第1話 世界を夢見るアメジスタの少女(4)
次の日曜日、ヴァージンは朝早く家を出て、アメジスタの首都グリンシュタインへと自転車で向かった。
グリンシュタインは、世界一貧しいと言われるアメジスタの中でも、唯一と言っていいほどまともな都市で、二階建てのレンガ造りの家が所狭しに立ち並び、街路には石が敷き詰められていた。
ヴァージンの5歳年上の姉、フローラがグリンシュタイン中心部の総合病院に勤めているので、姉の仕事ぶりを見にジョージに連れられてきたことは何度かあったが、一人きりで人通りの多い賑やかな場所を通ることはヴァージンにとって初めてだった。
(でも、どこか悲しい感じしかしない……)
ヴァージンは、ふと家と家の間にできた人ひとり分の薄暗い通路を見て自転車を止めた。そこには、家も職もない半袖一枚の男性が、寒そうにうずくまっていた。こういう時、姉のフローラなら思わず立ち止まって手を差し伸べてしまうのだが、ヴァージンにその勇気はなかった。
世界一貧しい国の、その中でも生きていくのが精一杯の人々。その数は、立ち並ぶ家の数をはるかに超えていた。聖堂に近づくにつれ、路地でうずくまる人の数は急激に増えていった。
(生きる希望すら失った彼らの中には……、もしかして……)
そう思って、ヴァージンは首を横に振った。ジョージが、アメジスタでアスリートを目指すこと、イコールこのような寂しい人生につながる、と言っている。それだけは、何としても彼女は否定しなければならなかった。
その時、遠くの方で鐘の音が1回、2回と鳴り響く。ヴァージンは嫌な予感がして、人通りの多い道で自転車を飛ばした。鐘の鳴る方へ、その音だけは確かめながら、ヴァージンは急いだ。
「ハアッ……、ハアッ……」
最後の鐘が鳴りやんだとき、ヴァージンは奇跡的に聖堂の真下にいた。長距離走を得意とする彼女にとって、自転車とは言え短距離で力を爆発させることは、普段と違って途中から息苦しく感じた。100mや200mになると陸上部でも下の方に甘んじてしまうことを、ヴァージンは身をもって気付いてしまった。
その時、乱れた呼吸に絡みつくように、透き通った声がヴァージンの耳に飛び込んできた。
「君かな……?僕の会ってみたい人」
「えっ……?」
ヴァージンは、下に傾けていた首を持ち上げて、視線を少し左に向けた。そして、思わず口を開けた。あの時見た、甘い表情の男性が変わらない姿でヴァージンを呼んでいた。ヴァージンは道端に自転車を止めて、急いでアルデモードに顔を向ける。
「アルデモードさん!」
ヴァージンは、半年以上顔すら見られなかったアルデモードに、思わず飛びついて、一粒だけ涙を流した。その子供に戻ったヴァージンの姿に、アルデモードは柔らかい唇を軽く開いて微笑んだ。
「君が本当に10時に来るとは思わなかったよ」
「ううん、アルデモードさんに会いたかったから!」
「そうか。僕も」
そう言うと、アルデモードは手を繋ぎ、聖堂を見上げた。土の色に染まった二つの塔が、挑み続ける心を備えた二人を優しく見つめていた。
「君は、この聖堂に来たことある?」
「……ありません。ここまではまだ、連れてきてもらったことがないので」
「そっか……。君の家って、結構ここから離れてるもんな……」
そう言うと、アルデモードはヴァージンに視線を戻し、軽くうなずいた。
「あのね、アメジスタは貧しい国って、君も聞いてるよね」
「……はい」
「だから、こんな宗教ごとにも国は普通お金を出さないんだ。でも、ここは別。グリンシュタインで生きる希望を失った人の、唯一の心の拠り所だからって、何十年も前にお金をかけて作らせたんだよ」
「心の拠り所……って、どういうことですか?」
突然、抽象的なことを言われて中等学校2年のヴァージンは戸惑った。すると、アルデモードは大きくうなずいて、腕を彼の右後ろに伸ばした。
「ほら、あの通りを見てごらん。座り込んでる人がいっぱいいるだろ」
「さっき、私もそう思いました。何か寂しそうだなって」
「僕もそう思うよ。家も仕事もなく、何を頼って生きていけばいいのか、彼らにはもしかしたら分からなくなっているかもしれない」
そう言うと、アルデモードは腕を戻し、聖堂の塔を指差した。
「そういう時に、この聖堂に祈りを捧げるんだ。そうすれば、いつか救われるんじゃないかなって。だから、この聖堂があるんだ」
「何か……、この聖堂がすごい力を持ってるような、そんな気がします。だって、たくさんの人の心を動かすんだから」
ヴァージンは、そう言ったきり聖堂を見上げた。緑と赤で彩られたステンドグラスに、眩しい光が照らしだされていた。その反射した光が、わずかながら希望を失った人々に降り注いているように、ヴァージンには見えた。
