第10話 自分を支える大きな存在(3)
ヴァージンの脳裏に、イクリプスの面接の日に出会ったスーツ姿のいかつい人々の表情がはっきりと映った。何かと忙しく、またそれほど交渉術などのビジネススキルに長けていないアスリートに代わって、その代理人として様々な支援活動を行っていく存在――エージェント――の姿だ。
「前、グラティシモさんから教わったんです。エージェント契約とか……」
「本当か。ただ、その時はそんな有名でもなかったし、話しか聞いてませんでした」
「なるほど……。ただ、君には話してなかったと思うが、そのグラティシモは、有名な代理人と契約をしてるんだ」
マゼラウスは、ヴァージンにうなずきながら、静かにそう言った。ヴァージンも納得したようにうなずき、すぐにマゼラウスに言葉を返す。
「私、あまりよく分かってないんですけど、代理人って、人によってやり方が違うんですか」
「人間だからな。就いているコーチと同じく、付き合う代理人との間でも差が出るだろう」
ふぅと息をつき、マゼラウスはさらに言葉を続ける。
「知名度、クライエントになっているアスリートのレベル、交渉の手腕……そういうのに、天と地との差がある。私も、選手を引退した後に、エージェントに入ろうかと思ったことがあるが、狭き門に入れなかった」
「そうなんですか……。難しいんですね」
ヴァージンは、スピードスターとの対応直後とは打って変わって、落ち着きを取り戻していた。マゼラウスをじっと見つめ、次にコーチが何を言い出すのかを、唇を軽く噛んで、じっと待った。
「現役のアスリートをやってから、その時代の経験を生かそうと代理人になれた人は、少ないんだ。運動神経なんてほぼいらない。それ以上の、高いスキルが求められてしまうからな」
「ということは、私たちのことは、何も分かっていないのがエージェントなんですか?」
「いや、それなりに研究はしているし、代理人が定期的にクライアントに会っているのがほとんどだから、現場もよく分かっているはずだ」
「ならよかった……」
ヴァージンがそう言うと、マゼラウスはヴァージンをその場に立たせて、コーチ控室に戻る。そして、すぐにやや分厚い冊子を手に戻ってきた。
「これが、今年度の代理人名鑑だ。この中から、君がついて行きたいと思う代理人はいるはずだ」
「分かりました」
ヴァージンは、マゼラウスから冊子を手渡されると、すぐに中を開いた。陸上競技のところまでページを移すと、見開きだけでも24人もいて、どれもスーツ姿の顔写真が載っていた。
「こんなにいるんですか……!」
「陸上だけでも、世界中に1000人はいる。ただ、有名なのはそのうちの一握りしかいない」
「できれば、その一握りの代理人に選ばれたいです」
ヴァージンは、冊子から闇雲に代理人を探すのをやめ、冊子から目を離した。そして、自らを奇跡的に選んでくれたコーチでもあるマゼラウスを、やや細い目で見つめる。
「大丈夫だ。今の君は、一握りの代理人の誰もが契約をしたいと思える存在だからな」
「本当ですか……!」
1年前は、付かせるのが早いとしかグラティシモに言われなかった代理人。たった1年でここまで扱いが変わったことに、ヴァージンは驚くしかなかった。わずか18歳にして、世界一速い足を持つ長距離アスリートになった彼女に、世界にその名を知らしめる代理人が注目しないはずがなかったのだ。
「だから、むしろヴァージンが希望すれば、一流の代理人が飛びつくってわけだ」
「分かりました」
そう言うと、ヴァージンはもう一度冊子に目をやり、すぐに指を差した。
「この、アレクシス・ストレーム……さんという代理人に付いて行こうかなと思うんです」
「ストレーム……。それ、超一流じゃないか」
「はい。何と言っても、メドゥさんの代理人って書いてあったんから」
「そこか……。なるほど」
マゼラウスは、軽く首を縦に振った。一生を預けることになるかも知れない代理人を、こんな単純すぎる思考で決めようとするアスリートの姿は、マゼラウスの目には可愛らしくもあり、また不安にも見えた。
「できれば、ストレームさんに一度会ってみたいんですが……、どうすればいいですか」
「単純だ。このエージェントにクライアントとしてエントリーすること。スポンサーと違って、自分から申し出ないと、話は進まないはずだ」
「そうですか」
