第10話 自分を支える大きな存在(1)
「よくやったじゃないか!」
世界記録を叩き出した翌々日、ヴァージンがセントリック・アカデミーに戻ると、自動ドアが開いた瞬間にウィナーに抱きかかえられた。世界競技会が終わった直後とは打って変わって、CEOの顔にいっぱいの涙がたまっていた。
大会当日、スタジアムからタクシーに乗り込むまで、やむことのない祝福を受けて、ヴァージンはその度に涙が溢れかえってきていたが、二日目の朝になってもその感情を抑えることができなかった。ウィナーに抱きしめられるよりも早く、先に顔に涙を浮かべていた。
「ありがとうございます……。私、このアカデミーで……すごい結果を出しました」
「だな……。今のアカデミー生に記録持ってる人はいないからな……」
そう言うと、ウィナーはヴァージンの背中を軽く叩き、その後ヴァージンから手を離し、彼女の正面に立った。
「昨日は、どのスポーツニュースでも騒がれてたぞ」
「本当ですか!」
アメジスタのメディア事情が悪いため、オメガに渡って2年近く経つヴァージンには、未だにホテルでテレビを見る習慣がなかった。そのため、インタビュールームで様々なメディアから質問を受けたところで、その映像を確認することはなかった。その代わり、その夜ホテルで眠る時も、翌日アカデミー近くのワンルームマンションに戻る時も、体じゅうから沸き起こる、世界記録の走りを何度もイメージしていたのだった。
「なんか、私、あの時いろいろなことを言ってしまって……、自分でも何と言ったか思い出せないくらいです」
「そうか……。まぁ、あのインタビューを聞く限り、落ち着いていないことだけは分かった」
そこまで言うと、ウィナーはふぅとため息をつき、再び口を開いた。
「ヴァージン・グランフィールド。その名はいま、世界中に刻まれた。このアカデミーにも……。だから、これまで以上に、何か問題を起こしてその名を傷つけるようなことをしてはいけない。お願いだ」
「分かりました」
そう言うと、ヴァージンはアカデミーに渡そうと思っていた優勝賞金の明細票をバッグから取り出し、ゆっくりとウィナーに渡した。ヴァージンに支払われたのは80000リアと、アメジスタの物価水準からすればとてつもない額だが、それ以上に彼女の価値を残した大会の足跡だった。
そして、その直後からヴァージンに対して、そして所属するアカデミーに対して、問い合わせが殺到することになった。
「グランフィールドさんのことでよろしいでしょうか」
大会直後の調整を兼ねた、室内トレーニングが一段落し、ヴァージンがトイレに向かっている時、コーチ控室から彼女の名前がはっきりと聞こえた。どうやら、電話口で誰かに名前を伝えているようだ。
トイレのノブを持ったまま、ヴァージンは思わず耳を澄ませた。そして、次の瞬間、ヴァージンはすぐに耳を疑った。
「スポンサー契約を名乗り出たい……ということでしょうか。ありがとうございます」
(うそ……!)
これまでは、スポンサー契約を半ばアカデミーの方から頼まれる形で、ヴァージン自身が営業活動をしてきたが、世界記録を持つ身となった今、何もしなくても入ってくると言っていいほど、問い合わせの電話が山のように入ってくるのだった。ヴァージンがトイレから戻ってくると、今度は別のオペレーターがその名を口にしていたので、逆に怖くなってトレーニングルームへと駆けこんだ。
「コーチ」
「どうした、ヴァージン。トイレに行って、逆に気分でも悪くなったのか」
マゼラウスが、表情のあまりの急変にヴァージンに近寄った。
「そうではありません……。ちょっと……なんか……、騒ぎ過ぎというか……」
「君に対する、問い合わせの電話か。スポンサーとか、取材依頼とか」
「えぇ……。嬉しい悲鳴って、こんなときのことを言うんだ、って初めて気が付きました」
「私も、嬉しい悲鳴だよ。セントリック・アカデミーがこれほどまで賑やかになることなんて、これまで数えるほどしかなかったからな」
マゼラウスは、困惑するヴァージンとは打って変わって、ここは軽く笑ってみせた。
この日だけでも、世界記録を叩き出したトレーニングに対する取材がテレビ3件、雑誌2件。その中には「ワールド・ウィメンズ・アスリート」によるヴァージン単独のインタビューの申し込みもあった。その他新たにスポンサー契約を申し込もうとする企業が3社現れたのだった。
「これが、全部君宛ての問い合わせだ。今日だけでな」
「本当に、すごいことになってしまってますね……」
この日は、大会での疲労と、問い合わせのことを気にしてか、ほぼ毎日欠かさず行う5000mタイムトライアルが、最高の自分が叩き出したタイムよりも30秒ほど遅くなってしまったが、それで何かを思うこともできないほどだった。
(なんか……、嬉しさしか湧いてこない……)
