第9話 ワールドレコード(5)
これから同じ距離を走ることに全力を尽くす15人の選手が、号砲とともにスタートラインから力強い一歩を踏み出した。ヴァージンの前に、いつものようにメドゥやグラティシモ、バルーナの体が飛び出してくる。
だが、これまで何度も同じ展開にされてきたヴァージンは、この日に限ってはこの3人の姿を無理に追おうとはしなかった。メドゥの足を見た。普段のレースより、ストライドが若干細かい。その分だけ、普段より高速で次の足を薄青のトラックに叩き付ける。この日に限っては、メドゥの走りは完璧と言わざるを得なかった。
ここで、無理にヴァージンが追いかけていけば、また最後に追い抜くだけの力が残らなくなる。
(相手のペースに飲み込まれない……。普段の練習通りやれば、私はまだメドゥに勝てるチャンスがある……)
メドゥの足の動きを少しだけ見て、ヴァージンは軽く首を横に振った。そのペースに合わせたくはなかった。ヴァージンは、普段よりも決して背伸びせず、トレーニングで何度も貫き通した歩幅、スピードで最初の1周を駆け抜けようとしていた。
体感的には、最初の1周が76秒。トレーニングの時と違い、マゼラウスの口からタイムを間近に聞くこともない。もしかしたら、マゼラウスがトラックの外からそう言っているのかも知れないが、少なくとも走りに集中しているヴァージンの耳には届くことはなかった。
ただ、メドゥやグラティシモといった先頭集団は、それよりも3秒だけ早く400mを通過している。これだけは事実だった。しかし、すぐに3秒が4秒になり、5秒になる。次の一周を75秒で駆け抜けたとき、既に6秒の差がついていた。
――ヴァージンは、その走りでいいと思う。むしろ、焦らない時の走りの方がいいタイムが出ている。
タイムは聞こえないものの、マゼラウスが遠くからそう語りかける声がヴァージンの耳を何度か叩き付けた。5000mタイムトライアルでタイムが良かったときに、決まってマゼラウスが言ってくれる言葉だった。
(私は、まだ本気を出すような場所じゃない……)
ギアを格段に上げようとしたこれまでの自分を捨て、ヴァージンはほんの少しだけギアを上げていく。前を行くメドゥとの距離は縮まらないどころか、逆にまだ引き離されていくような気さえしたが、それでもすぐにメドゥ、グラティシモ、それにヴァージンのスピードが拮抗するようになっていた。6秒差、距離的には30mほど差をつけられているものの、ほどなくしてそれが少しずつ縮まってきた。
3周目、4周目を72秒づつ、5周目を71秒。いずれも体感のスピードだが、2000mの時点で6分06秒。これまでアカデミーの中で叩き出してきたタイムから見れば、ほぼ最高の走りに近いタイムが出ていることに気が付いた。
(……これは、14分26秒台とか出るかも知れない。そこまでいったら、メドゥさんに勝てる!)
あとは、自分の走りを貫き通すことだ。それさえできれば、女王メドゥを破って、トップでゴールラインを割ることができる。ヴァージンの右足にグッと力が入る。
残り、7周半。
その時、カーブを勢いよく回ろうとするヴァージンの目に映ったのは、「メドゥ・ゴー・ワールドレコード」と書かれたプラカードだった。メドゥのファンがネルスまでやってきて、メドゥを懸命に応援している。まるで、メドゥがヴァージンから見ても最高の走りのように見える中で、世界記録を再び叩き出すのを、神のような目で見ているかのように……。そして、それを待ち望んでいるような目で……。
そして、その声援にさらにギアを上げようとするメドゥの姿が、ヴァージンの目にはっきりと映った。2000mを5分台で走ったかもしれないメドゥは、このままでは本当に記録を更新してしまいそうだ。
(みんな、メドゥさんだけを見ている……)
トラックを叩き付けるイクリプスのシューズの感触とともに、メドゥに踏み固められた「道」から不思議なくらいの悔しさが漂ってきた。
クリスティナ・メドゥを超えられるのは、クリスティナ・メドゥしかいないのだ、と……。
(そんなのおかしい!レースの勝敗が、こんなんで決まるなんておかしい!)
