第80話 女王凱旋(6)
号砲が鳴り、18人の選手が一斉に、5000m先のゴールへと飛び出す。
(トレーニングでは、調子を取り戻してきている……。世界記録を狙っていた時に当たり前のように出せていたラップ68秒も、ほぼ近いタイムに戻ってきている……。それを、本番で出せないわけがない……)
最初のコーナーを抜けようとするとき、ヴァージンは早くもラップ68秒のペースまで上がっていた。だが、それよりも前に、5人の選手が先頭集団に作っていた。その集団を引っ張るのが、今や13分40秒の壁をも破るウィンスターと、その後ろにぴったりと付いているプロメイヤだ。
(あの走りは、間違いなくラップ66秒台前半……。スタインオリンピックで見せた走りを、あの二人は今日も見せている……。それでも、私は一番得意にしている戦術で挑むだけだから……)
1500mというバックボーンが定着しているウィンスターはまだしも、プロメイヤはウィンスターの登場で、半ば強制的に中距離走的な走り方に変えられている。ウィンスターがいなかったリングフォレストでのレースでは別次元に思えたプロメイヤの後ろ姿も、それよりも「強い」ウィンスターとセットでは、ヴァージンには苦しそうにしか見えなかった。
(ウィンスターさんは、プロメイヤさんがぴったりついているうちは、きっとペースを緩めないし、そのまま次の世界記録との勝負を始めそう……。でも、勝負は何が起こるか分からない……)
最初の1周を、ヴァージンは狙った通り68秒ちょうどで駆け抜け、最初の1周で先頭集団から脱落した選手を追い抜きにかかった。2周目の後半に入ると、先頭集団が早くもウィンスターとプロメイヤだけになり、その後ろをヴァージンが追走する形になった。
(この二人が、この先どう動いてくるか……)
昨年のオリンピックでは、ウィンスターが1000mあたりから軽くスピードアップを決め、そこで実力的にヴァージンと並ぶようなライバルが次々と追いかけるようになった。この日もウィンスターが世界記録を狙うとすれば、早い段階から仕掛けてくる。ヴァージンは真っ先にそう読んだ。
だが、1000mを過ぎ、1200mを過ぎても、ウィンスターのペースがラップ66.3秒から上がっていかない。さらに、ペースを維持するウィンスターの後ろで、プロメイヤが徐々にペースを落とし始める。ヴァージンの見た目ではラップ67秒台にまで戻ったようだ。
(前の二人の動きが、そこまで激しくない……。あの時に比べたら、ライバルと言えるような選手も少ないし、プロメイヤさんまで後ろに下がっていくと、あとは独走状態になっているウィンスターさんが、そこまでスピードを出さずに済むのかも知れない)
だが、ヴァージンのこの読みは、いい意味で裏切られる。そのことをヴァージンは、レースの最後に気付かされるのだった。
ヴァージンが、2000mを5分42秒ほどで駆け抜ける。ウィンスターが5分32秒から33秒ほど、プロメイヤはそこから4秒ほど遅れる形になった。これまで何十回と女子5000mのレースに挑んできたヴァージンも、ここまではっきりと集団が見られない展開はそれほどなかった。ヴァージンも、4000mまで後ろにぴったりつけられていたり、逆に4000mまで前の二人がぴったりと寄り添っていたりする展開を見ることが多く、この日のような展開を思い出すだけでも一苦労だった。
(でも、逆に二人まとめて追い抜かなきゃいけないってことがないから、勝負を仕掛ける私としては、すごくいい展開かもしれない……)
ヴァージンの脳裏に、ふと一つの決心が固まった。その瞬間、彼女は心の中で息を飲み込んだ。
(私、今日こそウィンスターさんに勝ちたい……。そのために、私はトラックを走っているのだから……)
世界のトップアスリートに憧れて、たとえ手も足も出なくてもその背中を追い続け、世界記録を手にしても圧倒することはできず、ほとんど実力の変わらないライバルと世界記録の両方を追い続けなければならなかった。
ヴァージン・グランフィールドは、トラックの上では常に「挑戦者」であり続けた。そして、この日も――。
――イザベラ・ウィンスター選手と私の、どちらが本物の女王か、最後に決めさせてください。
(今日こそ、ウィンスターさんの背中に追いつく……。私は、最後まで女王を貫くって決めたんだから……!)
