第79話 帰るべき場所(5)
一躍世界最速の選手となったイリスのもとに、リングフォレスト選手権から数日は祝福のメールがやまなかった。一時期、同じくらいの数のメールが届いていたヴァージンが、「読むの大変でしょ」とイリスに声を掛けるが、イリスはにやけながらヴァージンに振り返るだけだった。
だが、そのついでにイリスが思い出したように口を開いた。
「そう言えば、グランフィールドさんは、最後のレースが終わったらどうするつもりですか」
(たしかに、あるにはあるけれど……、イリスに言うタイミングを待っていた……)
ヴァージンは、数年前から考え続けていたことを言葉に出そうと、首を傾けた。
「あのね、イリス……。私は、現役を引退したら、アメジスタに戻る。やっぱり、私はアメジスタ人として、この20年間トラックに立ち続けてきた。帰るべき場所に、戻らなきゃいけないと思う」
「そうか……。たぶん、グランフィールドさんはそう言うと思いました」
(イリス、覚えてたんだ……。私がずっと、アメジスタのために走り続けていたことを……)
リバーフロー小学校で、最初に出会った時から、イリスにはヴァージンがオメガではなく、「世界一貧しい」アメジスタの人間だということが分かっていた。それを、このタイミングでヴァージンも思い返したのだった。
「そうね……。私、イリスの前でも何度も言ってきたと思う……。アメジスタのことを大事にしているって」
そこまで言うと、ヴァージンは小さく息をついた。それから、イリスにそっと告げた。
「でも、アメジスタに戻りたいのはあくまでも本音。私は、トラックを去っても、イリスをずっと支えるから」
「なら、ちょうどよかったです……。僕も、アメジスタでトレーニングしたいんです」
(イリスが……)
バレーボール・オメガチームの合宿だったり、ケルリアの立派なプールでトレーニングしていたセイルボートだったりと、ここ数年でヴァージンは、アメジスタに数多くのトレーニング施設が作られていることを、その目で思い知った。スポーツ関連産業も、グリンシュタインに集まり始めている。そして、陸上競技でさえも、小さなトレーニング場から、国際大会が開ける巨大なスタジアムまで整っている。
スタジアム建設を巡って、グリンシュタイン全土が戦争になってから、わずか7年で、アメジスタのスポーツ文化はここまで発展している。そこに、イリスも活動の拠点を求めるのだった。
「だって、アメジスタはもう、最高のトレーニングスポットじゃないですか。僕も、数日だけトレーニングに行った時、そう思いました」
「イリスにそう言ってもらえるの、なんか嬉しい。ほとんどトレーニングする人がいない国だったのに、その頃からしたら何百倍、何千倍も体を動かしている姿を見るの……、私だって夢のようだと思っているのに」
「それは、ほぼ間違いなく、グランフィールドさんのようになりたいと思ってるからですよ」
「たしかに……」
ヴァージンは、力強くうなずいた。その動作を見てから、イリスはさらに言葉を続ける。
「それで、グランフィールドさん。僕は、迷ってるんです」
「イリス、さっきアメジスタでトレーニングしたいって言ってた……。もしかして、生活の悩みとか……」
「そうじゃないんです。アメジスタの選手になるか、ならないか……、そういう悩みです」
ややゆったりとした声でイリスに告げられたヴァージンは、イリスが赤・金・ダークブルーのウェアに包まれて、オリンピックや世界競技会を走る姿を思い浮かべた。そこに、イリスがさらに言葉を重ねる。
「ほら、アメジスタで陸上選手と言ったら、100人中100人がグランフィールドさんって言うじゃないですか。男子100mのフェリアーノさんだっていますけど……、この夏、アメジスタから世界の頂点に立つ選手がいなくなって……、せっかく出てきたスポーツの文化が沈んでしまいそうな気がするんです……。オメガは、有名な選手が多すぎて、僕がいなくたって……、国籍を変えたって、十分な戦力があります」
(たしかに……、私がいなくなったら……、世界で有名なアメジスタの選手がいなくなるかも知れない……)
ヴァージンは、イリスの言っていることの意味が、体に突き刺さるほどに理解した。だが、その言葉にすぐに賛同することはできなかった。
「アメジスタ人だって、夢はある。私の後にもう一人、二人と、世界の頂点に立つ選手が現れることを……」
