第9話 ワールドレコード(4)
ヴァージンは、マゼラウスから告げられたタイムに、思わず右手で口を押えた。クールダウンで呼吸を整えようとしているのに、苦しそうな息遣いの音を連れて、ヴァージンはマゼラウスのもとに早足で近づいていった。
「本当……ですか……」
「私が嘘をついていると思うか?」
ラップを重ねるたびに作られたマゼラウスの笑顔が嘘でないことを、ヴァージンはすぐに感じ取った。一日の練習ですっかり彼女にフィットするようになったスピードスターのシャツを、夕暮れを告げる冷たい風が叩き付けるが、そんなことは気にならない。
「14分28秒…」
「そう。ここでグラティシモを破った日の記録を、半年ぶりに破ったんだ」
「……うわあああ!わ、私……」
ヴァージンは、前に重心をかけ、両腕を高く上げた。喜びを表現するしかなかった。急いでマゼラウスの持つストップウォッチを覗き込んで、彼女は再び微笑んだ。
「よかったな。これが、今日の君だ。最高の出来と言ってもいいくらいだ」
「ありがとうございます……」
ヴァージンは喜んだ表情のまま、もう一度マゼラウスの前に立って、その顔色を見る。だが、マゼラウスの方は完全には喜んでいる表情ではなかった。数秒間を置いて、マゼラウスはゆっくりと口を開いた。
「だが、ヴァージン。一つだけ君に言っておく」
「はい」
「今のは、公式な記録ではない。グラティシモを相手に出した、29秒台の時もそうだ」
「はい」
ヴァージンは、軽く首を縦に振る。喜んでいたはずの表情も、無意識のうちに戻っていく。
「ヴァージン・グランフィールドというアスリートの実力は、まだ38秒台としか認められていない。本番で最高の結果を残すことが、今の君には求められてるんだ」
「本番……」
「そう、本番だ。ほとんどのライバルは、トレーニングでは出さないタイムを、本番で叩き出す」
「本番で……」
ヴァージンは、それ以上何も言えなかった。もしかすると、アカデミーに入ってから何度か言われたような気がする言葉かも知れなかったが、この日は妙に心の奥深くに入っていくような気がした。
トレーニング中に飲み干すスポーツドリンクのように、勢いよく体に溶け込んでいく。
「まだ、分からないかな……。でも、これは私からの願いだ」
「はい」
「5000mを一緒に走る人が誰もいない。冷たい風。そして、走り終わってからの君の余裕の表情。いろいろなことを考えると、ヴァージンの本当の実力は、その程度じゃないような気がする」
「もっと速く……」
「勿論だ。29秒台のときは、全力を出し切っての29秒台。今日は、まだ行けると予感させる28秒台だからな」
そう言うと、マゼラウスはヴァージンを大きな手で抱きしめて、彼女の耳に聞こえるようにこう言った。
「メドゥのワールドレコードを破れるのは、ヴァージンしかいない」
ヴァージンは、そう言うマゼラウスの瞳が潤んでいるのを、その目ではっきりと見た。
翌日から、再びトレーニングの日々が続いた。
アカデミーに入ったときは5000mで16分台に入ってしまった日には、走り終えるなりマゼラウスが鬼の形相で迫ってきたが、今や15分台でフィニッシュしても、別人のようなマゼラウスが彼女に迫る。
「もっと本気で走れ!気を抜くな!」
「はい……」
だが、そう叩き上げる言葉を言ったマゼラウスの表情は、これまで見てきたような恐ろしいものではなかった。最後には、期待している、といった言葉を言うなど、明らかに接し方が変わっていた。
すべては、本番で最高の成績を残すように。
そして、5月11日。
ヴァージン・グランフィールドというアスリートが、全世界にその名を轟かす、その日がやってきた。
オメガ国南西部に位置する小都市、ネルスの空は高く澄んでいた。昨日からネルスに入っていたヴァージンは、マゼラウスよりも1時間も早くスタジアムに着き、サブグラウンドで自主トレを始めていた。
スピードスターのトレーニングシャツの下には、普段から大会の時に着用しているアメジスタ国旗をイメージしたショートタイツを着ていた。スピードスターと契約しても、グリンシュタインの仕立屋が大事に作ってくれたウェアだけは捨てられなかった。
サブグラウンドの中で軽く足慣らしをしていると、突然目の前に見慣れたライバルの姿が横切った。
「あっ……」
「あれ、ヴァージンじゃない。久しぶり」
