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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
アメジスタのレコードブレイカー ラストラン
498/503

第80話 女王凱旋(5)

 グリンシュタイン世界競技会9日目、最終日。

 ヴァージンの出場する女子5000mが最終日に組まれることも世界競技会では初めてだが、それが全日程の最後の種目になることは、世界競技会の歴史を辿っても一度もないと言ってよかった。

 ヴァージンが、このレースを最後に引退する。それを知った上でこの日程を組んだことは間違いなかった。

「イリス……。勿論、私の最後のレース、見に来てくれるでしょ?」

「勿論です。僕の憧れの存在が、最後のレースに挑むのですから……。と言うより、僕はその後のセレモニーがあるので、トラックの周りにいますけどね」

「セレモニー……。私の、引退セレモニーってこと……?」

 ヴァージンが聞き返すと、イリスは何度かうなずいた。

「きっと、グランフィールドさんが今まで大事にしてきた人たちも、トラックの外から静かに見守ってますよ」

「今まで大事にしてきた人たち……。そう言われると、ものすごく緊張する……。いったい、誰なんだろう……」

 同じ種目で走るライバルを除けば、イリス以外に現役アスリートで思いつくような人はいなかった。

(気にしちゃいけないか……。今は、レースに集中して、全てが終わったら思い切り引退セレモニーを楽しもう)

 ヴァージンはうなずいて、ウェアとシューズ、ボトルなどが入ったバッグを持ち上げる。最後のレースが行われるスタジアムに、軽々とした足取りで踏み出していった。

「行ってきます!」


 ヴァージンは、会場となるスタジアムに入った。ここ数日はサブトラックで軽くトレーニングをすることが多く、意識的に通らなかった中央入口から会場に足を踏み入れた。

 開幕前からつけられている「グリンシュタイン・アメジスタ国立陸上競技場」のビニールテープや、像を覆っているブルーシートは、世界競技会最終日になってもそのままだった。

(これが取れて、初めて完成のような気がするのに……、いつ取れるんだろう……)

 ヴァージンは小さくため息をついて、中に入った。だが、この日彼女が足を踏み入れた瞬間、これまでの8日間とは明らかに空気が変わっていることに、彼女は真っ先に気が付くのだった。

(スタジアムが、今まで見たことのないくらい、躍動しているように見える……)

 世界で戦う陸上選手になって20年、ヴァージンは様々なスタジアムに足を運び、二度と同じ表情を見せない熱気の中で走り続けてきた。そのヴァージンでさえ、ここまで何かがうごめいているような会場を見たことはほとんどなかった。

(少なくとも、4日目のブラッカさんで人が集まった以外は、ほとんどこのスタジアムが盛り上がらなかったし、ここ数日はスタンドに行ってもガラガラだったのに……、アメジスタのみんなが、今日この瞬間を見るために足を運んでいる……)

 ヴァージンが走るから、スタジアムに人が集まる。それは、彼女の耳でさえも何度聞いたか分からないほどの言葉だった。実際は、ヴァージンが出る、出ないでそこまで大きく人数は変わらず、ヴァージンに対する声援の多さで見かけ以上に多く見えてしまう、ということもあるほどだった。

 だが、今日この日だけは違った。間違いなく「ヴァージンを見に来た」という人々で溢れている。

(アメジスタのみんなのために、私は今日、今までで一番の走りを見せたい……)

 メディアのカメラに見送られながら選手受付に行き、ロッカールームに向かいシューズとウェアを出す。体で覚えたその流れと、今日でお別れとなることを、ヴァージンは意識すらしなかった。

(それが……、今まで20年間、私が続けてきたことなのだから……)

 選手だけが入ることのできるサブトラックに、ヴァージンはレーシングトップスに薄手のパーカーを着て向かった。競技日程も最終盤に近づいてきたからか、サブトラックに選手の姿はほとんどなく、遠くにウィンスターやプロメイヤなど、ヴァージンと同じレースに出場するライバルたちがはっきりと見えた。

 ヴァージンが、サブトラックを流れるように3周する間にも、ヴァージンの耳にはメインスタジアムから大きな歓声が聞こえてきた。だが、それは普通の歓声ではない。時間を追うごとに、誰かを待っているような祈りにも近い声になり始めていた。

(本番まで、あと1時間……)

 少しずつ夜が更けてくるアメジスタの空を、ヴァージンは見上げた。そして、ゆっくりとメインスタジアムに向かった。


 選手専用エリアに入るときでさえ、その周囲でアメジスタの人々がヴァージンを待っていた。彼女は、右手を小さく振りながらその声に応えたが、これからその中に立ち入ろうとするスタジアム全体の雰囲気は、それとは比べ物にならないほど大きなものがうごめいていた。

(スタジアムの中で、どれくらいのみんなが私を待っているのだろう……)

 勝負のトラックへと続く、真新しい通路。それさえも、床が薄い青色に塗られていて、始まる前から集中力を高められるつくりになっている。そして、そこから1段、2段と階段を上がり、外に出た。

 その瞬間、正面で何人かのアメジスタ人がヴァージンに向けて手を大きく手を振り、「ヴァージン!」と叫ぶ。それを合図にスタンド全体がヴァージンを探し始め、その姿が見えた途端に「おかえり!」などと体と口で伝え始めた。


――おかえりなさい!ヴァージン・グランフィールド選手!