「アメジスタから、世界に旅立つアスリートが出るという夢ですか……」
「きっとアメジスタのみんなは、それを夢見て、やっとできたトレーニング施設で、実力を積んでいると思う。私の頃は、そんな夢を語るだけでも大人から怒られていたのに、今は全く違う……。アメジスタの代表になって、世界に挑んで、私のように世界中に名前が知られるアスリートになりたいって……。そういうこと」
「そうですか……」
あえて真っ向から告げなかったものの、イリスからの問いに対する答えは、ノーに決まっていた。
「イリスはイリスだから。オメガという、たくさんの選手を抱える場所から世界一になった存在として、世界中に知られている。それはもうすごいことだし、動かしちゃいけない事実だと思う」
「じゃ、アメジスタ在住のオメガ国籍で生きます」とイリスが告げた時には、ヴァージンは心の中で、20年前にオメガにやって来てからのことを一通り思い出し、自ら告げた結論に早くも納得していた。
(私がもし、アメジスタを捨ててオメガ国籍になっていたら、たぶん、ここまで強くなれなかったと思う……)
ヴァージンは、セントリック・アカデミーと契約を結んでオメガに向かったとき、特に国籍の話は意識してこなかった。アメジスタカラーのウェアを着て、初めてアメジスタ人であることを意識した。そして、世界記録を手にするようになった後に「オメガに移ったほうがいい」と言われ、そこでオメガ国籍に移るか迷ったくらいだ。
(たとえアメジスタから見向きもされなくなって、アスリートに夢はないと言われ続けたって、それでも私が世界と戦っているアメジスタ人だということを、少しずつ分かってもらえた……。今はアメジスタじゅうが応援してくれているし……、アメジスタから応援されることが、一番の力になっているような気がする……!)
気が付くと、ヴァージンは両手の拳を握りしめ、これまで何度触れたか分からない、アメジスタの空気を体全体に送り届けていた。
(イリスだって……、リバーフローの田舎の空気を背負って、世界の頂点にまで成長したのだから……)
ヴァージンは、トレーニングの傍らでジョージにアメジスタに戻った後の家探しを頼んだ。イリスからは、ジョージの年齢を心配してか、ヴァージンの実家の隣に住んでもいいと告げられたものの、1ヵ月近く経った後、メールでジョージから告げられた場所は、アメジスタ北部のカウスという中規模都市だった。
グリンシュタインからは、40キロぐらい離れている。ここ数年は、陸上選手はじめ、数多くのアスリートがトレーニングに訪れるエリアになっていて、トップ選手をメインとした陸上トレーニングセンターも隣接している。
「見て、イリス。駐車場3台完備の、プライベート400mトラックも用意します、だって……!」
「まるで、僕たちが陸上選手の家族ですって言ってるようなロケーションですね」
かつて、アルデモードが用意してくれた、オメガセントラルのど真ん中の豪邸は、400mトラックをギリギリ作れなかったが、アメジスタではその1000分の1の値段で、自主トレーニングも簡単にできるトラックつきの物件が手に入るのだった。
「でも、よく考えたら、僕は100mしか走らないから、向こう側はそんなに使わないんですよね……」
「言われてみれば……。でも、私は引退しても、トラックを見ると普通に5000mとか10000mとか走りそう」
二人は、笑いながら顔を見合わせた。
グリンシュタインでの世界競技会。それは事実上、二人の生活の場がオメガからアメジスタに移る日となった。
大会期間中、ヴァージンは実家に戻ることができたものの、これまで数多くの大会でそうしたように、グリンシュタイン一等地のホテルに、イリスと二人で泊まることに決めた。そして、大会が終わってから新居の契約を結び、そこから新しい生活が始まる。そのような段取りを組んでいた。
(今日で、私が8年間暮らした豪邸とも、20年間生活してきたオメガともお別れ……。いよいよ、私が帰るべき場所に向かう時が来た……)
普段の大会でも滅多に使わないようなサイズのキャリーバッグを転がしながら、ヴァージンは、世界最高の都会・オメガセントラルの街の空気をいま一度大きく吸い込んだ。その様子を、イリスがうなずきながら見ていることは、ヴァージンには感覚で分かった。
アメジスタを背負い続けた女王が、そのアメジスタで最高の奇跡を見せるまで、あと15日――。