第10話 自分を支える大きな存在(2)
これまでのスポンサー契約とは全く違う。いわゆるプロモーション契約だ。ヴァージンはその言葉を聞いた瞬間、すぐにピンときた。
「平たく言えば、エナジーノヴァを飲めば、グランフィールドさんのあの走りを見せることができる、という感じです」
「それ、すごいことじゃないですか!」
ヴァージンは、カーチェスの言葉が終わると、すぐに頭を下げた。
「私の姿を見て、みんなが希望を持ってくれるのなら、いつでも撮影して大丈夫です」
「お……、おい。ヴァージン。それは言いすぎだろ」
マゼラウスがそう言うも、ヴァージンはマゼラウスに軽く笑ってみせて、それを逆に制止した。
「コーチ、トレーニング中って、大会しか目標にないじゃないですか。でも、こうして本気になれる時がまた来ると思うと……、なんか嬉しくなります」
「そうか……。CMが楽しみなのか」
「もちろんです」
そう言うと、さすがのマゼラウスも折れ、近日中に大会の開かれていない近場の競技場で撮影が行われることが決まった。その瞬間、ヴァージンとカーチェスがかっしりと握手したことは言うまでもない。
(プロモーション契約……)
ヴァージンの目に、リングフォレストで見かけた、メドゥの姿を映したイクリプスの大きな看板がうっすら映し出された。CMになるということは、もしウォーターサプリが競技場に看板を出せば、ヴァージンもあのような形で訪れる者の目に触れることになる。
(私の姿を見て……、みんな……)
ヴァージンは、右手をギュッと握りしめた。
しかし、その日の午後に新たな事件は起きてしまった。軽く準備運動をして、午後のトレーニングへと向かおうとしていたヴァージンの耳に、今度は深刻そうな表情のマゼラウスの声が鳴り響いた。
「ちょっと……、来てくれないか……。君のスポンサーの担当者が、もうすぐこちらにやってくるようだ」
「えっ……」
正式なスポンサー契約を結んでいるところと言えば、イクリプス、スピードスターと、先程契約を締結したウォーターサプリぐらいしかない。ヴァージン自身も会ったことのある、そのいずれかの担当者がセントリック・アカデミーに押しかけてくるということだ。
「ヴァージン。何か問題でも起こしたんじゃないのか」
「何も、起こしてないと思います」
「本当かなぁ……。電話口ですごく怒っていたとか、アカデミーの事務員が言ってたような気がするのだが」
ヴァージンは、トレーニングに出る前だというのに、息を激しく吸い込んでいた。もはや、マゼラウスの言葉も耳に入ってこない。アカデミーのロビーや壁、今頃緊張感が高まっているであろうコーチ控室などが、呆然とした頭の中で、漠然としか映ってこない。
(いったい……、この後何があるというの……)
ヴァージンは、一歩だけコーチ控室のほうに足を突き出したが、すぐに止まってしまった。同時に、目の前から見覚えのあるスーツ姿の男性が飛び込んできてしまったからだ。
(スピードスター……)
スピードスターの担当者の一人である、シンプソンの姿に、ヴァージンは真っ青になった。ここまでくると、もう体を前に動かすことも、また逃げることすらできなくなってしまった。
そして、受付を済ませたシンプソンが、やや早足でヴァージン目がけて一直線に近づいてくる。
「どういうことですか」
「えっ……」
ヴァージンの目の前で止まったシンプソンは、顔を真っ赤にして彼女の方を見つめていた。
「どういうことか、説明して頂けませんか。ヴァージン・グランフィールドさん」
シンプソンの肩は上下に軽く揺れており、その気になれば今にも胸ぐらをつかんでしまいそうな動きさえ見せている。ヴァージンは、思わず一歩後ろに下がったが、それと同じ距離だけシンプソンも足を前に出す。
すると二人の間に、マゼラウスが割って入り、何のことか分からないような表情でシンプソンに言う。
「何でしょう。ご用件は、私が聞きますが」
「あなたは、どなたでしょう。ヴァージン・グランフィールドさんの代理人でしょうか」
「いえ。代理人というほどではありませんが、この2年ほど、彼女の全てを見ている専属コーチです」
「なるほど……。なら、どういうことか知っていますよね」
すると、シンプソンはいそいそとビジネスバッグを開き、中にあった一枚の紙を取り出した。
「あっ……!」
ヴァージンが思わず赤面しながら見つめたその紙には、世界記録を叩き出した瞬間のヴァージンの姿が映っていた。赤とダークブルーの、アメジスタ国旗を彩ったウェアで、全ての力を使い切った表情を見せながらゴールするシーンだった。
ヴァージンもマゼラウスも、それが何を意味するかようやく理解しかけたのだった。
「これは、我が社の製品ではないようですね」
「はい……。これは……」
