第80話 女王凱旋(2)
ヴァージンは、世界競技会の壮行会が終わるとその足で、完成したばかりのスタジアムへと向かった。大聖堂の玄関を正面にして右に目を向けると、飛行機の上から見えた巨大な競技場が、すぐそこに姿を現した。
ヴァージンはすぐに足を止め、アメジスタの新しいシンボルを、まず目に焼き付けた。
(今まで、柵やシートで全く見えなかったけど……、自分の国にこんな素晴らしいスタジアムができること……、夢を見ているみたい……)
ヴァージンがこれまで戦ってきた、世界中のどのスタジアムよりも大きい。最新の技術、そして最新のデザインで作られたスタジアムであることは勿論、正面から見える景色も躍動感に満ち溢れ、選手がこの場所に入るときに、出せる限りの力で挑むための集中力と、ここまで抱き続けてきた夢や期待が膨らませるような外観だ。
(ほんの10年前は、ここに家を失った人々がたくさん暮らしていて……、アスリートに夢や希望を持てないと言われてもなお、密かにその夢を信じているような人たちで溢れていた……。私を支えてくれた人々が住んだこの場所に、アメジスタじゅうの夢や希望を叶える場所が完成したと思うと……)
ヴァージンが、その目に「その前のスタジアム」を思い浮かべた時、彼女の目には涙が浮かんでいた。だが、泣くのはまだ早いと自分に言い聞かせ、小さくうなずいて、いよいよ新しい競技場に迫っていく。
(開幕は6日後だけど……、何度も見てきた選手がもう外周を走っている……)
20年前は珍しかった片側3車線のアスファルトの道路と、広々とした歩道。その歩道には、ヴァージンの見慣れた選手がゆったりと走っていた。アメジスタという、ほとんどの陸上選手にとって初めてとなるこの地の空気を感じたいと、いつもの国際大会以上に、選手が早くから集まり始めているようだ。
一方で、選手たちよりもやや遅いペースで、ヴァージンが見たことのない人々が歩道を走っている。しかも、大人だけでなく子供の姿もある。彼らのほとんどは、ヴァージンの前を走り抜ける時に、彼女に顔を向けていた。
(もしかして……、アメジスタのみんなも、スタジアムの周りを走っている……。ランニングブームかも……)
クラス1の陸上競技場となるための条件、マラソンコースも、このスタジアムを拠点に整備されている。そうなると、ここに限らず、グリンシュタイン近郊の広い地域にアスファルトの道路と、応援用の歩道が整備されていることは間違いない。スタジアムの完成と、世界最高峰の大会で、アメジスタじゅうのどこにでも、走っている人がいるようにさえ思えた。
(敷地内のランニングコースにも走っている人が見える……)
メイントラックとサブトラックを大きく回るので、1周が1500mあると、前にヴァージンは文化省から告げられていたものの、そこにも出場する選手やアメジスタの人々が走っていた。だが、ヴァージンがスタジアムを正面に見る場所から敷地に足を踏み入れようとしたとき、彼女の目に巨大なブルーシートが飛び込んできた。
(なんだろう……、これ……)
高さ2メートルほどの土台の上に何かが置かれているようだが、それはブルーシートで覆われていた。モニュメントであることには間違いなさそうだが、スタジアムの象徴と言うべき像が、この段階でブルーシートに覆われていることに、ヴァージンは違和感を覚えずにはいられなかった。
そして、その横にも横長の板のようなものにビニールテープが貼られていた。
(グリンシュタイン・アメジスタ国立陸上競技場……)
アメジスタ語でスタジアムの名前が書かれているものの、手書きだった。その下にも、申し訳程度にオメガ語など世界の言語で同じような名前が書かれているが、こちらも手書きだった。
(私は、いろいろなスタジアムに行ってきたけど、国立競技場とか州立競技場とか、当たり前のように名前がついていたような気がする……。どうして、その部分だけビニールテープで覆われているのだろう……)
ヴァージンは、ビニールテープの上に手を当てた。テープの下には、明らかに違う文字が薄く刻まれているようだったが、あまりよく分からなかった。
(せっかくのスタジアムだから……、開幕までにどちらのシートも取れて欲しい……)
そして、アメジスタ国内では初めてと言っていい陸上の国際大会、グリンシュタイン世界競技会が開幕した。
1日目の開会式に、ヴァージンとイリス、アメジスタの選手たち、それに世界じゅうのライバルたちが揃った後、ヴァージンは男子100mの準決勝まで、初めて足を踏み入れるサブトラックで軽めの調整を行った。
(なんだろう……。この踏み出しやすいトラックは……)
世界の多くの競技場で使われている薄青のトラックが、まるで空気の上を走っているかのような柔らかさを見せている。開会式で入ったメインスタジアムは、人が多すぎてそこまで感じることが出来なかったものの、おそらくメインスタジアムも同じ材質のトラックがあるように、ヴァージンに思えた。
