第80話 女王凱旋(3)
大半のアメジスタ人が帰った後に行われた男子100m決勝。スタジアムがスカスカなだけあって、逆に世界から注目されている選手の名前がヴァージンの耳に響いてくる。その中でも、集中的に名前が呼ばれるのが、決勝では3レーンを走るイリスだった。ナイトライダーが世界競技会を前にして引退したことで、男子100mに絶対と呼べる選手がいなくなる中、世界記録を持っているという点でイリスが注目されているようだ。
(アーヴィングって名前で呼ばれているし……、いよいよ本当にイリスの時代が来たのかも知れない……)
他にも、ここ数年イリスと顔を合わせているジェラトールや、昨年のスタインオリンピックで3位に飛び込んだ、ネザーランドの細身の選手、ライプスといった新しいライバルの名も呼ばれている。それらは全て、アメジスタの外から来た陸上ファンから名前が告げられ、自国の選手がいなくなっても残っているアメジスタ人の観客がその名前を書き写しているようだ。
そして、準決勝と同じように選手の名前が告げられる。今度は少しずつ拍手も聞こえてくる。
(みんな、陸上の観戦の仕方、覚えてきたのかも知れない……)
「On Your Marks……」
一人、また一人とアメジスタ人に名前が知られた選手たちが、スタートラインに立つ。観客の何割かが、自分の応援したい選手を心に留めておく中、ヴァージンはその成長を見守り続けてきたイリスに、祈りを捧げた。
(イリスは……、きっと決勝でより強い走りを見せてくれる……)
今や、世界最速のスプリンターとなったイリスが、スタートラインに静かに手を置いた。
そして、ヴァージンが一息ついた直後に、真っ直ぐなトラックに向かって、一気に飛び出していった。
「イリス……!」
ヴァージンが初めて出会った時から、前に出ようとする勇気を感じたアスリートが、この日もライバルたちを一気に引き離すダッシュを見せる。勇敢な獣にも例えられる彼が、早くもスタジアムを貫く風となり、他のレーンに溢れる光を後ろに追いやっていく。
(イリスが、絶対のライバルが隣にいるかのように、強く、たくましく走っていく……!)
ライバルたちがそのパワーで懸命にイリスの背中に並ぼうとするが、イリスの力強いストライドがそれすらも跳ね返していく。世界最速の脚を持った彼に、もはや世界記録以外の敵はいなかった。
(なんか……、今までで一番速いテンポで足を踏み出している……。きっと、いけるはず……!)
ヴァージンは、イリスがゴールラインを駆け抜けた瞬間、世界記録を確信した。そして、それは形となった。
9秒39 WR
ヴァージンが見慣れた2文字のアルファベットが大型モニターに映った時、スタンドがざわついた。
――WRって、たしかヴァージン・グランフィールドのレースでよく見る……、世界記録ってやつじゃねぇのか?
――まさか、今日こんな場所で世界記録を見られるなんて思わなかった!俺たちにとって夢のようだ……!
(みんなが、イリスの名前を呼んでいる……。素直にイリスの走りを讃えている……。少なくとも、今日、イリスはアメジスタのみんなに知られるようになった……)
同じ男子100mのフェリアーノ以外、どこの国の選手かも分からずに見始めた人が圧倒的に多い中、世界最速の走りを見せつけたアーヴィング・イリスが、アメジスタ人にその名を知られる存在となった。
(みんな、こうやって世界のレベルと、その頂点に誰が立っているかを覚えていく……)
ヴァージンは心の中でうなずき、夫・イリスを待つために選手専用エリアの出口に向かった。
その後も、ヴァージンは毎日スタジアムに向かった。像と思われるものにかかっていたブルーシートなどは、大会が進んでもそのまま放置されていた。
女子200mや男子10000m、男子やり投げなどが行われる2日目は、アメジスタからの出場選手がいないからか、前日の男子100m決勝の時よりも少なく、客席の5%ぐらいしか入っていなかった。
3日目は、男子110mハードルの予選があり、アメジスタからハンス・ハネルソンが出場したものの、予選4組最下位で終わった。その直後に行われた男子5000m予選でも、ガブリル・ディヌスがただ一人先頭から2周遅れとなり、その時点で3割ほど埋まっていた観客が静まってしまった。ディヌスがボロボロになってゴールすると、会場はまばらな拍手と、帰り支度をするアメジスタ人の洪水に包まれた。
アメジスタ人は、パフォーマンスではなく結果しか見ていないように、ヴァージンには映った。
アメジスタにとって重たい空気が変わったのが、4日目だった。
この日は、ともに18歳のリナ・ブラッカと、アマンディ・ガロンが女子棒高跳びに出場する。前日、アメジスタ人の惨敗が目立ったのか、この日はスタンドに座る人の数も2日目よりもさらに少なくなっていた。選手専用チケットを係員に見せる時に、アメジスタ人からもキャンセルが出始めているという話すら聞くほどだった。
(アメジスタからも二人も出るのに……)
ブラッカもガロンも、参加標準記録ギリギリの記録しか出ていない、と二人そろって壮行会で言っていた。それもあって、まるでこの二人に期待をするだけ無駄と言うアメジスタ人でも生まれてしまったかのようだった。
(でも、何が起こるか分からないのが本番なのだから……)
二人の同級生や同郷の住民以外にアメジスタ人がいない中で、フィールド内で、女子棒高跳びが始まった。出場選手がそれほど多くないため、予選がなく、出場する全ての選手が、この日跳んだ高さで順位がつけられる。
(まずは、4m40cm……。たしか、世界競技会の参加標準記録だったはず……)
