第10話 自分を支える大きな存在(4)
7月13日。スィープスランド共和国でのスィープス選手権当日。
残り1ヵ月もない今年の世界競技会に向けて、ライバルたちがその前段階として実力を試す時期の大会として、スタジアムの関係者専用口は普段以上の出場選手たちであふれかえっていた。
フィールドが違うため、これまで一度も勝負したことがない短距離走者、投てき競技に出場する者……。その中で、ヴァージンはこれまでライバルにし続けてきたアスリートの姿を探そうとするが、見ることすらできなかった。
(メドゥさんは出るとかニュースで言ってたようだけど……、あとは誰が出るのだろう)
4日前にスィープス入りしたその日の夜、マゼラウスからその話が新聞に載っていたことは聞いている。「世界記録を懸けたセカンドラウンド」といった見出しでヴァージンとメドゥが紹介されており、女子5000mの注目度がいつになく高いということをうかがわせる。
(でも、自分はもう、今までの自分ではないのだから。力は出せるのだから)
当日のライバルが誰になるか、ここでは気にしない。ヴァージンは、5人ぐらい並んで受付を済ませ、ロッカールームに入った。白と黒のタイルが眩しい床を踏み、女子ロッカールームに入る。
すると、そこには見慣れた茶髪のライバルが腰を左右にひねっていた。
「ヴァージンじゃない。また一緒に走れるわけね」
「シェターラ!」
シェターラが、ヴァージンの姿を見るなりゆっくりと近づいてくる。ケガからの復帰戦となったネルスの大会では、15人中15位と散々な結果に終わってしまったシェターラは、それでもヴァージンが見るに、2年前に初めて会った時の凛々しさを見せていた。
「そうね。今度こそ、シェターラがベストの走りを見せてくれると信じてる」
「ベストの走り……か。ヴァージン、今が一番輝いているじゃない」
「ありがとう」
そう言いながら、ヴァージンはシェターラに軽く手を差し出す。そして、これまで何度もそうしてきたように軽く握手を交わす。
だが、ヴァージンにはその手がどこか冷たいように感じられた。
(まさか、私との勝負を諦めて……いる?)
3歳年上のアスリート、シュープリマ・シェターラの異変に気が付いたヴァージンは、軽く首を横に振り、遠回しに聞こうとしたが、気が付いたら彼女はそこにもういなかった。シェターラがイクリプスのシューズで軽くタイルを叩き付ける音が、ヴァージンの耳からゆっくりと消えていく。
(どうしたんだろう……)
ヴァージンは、少しの間シェターラの足音を追って、それから鍵の刺さっているロッカーを開けた。ホテルから連れ添ったボストンバッグを下ろし、その中から先日スピードスターから送られてきたレーシングトップとショーツの入った袋を取り出す。
「すご……!」
ヴァージンは、袋を開いて新品のウェアを両手で軽く広げる。レーシングトップは、レッドとダークブルーが斜めに鋭く引かれたゴールドのラインによって分けられており、躍動感を感じられるデザインかつ、アメジスタの国旗をはっきりとイメージしたものになっている。一方、ショーツのほうは黒一色のデザインになっている。そして、何よりこれまでアメジスタにいた頃から使い続けてきたウェアに比べて、スピードスターのレーシングウェアのほうが数段軽いということを、ここで改めて思い知らされた。
(あとは、これを着て結果を出すだけ)
ネルスのレースの後、スピードスターの後様々なやりとりがあったが、ここで結果を残すことによって、スピードスターからさらに支援が得られるはずだ。ヴァージンは、いそいそと勝負の服に着替え、さらにその上に白いランニングシャツを羽織った。
だが、ランニングシャツに袖を通したその時、聞き慣れた声がロッカールームにはっきりと聞こえてきた。
「今日は最高のレースをして、世界記録を奪い返し、ストレームさんに安心して世界競技会を見て頂けるようにします」
(ストレームさん……?)
言葉の内容からも、また声からも、それがメドゥのものであるとはっきりと分かった。だが、ヴァージンが何よりも気になったのは、ストレームという名前だった。それこそ、数日後に面接しに行くフェアラン・スポーツエージェントの代理人ではないか。
(ストレームさんが来ている……。これは、私がアピールできる絶好のチャンス……!)