ヴァージンは、ギアを上げ始めたメドゥにやや遅れること数秒、メドゥと同じスピードになるまで足を叩き付けるスピードを速めた。ストライドはそのままで、足の動きだけほんのコンマ数秒だけ早くしたのだった。
6周目が71秒、7周目も71秒。メドゥもほぼ同じスピードで走っている。最初の2周でつけられた30mの差はそれほど縮まらないが、これほどまで完璧な走りを見せるメドゥを追いかけることに脱落し始めたバルーナやグラティシモとの距離が少しずつ縮まってくることは、ヴァージンがタイムを計るまでもなく明らかだった。
そして、8周目でついにバルーナを颯爽と抜き去って3位に浮上した。あとは、アカデミーのライバルと女子5000mを走る誰もが最後の標的とするメドゥだけだ。8周目が70秒。さらに、9周目でグラティシモの後ろにぴったりとつき、10周目でトラックの外側から追い抜いて行った。ラップタイムも、69秒、68秒と少しずつ上がっていった。
そして、残り1000mになった。
4000m通過時点で、ヴァージンのタイムが11分55秒。メドゥは、おそらく11分49秒。メドゥは、依然最高の走りを見せていた。
14分23秒05。1年半ほど前に叩き出したタイムが、メドゥの体が出しきった最高の力だった。その時の走りを生で見たことのないヴァージンも、タイムを見ることなく世界記録を更新してしまいそうな走りをメドゥが見せていることが、はっきりと分かっていた。
それと同時に、ヴァージンの脳裏にうっすら浮かび上がっていた想いが、残り1000mをきったメドゥの力強い走りをその目に焼き付けた途端、一気に確信へと変わった。
(もし、今日のメドゥさんを追い抜いたら……)
ヴァージンは、メドゥのその先に輝くような光を見たような気がした。スタジアムの照明のような、人工的な眩さではない。ヴァージンを一気に照らし上げるような自然の光、神の世界から舞い降りたような光に他ならなかった。
ワールドレコードという、これまで誰もたどり着けなかった領域。
ヴァージンは、一度だけ首を縦に振った。メドゥに挑める時間も、世界記録に挑める時間も、あと1000mしか残されていなかった。いや、まだ1000mも残っていた。
(私は、行けるかも知れない!)
ヴァージンは、イクリプスの軽いシューズで一気に大地を蹴った。残り1000mになってから、レース後半になると必然的に飛び出してくる足の裏の痛みは、全く感じなくなっていた。本番のレースで初めて見せるかも知れない、ヴァージンの本気の力。
メドゥを目掛けて、アメジスタ生まれの18歳のアスリートの足が、加速し続ける。
11周を終えて、残り1周半になったあたりから、スタジアムの声援が一気に大きくなる。最近になくハイスピードのレース展開に、未だにメドゥの世界記録更新を信じてやまない、スタジアムに集った人々の声という声だ。
その中で、ヴァージンとメドゥとの差がじりじりと縮まっていく。体感的には、11周目は63秒、そして11周半経過した時、タイムが13分28秒。メドゥは13分26秒だろうか。最後の1周を告げる鐘の音が鳴り響くと、メドゥが最後のスパートを見せ始めた。メドゥは残り57秒で走りきれば、世界記録。カーブを曲がるヴァージンの目に、それを確信しているメドゥの表情がはっきりと映った。
(私は、何としても勝つ!この体で、まだ力は出せる!)
ヴァージンがそう誓った瞬間、体が自然に前に出て行った。短距離走者顔負けとも言われたことのある、ヴァージンの他を圧倒するスパートが、メドゥとの距離を直線で一気に狭めていく。そして、最後のカーブに入る直前で、ヴァージンはメドゥの横にぴったりとついた。
ヴァージンが、勝てると思ったのは、この瞬間が初めてだった。
メドゥが、スローモーションのような動きで、止まって見える……。
「わあああっ!」
次の瞬間、湧き上がった声援はヴァージンにとって力強い追い風になった。外側から抜き去ったヴァージンの足は、力を緩めるどころかさらに強く、強く前に伸びていく。ぴったりと横に並んだ時に荒い息づかいをヴァージンに鳴り響かせていたメドゥの鼓動は、最後の直線に入った時には、もう聞こえなかった。
もはや、ゴールラインまで、タイムとの勝負だった。あと10m……5m……3m……。金色の髪を力強く揺らして、ヴァージンが全てとの勝負に打ち勝った。
ヴァージンは、ゴールラインを割った瞬間、初めて「本物」のタイムに目をやった。
14分19秒39 WR
(ワールド……、レコード……)
ヴァージンの身の周りで、時が止まったようだった。