レース中を含めて何度も競技を見ているヴァージンは別として、スタジアムに集まった数少ないアメジスタ人は、ほぼ誰一人として棒高跳びのルールが分からない様子だ。フィールド内に集まった10人の女子の中に、二人のアメジスタ人がいるにもかかわらず、ほとんどの人の目は同時に行われているトラック種目に向けられている。
モニターに映る4m40cmという数字。それは、出場選手が最低限飛ばなければ、その時点で脱落になる高さだ。そしてこの最低の高さでは、最初から3人連続で、選手がパスを告げた。
(パスは、体力と集中力温存のための、一つの戦術……)
腰に手を当てて、設定されたバーよりもかなり高い場所を見つめる黒髪の選手が、ヴァージンの目に留まった。
(ルサーナ共和国のハイトウィッチさん……。やっぱり、4m40でパスを決めるか……)
エミュット・ハイトウィッチ。これまで、女子棒高跳びの世界記録を3回叩き出した、今や無敵のボールターと言っていい存在だ。話したことはないものの、同じ世界記録を追い続ける存在として、ヴァージンも彼女のことは気にしていた。
だが、ハイトウィッチが審判にパスを告げた後、アメジスタのウェアを纏ったブラッカが、突然パスを告げた。そして、彼女のライバルと言っていい、同じアメジスタのガロンまでパスを告げる。
(二人は、次をクリアだけの自信があるのかも知れない……)
4m40cmをクリアできなかった選手は誰もおらず、次は4m60cm。今度もハイトウィッチや、世界第2位のアゼリア・エノードがパスを告げる中、ブラッカはポールを持って、走路に立った。
この時点でも、アメジスタ人の観客はフィールドで何が行われようとしているか、ほとんど見ていない。ブラッカの友人など、ごく限られた人だけが彼女の跳躍に注目していた。
(ブラッカさん……!)
ヴァージンが見つめる中、ブラッカが走り出し、タイミングを合わせてポールをマットの手前に突き刺した。そして、その体が放物線を描くようにきれいにバーを飛び越え、マットの上に落ちていく。
(いま、間違いなく5m以上飛んでいたような気がする……)
一発クリアどころか、まったく余裕の跳躍を見せたブラッカを、遠くからハイトウィッチが見つめていた。
(ガロンさんは、一緒に飛ぶのかな……)
ヴァージンは、ガロンに目をやった。すると、ガロンはブラッカと違って、4m60cmをパスするようだ。
4m60cmを飛べたのは、ブラッカを含めて3人、そしてパスの連続で記録の出ていない3人。
審判は、4m80cmにバーを合わせた。
(さすがに……、トップの二人はまたパスをするか……)
ハイトウィッチとエノードがそろってパスを告げ、続いてブラッカの番になった。だが、4m60cmの跳躍に手ごたえを感じたのか、ブラッカはここでパスを告げた。
(ブラッカさんは、本当に世界のトップの二人に立ち向かおうとしているのかも知れない)
フィールド上では、ブラッカがガロンと目を合わせる。ガロンが一度うなずいたようにヴァージンには見えた。
その後すぐ、ガロンが4m80cmに挑むために、走路に立った。
その時、ヴァージンは数少ない観客席で伝言ゲームのようなものが始まったのを耳にした。
――アメジスタの選手が、まだ二人とも残ってるよ。
その言葉を聞いた観客が、これから4m80cmを飛ぼうとしているガロンを一斉に見た。その視線を力に変え、ガロンが金色の髪を揺らしながら走り出した。そして、鋭い音を響かせながら、バーを何とか越えた。
(ガロンさんも……、一発でクリアした……!)
ガロンが、マットから起き上がると、遠くで次の試技を待つブラッカをじっと見た。世界のトップがいる中で、アメジスタの二人が、この場所でどれだけ高く飛べるか勝負したいと、その目で訴えていた。
4m90cm。ここで、ハイトウィッチとエノードがともに最初の跳躍を行い、世界記録を持つハイトウィッチが1回目で、エノードが2回目でクリアした。ガロンも2回目でクリアしたものの、ブラッカはここもパスした。
続いて、4m95cmでは、ここまで残った4人が全員1回目を飛び、エノードに並んでブラッカも1回目でクリアした。1回目でクリアできなかったハイトウィッチとガロンが2回目に挑むが、ともにバーを落とす。
この種目で初めてとなる、3回目の試技。クリアできなければ、脱落が決まる。すると、先に飛ぶハイトウィッチがここでパスを告げた。
(ハイトウィッチさん……。女王として失敗するわけにいかないからか……)
ハイトウィッチがより高いバーを飛ぶと決めた後も、ガロンはポールから手を離さない。横目でブラッカを見つめながら、ガロンは走路に向かった。彼女だけは、この試技に全てを賭けるようだ。
(ガロンさん……!)
タイミングを見計らって、ガロンが走路に踏み出し、ポールを勢いよく立てた。その瞬間、スタンドから悲鳴が次々とこぼれ始めた。
(落ちた……)
ガロンの右足が、あと少しのところでバーに触れ、無情にも落ちていった。マットの上で悔しがるガロンに、ヴァージンは思わず手を叩いた。
「こんな世界の強豪が集まっているのに、よくやった……!」
そのヴァージンの拍手に刺激されたのか、スタンドのアメジスタ人が、最後まで自分を信じたガロンに次々と拍手を送った。
(やっぱり、同じアメジスタ人として……、ここまで残ったことを讃えずにはいられないから……!)
だが、この女子棒高跳びで、アメジスタからヴァージンの「後を継ぐ」トップアスリートが生まれることを、スタジアムのほとんどの観客は予想していなかった。