トレーニング用の長いシャツを着ていたので違和感を覚えたが、揺れる茶髪と見せる笑顔は、明らかに何度も顔を合わせてきた人物であることに、ヴァージンは何の疑いもなかった。ヴァージンは、そのライバルにすぐ手を差し出した。
「シェターラ……!」
「本当に久しぶり……!ヴァージンに会いたかった……」
昨年10月、大会中に再び故障するなど、散々だったシェターラの昨シーズン。しかし、一回り大きくなったように見えるシェターラは、そのような辛い思い出を全て解き放って、ヴァージンや他のライバルに挑む一人の女性の姿を見せていた。
「本当にあの時は心配した……。トラックに倒れ込んでたから、本当に……」
「苦しかった。けど、私は頑張ってここまで戻ってきたから」
「本当によかったです……。今日も、シェターラさんに負けないように走ります」
「そ、そうね。私がリハビリしている間も、ヴァージンのレースはちゃんと見てたわ」
「ありがとうございます」
シェターラは苦し紛れに笑っていた。一方のヴァージンは、シェターラが普段通りに笑っているとしか見ることができなかった。
「女子5000mに参加される、グランフィールドさんですね。シールとゼッケンになります」
軽くトレーニングをした後、ヴァージンはマゼラウスと合流し、受付を済ます。出場選手一覧を見ると、そこにはヴァージンのよく知るライバルの名前が大量にあった。世界記録を持つメドゥ、同じアカデミーのライバルであるグラティシモ、1月のインドア大会で敗れてリベンジに賭けるはずであろうバルーナ、リングフォレストでの大会で表彰台を懸けて競い負けてしまったウォーレット、それにシェターラ……。その他にも世界でその名が知られているライバルの名前がたくさんあった。メンバーを見たマゼラウスが、思わず世界競技会レベルの戦いになりそうだと呟くのを、ヴァージンははっきりと耳にした。
ライバルたちの持つ自己ベストを見る限り、ヴァージンはこの中ではまだまだ小粒と言わざるを得なかった。だが、公式な記録ではないにしても、ヴァージンは今年に入って安定したタイムを叩き出している。大会に参加しなかった2ヵ月半の間に、14分30秒を切ったことが3回、一度だけ27秒台を叩き出したこともある。
メンバーを見て、逆に勝利が見えてきた、とヴァージンは悟った。大会のたびに勝利を引き寄せたいと願う彼女も、この日に限っては特にその想いが強かった。
ロッカールームに荷物を入れるだけで、ヴァージンはスピードスターの白いトレーニングシャツを着たまま、薄青のトラックへと続く階段を駆け上がった。トラックでは男子10000mが行われているようだが、受付でその名前を見たライバルたちは、コーチの見守る中で最終調整を進めていた。
(メドゥさん……)
ヴァージンよりも少し濃い金髪を、静かな風に靡かせる。1年3ヵ月ほど前、最初に出会ったときの姿よりも、体はより一層引き締まっており、女子長距離走の世界にその名を知らしめるにふさわしい強さを見せていた。
メドゥの自己ベストは、14分23秒05。イコール、ワールドレコード。スタジアムやメディアでメドゥの姿を見る誰もが、1年半遠ざかっている世界記録の更新を思っているのは、ヴァージンにも分かっていた。だが、そのヴァージンも、非公式ながら世界記録まであと4秒あまりのタイムを叩き出している。
不意に、メドゥと目が合った。お互いが同時に目を細めた。
(私は、メドゥさんに勝てる。絶対に勝てる……!)
そして、女子5000mに出場する15名の招集がかかり、ヴァージンは白のトレーニングシャツをベンチに置く。そして、メドゥやグラティシモから少し離れてスタートラインへと向かった。すぐ近くをシェターラが歩いていたが、これまでのようにスタート前のわずかな時間でライバルと話すことはしなかった。もはや、ヴァージンは本気だった。
いつものようにウェイティングラインに立ち、ビジョンに映し出すためにカメラマンがトラックの外から内へと移動していく。相変わらず、ヴァージンの目の前で止まるようなことはない。相変わらず、立ち止まるのはメドゥやグラティシモの前だけだ。
(私だって、トップアスリート。それを、今日証明する)
「On Your Marks……」
ついに、その時間が来た。ヴァージンは、半ば跳ねるように外側にあるスタートラインに向かった。
この15分後、ヴァージンの運命が大きく変わることを、スタジアムにいる誰もが知らなかった。