サブトラックはそれほど大きくなく、メインスタジアムの屋根の「翼」と、グリンシュタイン大聖堂の尖塔が少しだけ見えるような場所にあった。逆に、それが見えることで、ここがアメジスタのスタジアムということがヴァージンにははっきりと分かるのだった。
(走っていて、気持ちいい……。でも、ウィンスターさんやプロメイヤさんだって、条件は一緒……)
スタジアムそのものが広いからか、開会式で8割ほど埋まっていた観客席からはそれほど大きな歓声は聞こえてこない。むしろ、スタジアムでの応援の仕方を、何度もレースに足を運んでいるような常連客に教えてもらっているように、ヴァージンの耳に感じた。
(このスタジアムに来たみんなは、今日のレース、どう思い出を刻むのだろう……)
サブトラックの大時計が、男子100m準決勝の時間を告げる。ヴァージンは、アメジスタ選手団用の応援席に向かい、アメジスタのフェリアーノ、そして男子100mの世界記録を持つイリスのレースを見ることにした。
(同じレース……)
準決勝1組。スタインオリンピックの予選以来となる、同じスタートラインにフェリアーノとイリスが立っていた。スタジアムを見下ろす空に向かって茶髪をなびかせる5レーンのイリスは、7レーンのフェリアーノのことを半ば意識しているような目で見つめていた。
(イリスは……、フェリアーノさんに負けている……。だからこそ、この勝負を意識しているのかも知れない)
夕方から翌朝にかけて、二人は同じホテルに泊まっているものの、あえて本番を意識するような言葉を交わさなかった。それでも、ホテルでのイリスの表情からは、彼が直接対決に燃えていることがはっきりと見て取れた。
やがて、出場選手がモニターに映り、2レーンから一人一人名前が呼ばれていく。
――5レーン、アーヴィング・イリス!オメガ!
(あれ……、スタンドが静かだ……。もしかして、ほとんどが初めてだから、応援の仕方を分かってない……)
今や世界記録を持っているアスリートが紹介され、スタンドからかすか声が上がったものの、そこに集まった大半のアメジスタ人は石のように動かず、どう応援すればいいか分からない様子だった。
アメジスタ選手団のエリアは盛り上がり、ヴァージンもそれに合わせて手を叩いたものの、選手団の中で誰よりも世界標準を知っているヴァージンが、よりスタンドに響くように声を上げようか迷ったほどだ。
だが、スタジアムが盛り上がらないというヴァージンの心配は、数十秒後に吹き飛んだ。
――7レーン、ジャン・フェリアーノ!アメジスタ!
フェリアーノの顔が大型モニターに映った瞬間から声が上がり始め、「フェリアーノ」のアナウンスで半分以上のアメジスタ人が声を上げる。そして、国籍を告げた瞬間、全ての観客が声を上げ、手を叩いていた。
(去年オリンピックで活躍して、みんな名前を知っている……。アメジスタって言わなくても、盛り上がった)
ヴァージンがうなずき、ようやく歓声が鳴りやんだ時、スターターの手が上がった。スタンドから見つめる多くの目が、7レーンのフェリアーノに向けられた。
(フェリアーノさん……。アメジスタ人として、私も応援するから……!)
鋭い号砲が鳴り、スタートダッシュを得意とするイリスがあっという間に他の選手を引き離す。ライバルも、イリスに食らいつこうと前に出る中、スタジアムの誰もがその動きを追っていたフェリアーノの姿が、100mを一気に駆け抜ける光たちの中に消えてしまった。
(フェリアーノさん……!)
イリスが圧倒的なスピードでゴールに飛び込み、そこから0.1秒ほど遅れて数人の選手が一気に駆け抜けていった。そこでようやくフェリアーノの姿が見えた時、彼は誰よりも後ろを走っていた。
スタジアムの歓声が、沈んでいく。
(ダメだった……。みんなの勢いに呑まれて、どんどん遅くなっているように見えた……)
1年前、イリスをも上回る走りを見せ、アメジスタから世界に飛び立った若き魂は、地元の世界競技会で昨年よりも高い場所に進むことが出来なかった。
ヴァージンは、決勝でより本気を見せたいというような目を見せるイリスには目もくれず、ゴール横で呆然と立ち尽くすフェリアーノの姿だけを見続けていた。
(この敗北を、また次のレースに生かして欲しい……。フェリアーノさん、みんなより陸上選手のキャリアとしては、ずっと先輩なのだから……)
ヴァージンは一度うなずき、フェリアーノから目を反らした。すると、彼女の目に一斉に席を立つアメジスタ人の姿が飛び込んできた。
――アメジスタの陸上、やっぱり世界のレベルから程遠いのかな……。
――ヴァージン・グランフィールドが桁違いだけだっただけなのかも知れない……。
8割近く埋まっていたスタンドが、アメジスタ人の惨敗だけでほとんど帰っていく。たしかに、この日アメジスタ人の選手が出ることはないものの、世界で最も注目されるレースの一つと言っていい、男子100m決勝にはほとんど観客が残らないという、ヴァージンですら一度も見たことのない光景が広がっていた。
ヴァージンは、下を向いた。
(世界のトップアスリートの姿、もっとアメジスタのみんなに見て欲しいのに……)