第79話 帰るべき場所(4)
「On Your Marks……」
ゴール付近に立っているヴァージンにもはっきりと聞こえる低い声がスタジアムを包むと、歓声は止み、誰もがホームストレッチ前のレーンに注目する。声が止まっても、スタジアムの注目がナイトライダー一人に集まっていることは、誰もがうっすらと感じていた。
その中で、イリスだけがその空気に呑まれていないように、ヴァージンには映った。
(イリスは……、ナイトライダーさんに勝つために、戦ってきた……。永遠の世界2位と呼ばれ続けてきた中で、決して妥協しなかった。だから……、今日のイリスはきっと、当たり前の常識に打ち勝てると思う……!)
アスリートに絶対という言葉はない。それは、常に「頂点」に立ち続けたヴァージンだからこその結論だった。
そして、号砲が鳴った。
(イリス……!いつも以上に飛び出している……!)
4レーンのイリスが、まるでここまで走り続けてきたかのようなスピードで飛び出していった。遠くにいるヴァージンにも、イリスがこれまでにないような風を従えて、果敢に挑んでいるのが見えた。6レーンのナイトライダーも、他の6人のライバルでさえも、その風の中に消えてしまいそうな勢いだった。
(私、イリスのことを勇ましい獣とか言ってきたけど……、今日はそれだけじゃない。何かに目覚めている……)
イリスの自慢のスタートダッシュが、この日は普段以上に力強い。30mで早くもトップスピードに達すると、その後も全くそのスピードを落とさない。たとえ、スタンドからナイトライダーの名を呼び、「神」と称賛する声が高まっても、この日のイリスはその声を全く気にしない様子だ。
(ナイトライダーさんが……、迫ってくる……!)
6レーンのナイトライダーが、50mを過ぎたところでイリスを背中まで追いつめる。徐々にスピードを上げ、早くもイリスの前に出ようと力強いストライドを見せる。
(「神」には、簡単には勝たせてもらえない……。ナイトライダーさんだって、イリスに刺激されている……)
どんなに離されていても、最後にはあっさり勝ってしまう。そして、気付けば世界記録さえ出してしまう。それが、ここまで何年にもわたって「神」と呼ばれ続けた一人のトップアスリート・ナイトライダーだ。だからこそ、スタンドでその姿を見る誰もが、この日もナイトライダーに「祈り」を捧げている。
(アスリートに絶対はない……。それは、私もイリスも、ずっと信じていること……)
70m、80m……。普段であれば、ここでイリスの「空気」が消えてしまう場所。だが、この日はナイトライダーよりほんの少し前に出たまま、イリスが全くスピードを落とさない。いつものように、「神」に屈していない。
イリスの勇気は、ナイトライダーという現実にも打ち勝とうとしている。
そして、徐々に変わっていくスタジアムの空気――おそらくほとんど誰もが、初めてナイトライダーに悲鳴を上げようとしている――を察した時、ヴァージンが真っ先に、歴史が変わる瞬間を確信した。
わずか数センチと言えるような差で、イリスがナイトライダーから逃げ切ったのだ。
(イリス……!やっと……、やっと夢が現実になった……!)
絶対と呼ばれた存在の、実に6年ぶりとなる敗北だけに、どよめくスタンド。だが、その中で一人の観客が息を飲み込んだのと同時に、誰もが大型ビジョンに刻まれた数字に目をやった。
9秒45 WR
ヴァージンが何度もその目で見てきた、2文字のアルファベットが大型ビジョンに刻まれている。イリスにとっては2回目となる世界記録でも、それをナイトライダーの前で叩き出したことが大きかった。
ナイトライダーのタイムも、9秒47。これまでの展開ならば、それが新たな世界記録となるはずだったが、イリスがナイトライダーの限界をも上回っていった。
(イリスは、もう胸を張って世界記録を自慢できるじゃない……!)
かつて、9秒53と、これまでの世界記録をコンマ01秒だけ更新出来た時には、イリスの表情は喜びを浮かべていても、未だに倒せない存在を気にしていた。それから3年半、ようやくその存在を後ろに追いやったのだ。
ゴール横では、イリスがナイトライダーに話しかけていた。
(珍しい……。私は、勝った時に話しかけられていたのに……、イリスはいつもの癖で……?)