ヴァージンは心なしか、ペースが速くなっているように感じた。ラップ68秒を大きく上回っているわけではないものの、2000mまでに少しずつ遅れ始めていたタイムを戻すには十分すぎる力だった。
そして、ヴァージンは同時に、ウィンスターのペースが少しずつ落ち始めているのを、その目で見た。
(67秒近くになっている……。早々にプロメイヤさんが後ろに下がったから、もしかしたら今日は世界記録を狙わないと決めた……。レースに勝つだけで、文句なしに女王だから、それを狙っているのかも知れない……)
ヴァージンとの距離は広がっているが、オリンピックの時のように130m差をつけられるような展開ではなさそうだ。実際、昨年130m差をつけられた3000mで、ヴァージンとウィンスターのタイム差は15秒。二人の間は90m近くで、まだヴァージンにも勝ち目があるような数字だった。
(100m差に広げられなければ、私はひっくり返せるかもしれない……)
ヴァージンの目が、少しだけ細くなる。3200m、3400mと、スパートを決める時間が近づいてくる中で、彼女は、ウィンスターの背中を追うための作戦を考えた。
だが、考えたところで、彼女に付きまとう一つの事実は変わらなかった。
(あと1500m走れば、私の現役生活は終わる……)
勝利への展望が開き始めていたトップアスリートは、再び視界が暗闇に包まれようとした。
だが、ほぼ同時にスタンドから歌が聞こえた。
それは最初、たった一人のアメジスタ人が発した歌で、その歌声が二人、三人と、徐々に大きくなっていった。
――ジ・ルン・ブラウズ・ウアールド・トゥ・フェイマ
(その走りは風となり、世界じゅうにその名を響かせる)
ジ・ルン・セインズ・ウアールド・トゥ・カレッザ
(その走りは光となり、世界じゅうに勇気を届ける)
ブア・アメジスタ・ドリーマ・アンズ・ボープ
(君は、アメジスタの夢、そして希望)
ブア・シムボル・オブ・アメジスタン・ハルト
(君は、アメジスタの気持ちを一つにする存在)
ブア・ルン・ワンダズ・アンブラッカ・レコルド
(誰も破れない記録へ、みんなをワクワクさせる走り)
ウイ・ブレズ・ブアル・ブラーバ・チャレンズ
(君の勇気ある挑戦を、今こそみんな讃えよう)
グォ・ヴァージン!グォ・レコルドブラッカ!
(行け、ヴァージン!新たなる世界記録へ!)
グォ・ヴァージン!グォ!
(行け、ヴァージン!さぁ!)
(アメジスタ語で、アメジスタのみんなが歌う……、私の応援歌……!いや、私のアンセム……)
ヴァージンは、その歌がスタンドから流れているうちから、体が軽くなったように感じた。スタジアムの内外で、世界じゅうからたくさんの声援を受けたヴァージンにとっても、生まれ育ったアメジスタから直接受ける温かい声は、何よりも特別で、何よりも力になるものだった。
歌い終わってもなお、スタンドから「ブラーバ・スパート!」(勇気のスパートを!)など、ヴァージンを後押しする声は絶えない。
その中で、ヴァージンは決断した。自分は、まだ走れると。まだ諦めてないと。
自分は、最後までアメジスタを一つにしたいと。
その声援に後押しされたかのように、ヴァージンは3800mから「フィールドファルコン」をトラックに力強く叩きつけ、ラップ65秒近くまで一気にスピードを上げた。
(泣いても笑っても、これが最後のスパート……!だから、出せる限りの力を、みんなの声に返す……!)
4000mを11分21秒で通過。ここで、ヴァージンはついにプロメイヤの背中を捕らえ、ウィンスターの後ろ姿をコーナーごしに見た。ウィンスターのペースは、さらに衰えていた。
(ウィンスターさんが、孤独の中を走っている……。まるで、世界記録に悩んでいた時の私とそっくり……)
ヴァージンは記録に悩んでいても、世界記録への挑戦をためらわなかった。その世界記録を立て続けに失った時期は別としても、彼女が打ち立てた数多くの記録が、世界の頂点で「孤独に」走らなければならない彼女の、心の支えになっていた。そして、世界記録との決別を誓った後でさえ、彼女は数多くの記録を打ち立てたトップスピードへの加速をためらわなかった。
一方で、今やウィンスターは「裸の女王」のように、ヴァージンには見えた。1500mも5000mも並ぶ存在がいないはずのウィンスターは、本当の意味での成功が少ない分、孤独だった。
ラップ67秒を確実に割り始めたウィンスターの背中が、90m、80mと狭まってくる。
(抜けるかも知れない……!)