そう言うと、ヴァージンはゆっくりと冊子を閉じ、相当時間の押してしまった午後のトレーニングへと向かった。やや大股でグラウンドに出るヴァージンは、マゼラウスの目に大きく映った。
ようやく慣れ始めたパソコンスキルを駆使して、ヴァージンはエージェントにエントリーした。陸上競技のエージェントの中では世界最高峰とも言える、フェアラン・スポーツエージェントにクライアント申請をすると、数日で返信メールが届いた。
「よし!」
ヴァージンは、メールのほぼ最上段に書いてあった「無条件で面接に進んでください」の一言に、思わず手を叩いた。面接の期日は、7月。ヴァージンは、数日前にスィープスでの大会を控えていた。
(あとは、メドゥの代理人に付いてもらうように、面接でアピールするだけ)
世界記録を叩き出した直後に、ヴァージンの身の周りを包み込んだ喧騒は、大会からしばらくすると落ち着くようになり、7月に入る頃にはヴァージンのスポンサーはプロモーション契約1社を含む5社に落ち着いた。スポンサーへの面接やあいさつ回りに翻弄されることもなくなったため、ヴァージンはネルスでの大会の前に行っていたレベルのトレーニングメニューに回帰していた。
「もっと前に!ラップが遅くなってるぞ!」
マゼラウスの強い声が飛び交う、セントリック・アカデミーのトラックに、夏のやや眩しい日差しが差し込む。その光は、世界記録を持った一人の女性を優しく照らしていた。だが、やはりアカデミーのトラックで、あの大会以降14分30秒を切ることはなかった。
「38秒29……。なんだ、やっぱり疲れてるんじゃないのか」
「いいえ。でも、まだ本来の自分を取り戻せていないと思うんです」
「君も、そう気付いているのか。なら、それが事実だ」
そう言うと、マゼラウスはゆっくりと腕を組んで、軽くうなった。
「今度のスィープスの大会、そして8月の世界競技会。今までメドゥを相手に戦ってきたトップアスリートは、全くノーマークだった君に対して、意識をすることだろう。そうなった時に、また先頭集団に行く手を阻まれて、力を出せなくなるかも知れない」
「そんなことは……」
そこまで言って、ヴァージンは口を止めた。たしかに、ここのところ大会では優勝以外の順位にはなっていないが、そう言われてしまうと、自分の走りに対する確信が揺らいでいくのが、ヴァージンにははっきりと分かった。
「ヴァージン。君には、女王としての戦い方を身に付けてもらわないといけない」
「戦い方……。走りではなくて……」
「普通に走るだけなら、私だって走り方と言う。けれど、いずれ君は、その戦い方を身に付けてもらわないといけなくなるはずだ」
「はい」
マゼラウスは、そこまで言うと首を軽く横に振って、ヴァージンに言葉を続ける。
「私は、男子10000mで世界記録を持っていたことがある。もう何十年も前の話だが、本当の意味で世界王者になってたことがあるんだ。そして、その世界王者になってから、私はいろいろと苦労したんだ」
マゼラウスは、静かにそう言う。ヴァージンは、じっと黙ってその言葉を聞いていた。
「追いかけられる立場は、辛いんだよ……。その辛さとも、勝負しないといけないから」
(分かり……ました……)
ヴァージンは、開きかけた口ではっきりとそう言ったつもりだった。だが、それは声にすらならず、呼吸だけが遠くに消えてしまった。
「ヴァージン。今、それを身に付けてもらう必要などない。まだ、君は若いし、伸びる可能性を十分に秘めているからな。けれど、5000mの女王になったヴァージンに、いずれは教えていきたいと思っている。いいな」
「はい」
マゼラウスの表情が、少し寂しげに映るのを、ヴァージンははっきりと見た。
「とりあえず、いま君に必要なことは、5月の自分を取り戻すことだ。あの走りを見せれば、おそらく次の大会でも最高の結果を残せるはずだ」
「分かりました」
やや日が傾きかけたグラウンドに、ヴァージンとマゼラウスの影が少しずつ大きくなる。教え子のタイムが前日より落ちている日としては珍しく、マゼラウスの手がヴァージンに伸びていき、汗に包まれた彼女の手を優しく包み込んだ。
「決して、気負いする必要なんてない。必要なことは、私や新しい代理人が、全部やってくれるはずだ」
「はい」
マゼラウスはそう言って、ヴァージンの手からそっと離した。