飛び出してきた。ここにきて、序盤に力を温存してきたメドゥが、一気にギアを上げたのだ。ヴァージンに最後の1周で追いつかれた記憶が、メドゥの中でまだ覚めやまない。まさに、意地という賭けだ。

 だが、ヴァージンも残り1000mを切ったあたりから、普段通りギアを1段、2段と上げていく。これまで69秒程度にしていたラップを、11周目で66秒、その後の半周で32秒と加速度的に速めていく。それでも、メドゥはそれに合わせるようにスピードを上げていく。

 引き離せない。ヴァージンは、かすかにそう思いかけた。だが、一度メドゥとの勝負に打ち勝ったヴァージンは、何にも代えられない自信があった。


 まだ数段、自分のギアは上げられると。


 最後の1周を告げる鐘が鳴り響くと、ヴァージンは奮い立たせるように自らの足をトップスピードに高めた。もはや、後ろにぴったりとくっついていたメドゥの息遣いも感じない。

(これが、私の力……!)

 あと200m、100m、メドゥよりも速く走る。それだけを意識したヴァージンは、がむしゃらにゴールラインを突き破った。


 ゴールする寸前から高まった歓声に、ヴァージンは初めて我に返った。

 ネルスのとき以上の走りを見せてしまったと。

 そして、激しい歓声に包まれるように、タイムに目をやった。


 14:19.03 WR


(嘘っ……!)

 ネルスの大会から、あまりタイムが伸びていなかったはずのヴァージンは、レース中普段より多少速いスピードで走っていたことを思い出し、思わず右手で口を塞いだ。だが、次の瞬間両腕を力強く振り、二度目となる世界記録更新に素直に喜んだ。

 そして、その数秒後、汗だくの力強い腕がヴァージンを包み込んだ。

「おめでとう、ヴァージン。またワールドレコードじゃない!」

「ありがとうございます」

 ヴァージンを包み込んだ腕でポン、ポンと軽くその背中を叩くメドゥ。その目は、決して悔しさではなく、ヴァージンと同じように達成感に満ち溢れていた。そして、これまであまり戦ってこなかったライバルからの祝福を受け、ヴァージンはトラックの外で待つマゼラウスのもとに向かおうとした。

 だが、ヴァージンはゴールラインの方を見て、足を止めた。

(シェターラ……)

 ヴァージンから遅れること1分以上、周回遅れの13位に終わったシェターラの表情は、ヴァージンがどう見ても悔しさしか残っていなかった。そして、ヴァージンに目を合わせていないように見えた。


 先程と同じカメラが映すその前で、インタビューを済ませたヴァージンは、その間も込み上げてきた汗をタオルで拭いて、ロッカールームに向かった。シェターラを含め、5000mを走りきったライバルたちの姿はロッカールームになく、ただメドゥだけが荷物をバッグに詰め終わるところだった。

 メドゥは、ヴァージンの姿を見た瞬間、少し眉を潜めた。

「ヴァージン。今日の私の走りは、あなたから見てどう思った?」

 その声は、右腕で抱きしめたときのメドゥの声とは全く異なり、低く、しかし力強いものだった。

「どう……って、メドゥさんの本気を見てしまったような気がします」

「分かってるじゃない」

 メドゥは、かすかに笑ってみせた。ロッカールームの壁に反射して、ヴァージンにもはっきりと聞こえた。

「私は、この前の大会で、目の前であなたの世界記録を見てしまった。記録を奪われると分かった時、最後足が竦んでしまった」

 ネルスでの大会で、メドゥのタイムは14分31秒28と、途中まで最高の走りを見せていたはずの世界王者の姿が、最後に萎んでしまうような走りになってしまっていた。歓喜のあまり、ヴァージンは2位以下のタイムにまで気にすることはなかったが、メドゥにそう言われ、かすかに記憶していたそのタイムをはっきりと思い出した。

 ヴァージンがうなずくと、メドゥはさらに言葉を続けた。

「でも、そんなことを思ってたら、勝負にならない……。あの後、私は自分で自分を奮い立たせた。絶対に記録を奪い返す。そう思って、トレーニングで何度も14分10分台に挑んできた」

「そうだったんですか……。だから、今日のメドゥさん、今まで見てて、一番すごかったと思います」

「まだまだよ。でも、あなたとの差は詰めたわ。次は見ててらっしゃい」

「私もです。メドゥさんが、もっと本気になれば、私だって本気になれると思うんです」

「いいこと言うじゃない。……世界競技会で、どちらが金メダルを取るか、楽しみね」

 そう言って、メドゥは右手を差し出した。そして、ヴァージンの手を力強く握りしめた。


 14分21秒89。パーソナルベストを1秒以上縮めたメドゥは、ヴァージンにとって、まだまだ強敵に他ならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