新規にスポンサーとして名乗りを上げているのが、世界中で最も愛用されているスポーツドリンク「エナジーノヴァ」を製造してはや20年となるウォーターサプリ社、マラソン選手が大会の時に装着しているサングラスのメーカーであるオプトラス社、それに何故かジュエリーのキメラ社まで名乗りを上げていたのだった。
「全部、有名と言われているところみたいですね」
本社はみなオメガ国内だが、そのうち二つは国の端の方だったりするので、普通の営業活動でスポンサーを獲得するためには、練習の合間を縫って交渉することになってしまう。しかし、今回の場合は向こうの方からスポンサーに名乗りを上げるばかりか、数日後のトレーニングの時間中にアカデミーに直接訪問するということだ。
嬉しい意味で、いよいよ、まずいことになった。
ヴァージンは心の中でそう誓って、アカデミーを後にした。
「ちょっと、お昼に行く前にロッカーで私服に着替えてくれないか」
翌日、昼前に1000mを走り込むトレーニングを終えると、午後の練習のメニューを伝えることなく、マゼラウスはヴァージンにそう言った。夕方ではなく、昼に私服に着替えると言われてヴァージンは戸惑いかけたが、ついにその時が来たと思い、ヴァージンはすぐに首を縦に振った。
タオルで汗を拭きとり、急いで私服に着替えてロッカーから出ると、マゼラウスにコーチ控室へと通された。そして、CEOの席を通り過ぎ、さらにその奥にある会議室まで案内される。
(……っ!)
「初めまして。ウォーターサプリの営業部長をしております、イル・カーシェスと申します」
ヴァージンが息を飲み込むのが早いか、カーシェスがヴァージンに名刺を手渡した。
「よろしくお願いします」
「この度は、本当に素晴らしいタイムでの優勝、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
カーチェスが笑顔で言うと、最初は戸惑いかけたヴァージンもその笑顔に飲み込まれるように言葉を返した。カーチェスの隣には、先程まで話し合いをしていたと思われるアカデミーの事務員がおり、ヴァージンとカーチェス、それにヴァージンを後ろから見つめていたマゼラウスに着席を促した。
席に着いたカーチェスは、机の上に両手を置いて、まじまじとヴァージンの表情を見つめた。
「グランフィールドさん、やっぱり間近で見ると一流選手というオーラが出ているような気がしますね」
「面白いこと言いますね」
「いや、グランフィールドさんを形容する言葉が、あまり思いつかなくて……。ただ、この前のネルスでのレース、本当に爆発したような走りを見たとき、さすがに胸の鼓動が高まりましたよ」
「そうでしたか……。私は普通に走っているだけなんですが」
そう言うと、カーチェスは軽く笑ってみせた。そばにいるマゼラウスも一緒になって笑う。そして、すぐにカーチェスは切り替えるように話を移した。
「で、今日こちらにお伺いしたのは、我が社がグランフィールドさんを強く、強く支えたい……。平たく言えば、そういうことなんですよ」
「スポンサーでしょうか」
ここは、マゼラウスが応対する。マゼラウスとヴァージンの目の前には、ヴァージンがほとんど飲んだことのないスポーツドリンク「エナジーノヴァ」シリーズのペットボトルが各1本ずつ立てかけられており、そのペットボトル越しに不思議な空間が広がっているようだった。
「我が社は、これまでにもアスリートたちを応援することによって、未来を生きる子供たちや、挑戦し続けようという全ての人々に希望を届けようと思いまして、世界の頂点で活躍する様々な方に支援の手を施してきたのです」
「なるほど……」
(挑戦……、希望……)
ヴァージンは、マゼラウスが落ち着いた表情でうなずくのを見て、途端に胸が熱くなった。ちょうどヴァージンがアメジスタを出る時に誓ったことが、スポーツを陰ながら支えるメーカーの担当者の口から発せられたことに、強い衝撃を覚えたのだった。
ヴァージンは、右手を軽く握りしめた。どういう形であれ、ウォーターサプリからのオファーは受けたい、とこの時はっきりと誓った。
そして、ヴァージンが出した答えと同じ答えを、マゼラウスは口にした。
「ヴァージン・グランフィールドは、世界中に夢を届けられる。ちょうど、そちらが必要としている人材ですよ」
「では、この契約条件でサインして頂けませんでしょうか」
ヴァージンに対して、1日1本以上の「エナジーノヴァ」進呈と、年間30万リアにも上るスポンサー料の支援。これまで、ウェアとシューズのみの契約であったヴァージンにとって、これまでにない厚待遇での契約に、彼女は胸を躍らせたのだった。
だが、契約書を上から目で追っていったヴァージンは、最後の1行に目を疑った。
(C……M……?)