ヴァージンは、真新しいレーシングトップを震わせるように、ロッカールームの中で軽くジャンプをした。右足が着地すると同時に、ロッカールームの中にメドゥが入ってきた。
「お久しぶり。私の、素敵なライバル」
「そんな、もったいぶったことは言わないで下さい。私は、今日も本気を出すのですから」
ヴァージンは、軽く笑ってみせた。すると、メドゥは一緒になって笑いかけるが、すぐに目を細めた。
「オメガは、恥をかいたような気がするの。ネルスで」
「恥……ですか」
メドゥは、バッグをスッと床におろして、右手の甲を顎に当てるしぐさを見せた。
「別に私は、そう思ってるわけじゃないんだけど……、オメガの国民の中には、ヴァージンにいい印象を持っていない人が少なくないと思うの」
「そんな……。だって、大会直後にメディアでいっぱい紹介されたり……」
「その中身を見た?テレビとか」
「見てないです」
ヴァージンが軽くそう答えると、メドゥは首を横に振って静かに告げた。
「オメガの女子5000mが死んだ日、ってタイトルの紹介がされたの。私は、あれを見て背筋が凍った」
「女子5000mは、死んでないですよ。メドゥさんや、グラティシモさん、シェターラさん……いっぱいいるじゃないですか」
「私もそう思う。けど、メディアは全然そんなこと思ってない」
メドゥは、すぐにレーシングトップに着替え、バッグを空いているロッカーへと叩き付けるように入れた。ヴァージンは、メドゥのそのしぐさに動くことすらできない。
数十秒の沈黙の後、メドゥは再びゆっくりと口を開いた。
「短距離とか、跳躍とかだとまた話は別なんだけど、長距離走はほぼオメガ人が引っ張ってきていた。とくに、女子5000mの世界記録は、この50年間、オメガ国籍の選手がずっと世界記録を独占し続けた」
「えっ……」
世界記録の変遷など、これまで聞いたこともなかったヴァージンは、思わず口の動きを止めた。
「でも、ネルスの大会で、ついにオメガ人の作った記録が破られてしまった。だから、あなたのことをネットで叩こうとするオメガ人が、結構いるのよ」
「そうだったんですか……」
ヴァージンは、自らに突きつけられた現実を聞き、メドゥの表情をまじまじと見つめた。
「そんな落ち込むことはないわよ。私たちアスリートは、誰一人としてそんなことは思ってないんだから」
「私も、そうは思いたくないです。けど……」
「これからレースでしょ。今は、本気を見せることがあなたの仕事よ。勿論、私も世界記録を取り返せ、と何人かのファンから言われているし、自分自身そう思ってるけど」
そう言うと、メドゥはレーシングショーツをいそいそと履き、イクリプスのスパイクを軽く地面に叩き付けた。
「お先に」
「私も、負けてられないから」
先に準備が出来上がっていたはずのヴァージンは、メドゥを追いかけるようにロッカールームを後にした。そして、ロビーに向かう通路の間でメドゥを追い抜き、先にフィールドに出ようとした。
だが、ロビーに出た瞬間、ヴァージンの目の前に茶髪の長身の男性が飛び出した。よけきれず、ヴァージンと男性は出会いがしらにぶつかってしまった。
「す……、すいません」
そう言った瞬間、ヴァージンは茶髪の男性が堂々とした風格の男性であることを悟った。これこそ、代理人の姿だ。こうやって待っている以上、おそらくメドゥの代理人――アレクシス・ストレーム――ではないか。
すぐ後ろからやってきたメドゥが、二人の間に割って入る。
「大丈夫ですか、ストレームさん」
「大丈夫だ。軽くぶつかってしまっただけだが……。それより、君は……」
頭を下げてフィールドに向かおうとしていたヴァージンの足は、ストレームのその一言で止まってしまった。レース中でもないのに、心臓の鼓動が聞こえてくる。
ストレームは、まじまじとヴァージンを見つめる。
「……君は、世界記録保持者のヴァージン・グランフィールドさんですな?」
「はい!」
ヴァージンは、軽く笑顔を見せ、続いて右手の人差し指で自分の顔を指差した。一方のストレームは、ヴァージンの表情を見た後、肩、腕、そして長距離走者最大の武器でもある足の筋肉をじっくりと見つめた。
「なるほど。若きトップアスリートだ」
「ありがとうございます」
だが、そう言ったストレームは、すぐに体の向きを変えて、メドゥと何か相談を始めた。ヴァージンは、少しだけ目を細めて回れ右をして、フィールドへと続く階段を駆け上がっていった。