ヴァージンは、丁寧に説明しようとしたが、もはや言葉が出てこない。スピードスターと契約するとき、そのウェアを使っているということをたしかに言ってしまったからだ。
「これは、どこの製品でしょうか。もしかして、我が社との面接のときに言ってた、大会用のウェアですか」
「はい……。生まれ故郷の街の仕立屋が、大会用にと作ってくれたものを、ずっと使ってまして……」
「契約は、どうでしたか。どう書いてましたか」
「……はい」
たしかに、契約書上では、この年のインドアシーズン終了後に、大会で必ずスピードスター社製品を着用するということになっていた。だが、ヴァージンはトレーニング中にはサンプルで送られてきたウェアを使っていたが、ネルスでのレースではそれを着ていなかったのだ。
ヴァージンは、何も言い返すことができなくなってしまった。すると、そこにマゼラウスが口を挟む。
「たしかに、私が見る限り、ヴァージンは大会の時に必ずこのウェアを着るようにしています。その習慣で、今回も愛用のウェアを着てしまっただけです」
「それは、我が社としては困ってしまうんですよ……。特に、今回ヴァージン・グランフィールドさんはその足で世界記録を出してしまってますから、せっかくの宣伝材料が台無しで、我が社はもう丸つぶれです」
「たしかに……」
それには、マゼラウスも言い返すことができない。シンプソンの言動が、トラブル対応に慣れているかのような落ち着きを見せており、普段から体を使った勝負の世界にしかいないヴァージンやマゼラウスが、頭を使った勝負の世界で勝つことができないのは、目に見えていた。
シンプソンは、マゼラウスから身を引くと、再びヴァージンのほうを向き直った。
「たしか、ネルスの大会の日程に合わせて、こちらから競技用のちゃんとしたウェアをお送りしたかと思うのですが、そちらはどうされましたか」
「競技用のウェア……、だったんですか」
「そうです。今回もサンプルかと思われたのですか」
「はい……。中を開けて、色を見た瞬間に、そう思ったんです……」
ヴァージンは、わずか2週間前にスピードスターから届いた新しいウェアを、記憶の片隅から思い起こしてみた。それは、白を基調に、疾走感のある黒のストライプが刻まれたもので、以前から着用していたものと使われている色は何一つ変わらなかった。
「私は、その色を見て、使うことはできないって思ったんです」
「どうして……。使わなかったんですか……」
シンプソンも、アカデミーに入ってきたときの表情が次第に緩み、優しい口調になっていた。だが、それはヴァージンの言葉いかんでは一気に豹変する可能性も残されていることを意味していた。
ヴァージンは、一度息を吸い込んだ。そして、シンプソンをじっと見つめた。
「私は、アメジスタを背負って、世界で戦っているのです。それを否定することは、やっぱりできないんです」
「アメジスタ……。そ……、そん……」
ヴァージンの言葉が終わると同時に、シンプソンの表情が大きく崩れていくのを、ヴァージンはその目ではっきりと見た。たしかに、こうしてオメガに住んでいることはスポンサー契約の時に話が出ていたが、シンプソン自身、オメガ国籍を持つ者とばかりヴァージンを見ていたのだった。
「オメガ出身のアスリートなら、たくさんいます。けれど、私の国からこうして陸上の世界で戦っているのは、たった一人。その私が、アメジスタの国旗を脱ぎ捨ててレースに飛び出すことなんて、できないって思うんです」
「すいませんでした……」
シンプソンは、軽く頭を下げる。そして、少しの間を置いて、こう切り返した。
「今度の大会に間に合うように、我が社の方でアメジスタデザインの特注のウェアを数点お送りします。その中で気に入ったデザインのものをお選びください」
「はい」
「今回の件に関しましては、本当に申し訳ございませんでした」
差し出されたシンプソンの手を、ヴァージンは素直に握りしめた。切られかねなかったスポンサー契約を、何とか繋ぎとどめる一本の細い糸が、二人の間で徐々に頑丈になっていくようだった。
深く頭を下げたシンプソンがアカデミーを後にすると、ヴァージンはぐったりと肩を落とした。
「……もう嫌です」
「どうした、ヴァージン。トレーニング行くぞ」
「なんか、こうやってスポンサーとかメディアとか……いろんな人に関わると、もうトレーニングどころじゃないような気がします。精神的に、疲れてしまいそうな……」
「そうか……。私も、ワールドレコードを叩き出した時から、それは心配していた」
マゼラウスは、そっと笑ってみせる。そして、すぐにこう返した。
「今度こそ、君には代理人が必要なのかもしれない。君がトレーニングや大会に集中できるように、もう一つの後ろ盾が必要なんだ」
(代理人……)
ヴァージンは、いつか聞いたことのあるその言葉に、再び息を飲み込んだ。