その時、ヴァージンの耳にアルデモードの優しい声が囁いた。
「僕たちも、本当はそれができるはずなんだ。みんなを突き動かす力っていうか」
「僕たち……って、もしかして私も入るんですか?」
「もちろん。ほら、君だって何かに憧れて世界を目指してるんじゃなかったっけ」
「……はい。私の憧れのアスリートは、たくさんいます」
ヴァージンの目には今見えないはずの、メドゥや雑誌に載っている選手の表情がくっきりと浮かび、アルデモードに重なっていた。
「ほら、僕らだって世界に認められれば、僕らのようになりたいって思えるじゃん。今は、そう慕われる身じゃ……ないんだけどね」
ヴァージンを見守るように、優しく微笑むアルデモード。その視線がいつになく輝いているように、ヴァージンには思えた。
(なんて素晴らしい人なんだろう……)
「で、君に今日はどうしても連れて行きたい場所があるんだ」
「え?どこにですか?」
突然アルデモードの口が開いたので、ヴァージンは少しだけ戸惑った。アルデモードはヴァージンの右手を握りしめたまま、いつの間にか聖堂に背を向けていた。
「ここから、ちょうど5000m離れたところに、総合公園があるんだ。そこを見て欲しくて」
「総合公園……?ちょっと分からないです」
公園というくらいなのだから、たいそうなものだろう。まだ中等学校のヴァージンはそこまでしかイメージできなかった。アルデモードはヴァージンが聖堂に背を向けるのを待って、手を繋いだまま歩き出した。その手は普段以上に温かかった。
やがて、聖堂から通りを二本横切って、幅が10メートルもあるような広い通りにぶつかった。アルデモードは、そこまでヴァージンの右手を握りしめていたが、そこで優しく振りほどいた。
「君はたしか陸上をやっていて、しかも長距離を走るのが専門じゃなかったっけ」
「はい」
ヴァージンはやや見上げるようにして、アルデモードの表情を見つめた。アルデモードはヴァージンに軽く笑顔を見せて、こう続けた。
「君の本当の実力を、僕は知りたいなって思うんだ」
「もしかして、これから走るとかですか?」
「そう。総合公園は、ここを左に曲がってずっと真っ直ぐなんだ。どうだい、僕と公園まで走ってみない?」
「え……、いいですけど」
ヴァージンは戸惑った。陸上部でも、男子と女子は別々に練習をしていて、5000m走で同じトラックを使っていたとしても、同時にスタートするようなことはまずない。女子に比べて、男子は1周くらいの差をつけてしまうほど速い。身体能力面で違いがあることは、ヴァージンですら認めていた。
「もしかして、僕が相当速いって思ってるでしょ。サッカーやってたぐらいなんだからって」
「そう……ですね。でも、アルデモードさんとだったら、勝負してもいいかな、って少しは思っています」
「じゃあ、その本気の力を見せてよ。僕らは、勝負師だろ」
アルデモードの目がきらきらと輝いているのを、ヴァージンは感じた。
「うん……。5000mだったら、私は負けないから」
ヴァージンは、大きく息を吸い込んで歩道を踏みしめ、アルデモードの合図を待った。
3,2,1……とアルデモードがカウントダウンすると、トレーニングウェアでないヴァージンの心も、一気に燃え上がり、アルデモードとほぼ同時に石畳の大地を蹴った。
ヴァージンは、アルデモードにぴったりついて、相手のペースを伺っていた。しかし、グリンシュタインの中心部を抜けて人通りが途絶えると、アルデモードは急速にピッチを上げていき、ついて行こうとするヴァージンを次第に振り切っていった。
(私は……、アルデモードさんには負けたくない!)
ヴァージンは、目を細めて首を横に振り、総合公園が見えてこないにも関わらず一気にスピードを上げた。それでも、アルデモードの姿は少しずつ遠ざかり、差を広げられていく。
そして、アルデモードの姿はヴァージンの目から完全に消えてしまった。それが実力の差だった。
「アルデモードさん、速いです」
「僕だって、君には負けたくないよ。でも、こうやって1分以上も差をつけられると、悔しいって思うでしょ」
「思います。いつか、前に行きたいって」
「それでこそ、未来を夢見るアスリートの姿だよ」
ヴァージンは、荒い呼吸の中で悔しさを滲み出していた。目の前にいるアルデモードの肉体が、自分よりはるかに鍛えられているようにさえ思った。
「で、君に見せたかったのはここなんだけどね……」
アルデモードは、ヴァージンの呼吸が落ち着くのを待って、ゆっくりと総合公園の中に入った。1分ぐらい歩くと、鉄格子で囲まれたスタジアムのようなものが二人の前に現れた。
見るからに荒れていた。
「これ……?」
「うん。僕たちの……いるべき場所は……、今こんな状態なんだよ」
「そんな……」