4200mを駆け抜けたヴァージンは、再びペースを上げた。今度はラップ62秒でウィンスターの背中に挑む。
ここで、ウィンスターが後ろを振り返り、ストライドを大きく取った。一度67秒台中盤まで落ちたペースを取り戻そうとするが、あまりペースが上がらない。
(ウィンスターさんが、苦しそう……。こんなウィンスターさん、初めて見たかもしれない……)
それでも、残り2周弱で何とか逃げ切ろうと、ウィンスターが懸命に体に鞭を打つ。そして、12分44秒で先にラスト1周の鐘を鳴らした。
それが、アメジスタ全体の気持ちがさらに高まる瞬間だった。
スタジアム全体から「グォ・ヴァージン!」の声援が鳴り響き、最後の力をヴァージンに送り続けた。
(私は……、ウィンスターさんに勝てずに、アスリートを終えたくない……!)
そのヴァージンの意思とともに、「フィールドファルコン」の「翼」が、アメジスタの誰もが知るトップスピードへと力強く羽ばたいていった。ラップ55秒にまで駆け上がったその脚は、周回遅れの選手をあっという間に後ろに置き去りにし、「宿敵」へとひたすら「飛び」続けていく。
――グォ!ヴァージン!
残り200mで、30m差。一気に近づいてくるウィンスターの背中を見て、ヴァージンは勝てると確信した。
(私は……、絶対にウィンスターさんを抜く!)
ラスト30mで、ついにヴァージンはウィンスターの背中を捕らえた。数多くの世界記録を共にした「フィールドファルコン」が、その圧倒的な戦闘力で、世界最速の脚を持っていたウィンスターを「貫いて」いった。
スタジアムが最高の盛り上がりを見せる中、ヴァージンは体一つだけウィンスターより前に出て、5000mを駆け抜けた。
(ここまで楽しく走れたの、久しぶりのような気がする……。最後、アスリートの本能に火が付いた……)
全力を出し切ったヴァージンは、「いつもの癖」で記録計の前に進む。そこには、世界記録に遠く及ばないものの、13分51秒28という、ヴァージン自身が出した記録がはっきりと刻まれていた。
(やっと、ウィンスターさんに勝てた……!)
世界競技会では成績を残せなかったヴァージンにとって、これが8年ぶり2度目の優勝。それも、アメジスタ人が見ている前で、もはや誰も破れない存在となったウィンスターを破るという、おまけという言葉では語れないほど重要な意味を持つ勝利だった。
スタジアム全体が、ヴァージンの勝利を大声で喜んでいた。
そこに、ウィンスターが2ブロックブレイズの髪を汗でくしゃくしゃにしながら、ヴァージンの前にやってきた。ウィンスターは、泣いていた。
「ウィンスターさん……」
「グランフィールド……、私はやっぱり、あなたを永遠に女王と認めなきゃいけない……。今日の私は弱かった」
「弱いなんて、そんなことないですよ。ウィンスターさん、最後まで勝利への執念を見せてました……」
ヴァージンは、普段と同じように軽い言葉でウィンスターをねぎらった。すると、ウィンスターは首を横に振って、「そうかも知れないけど……」と前置きを入れて、ヴァージンに告げた。
「グランフィールドは、スタジアム全体を不思議な空気に変えられる。世界記録への期待だったり、アメジスタからの大きな後押しだったり……。私は、タイムや連勝記録だけで自分を女王だと思っていたけど、グランフィールドは、それをはるかに超える、偉大な女王……。スタートラインに立ったときの注目度が、全く違う……」
(私も今日、あのアンセムを聞いて、同じことを思った……。ただ単に、ここがホームだからじゃない……。私は世界じゅうの期待を背負って走り続けてきたんだと、今更だけど思い知った……)
ヴァージンは、言葉をうまくまとめることができなかった。その間に、ウィンスターに先を越された。
「今までお疲れ様。もうグランフィールドと戦えないと思うと、私は本当に悲しい」
ウィンスターが、軽くヴァージンの肩を叩き、女子5000mの未来へと歩き出した。
その後ろ姿は、今まで見てきたどのウィンスターよりも、女王になりたいという気持ちを背負っているように見えた。