第9話 ワールドレコード(6)
(14分……19秒……35……)
ヴァージンはおろか、世界中の誰も見たことのないタイムが、スタジアムの大型モニターにはっきりと映し出されていた。これまで、世界中の女性アスリートの誰もが――メドゥでさえ――破ることのできなかった壁を、ヴァージンは打ち破ってしまったのだ。
(私……、私……)
「うわあああーっ!」
ヴァージンは、全身を激しく動かし、叫ぶように開けた口から声にならない声を上げて、喜びを表現した。そして、すぐに頬を撫でる熱い涙を、ヴァージンははっきりと感じた。戦いが終わって、ほんの数秒しか経っていないにもかかわらず、ヴァージンの目に映る世界が、180度回転してしまったかのように見えた。
ヴァージンの力強い叫びとともに、湧き上がるネルス陸上競技場の観客。みな、ヴァージンの姿に釘付けになっていた。いや、メディアの向こう側でも、一気に3秒以上縮んだ女子5000m世界記録の誕生に心を動かされているのかも知れない。それらをうっすらと頭の中に思い浮かべたヴァージンは、喜びを表現したまま、全身で震え上がった。
だが、すぐにヴァージンは温かい手に包まれるような感触を覚えた。ヴァージンの右側から、熱い腕が彼女を優しく包み込む。ヴァージンはすぐにその腕の肌の色を見て、肩や首のほうに少しずつ目をやった。そして、表情に出さないように息を飲み込んだ。
「メドゥ……さん……!」
そう言うが早いか、ヴァージンは逆にメドゥを力強く抱きしめた。涙を一粒、メドゥの鍛えられた体に零し、メドゥの皮膚にその熱を伝えた。そして、再び涙を浮かべると、すぐにメドゥの全てを出し切った声がヴァージンの耳に届いた。
「おめでとう……!」
「……はい」
「本当におめでとう……!世界記録じゃない……!私が言った通り、本当に打ち破ったじゃない……」
「はい……!でも、まさかこんなタイムが出せるなんて、レースの前は思ってなかったです!」
メドゥの優しい手が、何度かヴァージンの背中を優しく叩く。それは、戦い終えたヴァージンにとって、さらなる追い風のように映った。
同時に、ヴァージンはメドゥが普段以上に戦いに挑む表情をかすかに浮かべていることに気が付いたのだった。
その後、メドゥに続いて数多くのライバルに抱きしめられた。最後にバルーナに敗れて4位に終わったグラティシモからも「あそこでアカデミーやめなくてよかった」とか「その走りは本物だった」といった言葉が飛び出してくるなど、アカデミーの中ではあまり聞かれないような優しい口調の言葉がヴァージンの耳を優しく揺らしていった。
何人ものライバルたちに抱きしめられる間も、ヴァージンに対する声はやむことを知らない。モニターには、ヴァージンの記録が表示されたままとなっており、祝福される相手が変わる時に時折モニターを見て、少しずつ喜びの表情を浮かべた。それが幻でないことを、何度も確かめたのだった。
最後に、ヴァージンは何度も声援を送ってくれたスタジアムの観客に向けて、右手を大きく伸ばし、精一杯の表情を浮かべてその腕を振った。歓喜に沸いていたスタジアムの声は、より一層高まった。
――よくやった!ヴァージン!
――君が、世界チャンプだよ!
まだオメガ語の難しい言葉が分からないヴァージンにも、誰かがはっきりとそう叫んでいることが分かった。その一人一人の表情を伺うことはできないにしても、そこにいる誰もがヴァージンの走りに何かしらの影響を受けている。ヴァージンははっきりとそう感じた。
「よくやった……!何て言葉にしていいのか……!」
ダッグアウトに戻る途中で、ヴァージンの目の前からマゼラウスが駆けてきて、再び抱きしめられた。今度はヴァージンの方から先に腕を伸ばし、この素晴らしい記録を作り上げた影の立役者の背中をポンポンと叩いた。
「ありがとうございます……。なんか……、コーチに対しても何と言っていいのか分からないです……」
「それが、今のヴァージン自身なのかもしれないな。素直でいい」
「素直……、ですか……」
「あぁ、本当だ。おそらく、いま君の心の中で、不安定な自分が少しずつ消えようとしている。やっぱり、レースが始まる前に、こんなタイムになるとはあまり思っていなかったか」
「思っていませんでした……。ただメドゥさんを追い抜くために、28秒台や27秒台を少しでも上回ろうとは思っていましたが……」
「まだ自分の力に対する確信では、なかったんだな……」
「はい……」
ヴァージンは、そこで思わず、何度目かとなる涙を零した。
「やっぱり、目に見える成果が残らないと、口だけで何度言っても、自信は確信に変わらないだろう。今は、おそらく信じられない気持ちの中で、一つの完璧な走りができたと思っているんじゃないか」
「おっしゃる通りです……」
ヴァージンの目から見えるマゼラウスの表情は、優しい口調の割には落ち着いていない様子だった。そう言うマゼラウス自身にも、どこかで教え子の力をまだ知らないという不安が残っているのではないか、とさえ思ってしまうほどだった。
何度か首を縦に振ったのち、マゼラウスは最後に言った。
「これが、君の力だ。これからは、今の君自身とも、戦わなければいけないからな……。私は楽しみだ」
(今の……、私自身……)
その意味を理解するまでに、ヴァージンは1秒もかからなかった。
ワールドレコードを持つ者だけに許される、新しいライバルの出現。そして、それとの勝負……。
(やってみる……!なんか、面白いような気がする)
表彰式まで時間があるので、ヴァージンはスピードスターのトレーニングシャツを羽織り、呼吸を整えようとした。だが、シャツを羽織ったとき、スタッフが手招きしているのが見えた。
「メディア各社が、待ってますよ」
(メディア……)
ヴァージンは、ほんの一瞬呆然となったが、すぐに笑顔でうなずいた。これまで大会で優勝しても、カメラを向けられることはあったが、大きな大会で見られるようなメディアルームでのインタビューは受けてこなかった。だが、今回は勝手が違う。世界のどのライバルにも打ち勝ったのだから。
「分かりました!」
ヴァージンは、トレーニングシャツのチャックを締めるのを忘れ、急いでダッグアウトからメディアルームへと走った。
(……!)