ヴァージンは、スタジアムの歓声の中からその声を拾おうと耳を傾ける。
「ナイトライダーさん……。これが、ナイトライダーさんに憧れてきた、僕の全てです」
「あぁ……。僕をとうとう追い越す存在にまで成長した……。それは、もう認めざるを得ない……」
軽く握手する二人は、まるで「世界最速の脚を持つ男子」の称号を譲り渡すように、ヴァージンには映った。だが、その直後にナイトライダーはヴァージンにもはっきりと聞こえるような声で、イリスに告げた。
「僕は、もう終わりだ。この状況で『神』と呼ばれたくはない……。今日で、トラックを去る……」
(たった一度の敗北で、ナイトライダーさんがトラックを去る……。そんなこと、あっていいの……?)
常に「世界記録の女王」と呼ばれ続け、トラックに立つたびに世界中の注目を浴びてきたヴァージンには、到底受け入れられない心の変化だった。数多くの世界記録の後ろに、世界記録の前に屈したり、強敵の前に屈したりすることは、ヴァージンだって何度もあった。ナイトライダーは、この日も自己ベストを出したにも関わらず、ただ一度の敗北だけで夢を諦めてしまうのだった。
(せめて、もう一度戦ってほしい……。イリスは、ナイトライダーがいて初めて……)
だが、全く違う種目のヴァージンが、ここから声を掛けるわけにもいかなかった。それを口にできるのは、ナイトライダーより「上」に立ったイリスしかいないはずだ。
ヴァージンが、イリスの表情に目をやると、イリスがしばらく考えた後、静かに告げるのが聞こえた。
「ナイトライダーさんが出した結論です。僕は尊重します」
(イリスが、ものすごく大人になっている……。なんだろう。私は、もう少しナイトライダーさんに粘るのに)
つい数分前に、憧れのライバルを失うのが怖いと言ったカリナが、トラックを去った。だからこそ、イリスだって憧れのライバルを引き留め、もう一度戦いたいと言うものだと、ヴァージンは思っていた。
(それが、イリスの優しさなんだろう……)
そう思って、ヴァージンは去年の秋、自分の口から引退を告げたときのことを思い返した。その時も、イリスは特に引き留めはせず、いずれは避けて通れない道だとだけヴァージンに告げたのだった。
(そこにイリスと私の違いがある……。でも、世界の頂点に立ってもそこで止まらないのは、おそらく同じ……)
そこに、敗れたナイトライダーがロッカールームへと引き上げていく。普段なら客席に向かって何かしらのパフォーマンスを見せる彼が何もしないことに、スタジアムに集まった誰もが、ナイトライダーの出した結論を半ば予感していたのだった。
にもかかわらず、ナイトライダーはヴァージンの前で立ち止まった。
「グランフィールドが、僕の最後を看取ってくれるとは思わなかった……。同じ、世界最速を駆け抜けたアスリートとして、見えない糸でも結ばれていたかもな……」
「そんなことありません。私は、夫のことが気になって、残っていただけですので……」
「そうか……。やっぱり、グランフィールドは僕よりもイリスのほうが……、好きなんだね……」
ヴァージンは、ナイトライダーの問いかけに静かにうなずいた。
「ナイトライダーさん、お疲れ様。私だって……、ナイトライダーさんがここまで愛されるの、羨ましかった」
「ありがとう。じゃあね……」
ナイトライダーは、ヴァージンに背中を見せ、ロッカールームへと消えていった。ヴァージンは首を垂れた。
(数ヵ月後は、私がその場所に立つ……。今日だけで二人も、トップアスリートがスタジアムを去った……、私は、どのように見送られるのだろう……)
ナイトライダーもカリナも、正式に引退発表をする前に、その場でトラックを去ることを決めた。かたやヴァージンは、夢が全て潰えたときに、トラックを去るのに最もふさわしい場所を用意してくれただけあって、このような別れ方にはならないと、薄々感じていた。だが、どのような展開になるかは、全く知らされていなかった。
(ナイトライダーさんも、カリナさんも、オメガの選手。そして二人とも、ここオメガの大会で姿を消したのに、何のセレモニーも行われなかった……。いや、望まなかった……)
ヴァージンの脳裏に、グリンシュタインの新しいスタジアムが浮かんでくる。そこでの「最後のレース」が終わったときのことが、彼女は気になって仕方なかった。