――全てのアメジスタ人が、このスタジアムにグランフィールド選手がやって来る日を待っていました!

――アメジスタが生んだ、長距離の女王!

――アメジスタに勇気や希望を与え続けたその走り、今日も見せてくれよ!


(みんな……)

 満員のスタジアムから溢れかえる声援、横断幕、そして体を使っての祝福に、ヴァージンは思わず立ち止まった。スタンドにいる人の大半、いや、全員と言っていいほどの観客が同じアメジスタ人だと、その地で生まれ育った彼女にはすぐ分かった。

 誰もが、世界にその名を遺した、同じアメジスタ人の「帰り」を待っていた。

(なんだろう……。アメジスタで、初めて公式のレースをやるだけなのに……、こんなにも嬉しいなんて……)

 どのアスリートも「生まれ育った国」でのレースに特別な想いを寄せている。だが、祖国にクラス1のスタジアムどころか陸上競技場すらなかったヴァージンには、これが、最後にしてやっとたどり着けたチャンスだった。

(私……、この場所で絶対に結果を残す……。みんなの応援が、ものすごい力になりそうな気がする……!)


 ヴァージンは、歓声が鳴りやまない中、最後のレースの集合場所にゆっくりと向かった。

 そこには、昨年ヴァージンが女子5000m最速の称号を譲り渡したウィンスターが待っていた。ウィンスターは、スタンドを何度か気にしながら、ヴァージンに向かって静かに告げた。

「ここは、完全にアウェーね。今まで一度もレースをしたことのないアメジスタで、アメジスタのグランフィールドを応援する声が高いのは仕方ないことだと思うけど……、それにしても声が大きい」

「アメジスタで、私の名前を知らない人なんかいないですから。でも、きっとウィンスターさんのことを知っているアメジスタ人も多いと思います」

 ヴァージンは、自らの緊張を解き放つようにウィンスターに笑ってみせた。

「今日はそんなようには聞こえない。グランフィールドが一番分かっているでしょ」

「そんなことないですよ。アメジスタのみんなは、私の走る女子5000mを見て、そこに私以上の実力を持った選手がいるということも、きっと分かっているはずです。私をきっかけに、みんなが興味を持っていると思います」

「そう……」

 ウィンスターが、ヴァージンを静かに突き放す。もう3年以上、5000mでも1500mでも敗北のないウィンスターが、この時は初めて焦っているように、ヴァージンには見えた。

(この、いつもと違う空気の中で、私とウィンスターさん……、それにプロメイヤさんなどたくさんのライバルがいる中で、本物の女王を決めるレースが始まる……)

 ここ数ヵ月、トレーニングでは13分55秒を何度も切れるところまでタイムを戻した。13分39秒98の世界記録を持つウィンスター、44秒36のハイペースを間近で見たプロメイヤの背中は、自己ベストだけを見ればまだ遠い。だが、ヴァージンはこの「場」の力を心の中で信じ始めた。

(私が36年間生きてきて、やっぱりアメジスタの風の中で踏み出すのが、一番走りやすい。それに、みんなが私のことを後押ししている……。だから、今日こそは……、ここ数年の自分を取り戻せる走りができるかも……)

 ヴァージンの名を呼ぶ声は、まだ続いている。


 グリンシュタイン世界競技会、最終種目。女子5000m。

 世界最速を駆け続けてきた一人のトップアスリートが、最後の挑戦に旅立つ。


――ヴァージン・グランフィールド!アメジスタ!


 大型モニターに自らの顔と名前が映り、客席が一気に盛り上がる。それさえも、ヴァージンの脚を突き動かす力へと変わっていく。その中で、ヴァージンは最後に、レーシングトップスを見つめた。

 赤・金・ダークブルーの3色で綴られた、自ら背負い続けてきた国が、そこにあった。

(私は、アメジスタのアスリート。だから私は、みんなの前で全力を尽くしたい……!)

 ヴァージンは、スタートラインに立った。勝負が始まる。

「On Your Marks……」

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