メディアルームに入ると、その中には数多くのカメラマンなり記者なり待機していた。ヴァージンが世界記録を樹立した瞬間に、普段滅多に使われることのないメディアルームに各メディアがこぞって入り、場所を陣取っていた。アメジスタ出身の18歳の若いトップアスリートの姿をとどめておこうと、各メディアにとって最もよいポジションを占領している。
最初に言葉を発したのが、オメガのONCテレビだった。
「ONCです。ヴァージン選手、この度はおめでとうございます」
若い男性アナウンサーがそう言うと、ヴァージンはマイクをスッと向けられた。
(どうしよう……)
この時、ヴァージンにはこの上ない緊張が襲った。レース前はおろか、メドゥを追い抜いて世界一のタイムでゴールしたときには気が付くはずもなかった緊張感が、初めてとなる経験を前に一気に湧き上がった。
だが、すぐにヴァージンの脳裏にマゼラウスの言葉が響く。
――今のヴァージンのままでいいんだ。自分の全てを出し切るんだ!
(自分の……、全て……)
普段見せることのない自分を見せたくない。ヴァージンは、それだけを心にマイクに向かった。
「はい……。ありがとうございます……」
まるで戦い終えたときのように、笑顔でアナウンサーに返した。すると、すぐにアナウンサーが次の質問を投げかけてくる。
「ほぼ完璧な走りを見せていたメドゥ選手を最後のカーブで追い抜いたとき、世界記録を確信しましたか」
「それは……分からないです……。でも、メドゥさんを抜いたらワールドレコードになるかも知れないと、レース前からずっと思ってました」
「そうですか。ヴァージン選手は……これまでのベストタイムを19秒も縮められたわけですね」
「はい。トレーニングでは自己ベストよりも速いタイムで走っていたのですが、なかなか本番で力が出せなかったので……、いつかトレーニングでのタイム以上のものを本番で叩き出そうと思っていました」
次々と質問が投げかけられる。ONCテレビが終わると、続いてほかの放送局からの質問、新聞社からのインタビュー。急遽決まったメディアインタビューだったが、段取りが悪いとさえヴァージンは思わなかった。
だが、最後にヴァージンのもとに投げかけられた問いかけに、ヴァージンは思わず言葉を詰まらせた。
「この世界記録を、真っ先に誰に伝えたいですか」
「はい……。アメジスタで……」
(言葉が出ない……)
言葉を詰まらせて、ヴァージンはもう一度メディアルームの中を見渡す。出て行った会社はいないようだが、ヴァージンはここで初めて、当然と言えるような現実を思い知ることになった。
(アメジスタに……メディアなんか……ないんだった……)
「ヴァージン選手……。大丈夫ですか」
最後の質問を投げかけた記者が、しきりにヴァージンをなだめる。それに後押しされるように、ヴァージンはこう続けた。
「アメジスタで……アスリートに希望を持てなくなっている……みんなに、私の走りを……見せてあげたかった……。私の国にメディアはないけれど……、この熱い気持ちが……アメジスタまで続いていることを信じて……」
「そうですか……。これからもがんばってください!」
記者はそう言って、ヴァージンからマイクを離した。そして、多くのメディアが機材を撤収させて、メディアルームから出ようとしているその前で、ヴァージンは両目に大粒の涙を浮かべた。そして、両手で目を押さえて、泣き出してしまった。
(言ってしまった……)
このとき、わずか一つのテレビ局だけが、ヴァージンのアメジスタに対する熱い心をはっきりと映していた。アメジスタという国の現状が、ヴァージン・グランフィールドという一人の女性を通じて明らかになる瞬間だった。