第79話 帰るべき場所(3)
ヴァージンは、13分台で5000mを駆け抜けたものの、13分57秒24の2位に終わった。かたや、中距離走的な走りで終始レースを引っ張っていったプロメイヤは、昨年出した自己ベストを上回る13分44秒36。もはや、同じトラックで別の競技をしていたような走りを、プロメイヤが見せているかのようだった。
「プロメイヤさん、最初から飛ばしていました……。速いです……」
ヴァージンがプロメイヤに声を掛けると、プロメイヤは茶髪を軽く揺らしながら、静かに笑った。
「そうね……。スパート型の走りを続けてたら、グランフィールドに勝てない。だから、5000m全体が中距離走に動いて行ったのかも知れない……」
「そうなんですか……。なんか、ウィンスターさんに刺激されたのかと思っていました……」
プロメイヤが、意外にもヴァージンを意識する言葉を投げかけたことに、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。
「グランフィールドは普通にライバルと思っているかも知れないけれど、ウィンスターは、新しい時代を無理やり作ろうとしているアスリート。たぶん、ウィンスターを尊敬しているライバルは、いないと思う」
(やっぱり、みんなから良くは思われてないか……)
ヴァージンは、ウィンスターの2ブロックブレイズの黒い髪を思い浮かべながら、声に出さずに心に留めた。どのライバルも尊敬しているはずのヴァージンの心が、かすかに揺らいだ。そして、少しの間、言葉をいろいろ思い出しながら、プロメイヤに返した。
「ウィンスターさんは、速いです。あんなレースができるのは、ものすごいことだと思います。でも、ウィンスターさんの、他人を簡単に見下すのが悪魔だって言う声も、私は何度も聞きました……」
――ヴァージン・グランフィールド。あなたをもう、女王とは呼べないわ。
(ウィンスターさんが、私に見せたあの口調で5000mの女王になったら、私と同じような実力を持ったライバルたちがみんな離れてしまいそうな気がする……)
世界記録を手にしたウィンスターが、ますます他人を見下す。実際に会わなくても、ライバルたちの悲痛な声からそれがヴァージンに伝わってくる。ヴァージンは、その現実に首を横に振るしかなかった。
そして、プロメイヤに静かに告げた。
「私の目には、プロメイヤさん、ウィンスターさんと十分戦えそうな気がします。戦い方もほとんど同じですし、いずれはウィンスターさんを追い抜いてしまいそうです……」
「でも、私から見ても、ウィンスターは速すぎるって……」
「たしかに、ウィンスターさんはそれなりにパワーを持っています。けれど、世界記録と戦い続けてきた私のような目はしていないです。自分以外がいなくなったら、それで勝利だと……。そこに、成長はありません」
(言っちゃった……)
ヴァージンは、プロメイヤの表情を伺いつつ言ったつもりが、ついペラペラと話してしまったことに気が付いた。前にカリナに告げられたことに枝葉をつけただけの話でも、ヴァージンはより深い声で告げていたのだった。
「それ、言える。グランフィールドは、世界記録だけと勝負してたわけじゃないから……」
プロメイヤがヴァージンにそう告げた時、二人の前をトラックに向かって担架が通り抜けていった。この時間帯、フィールド競技はなく、仮に運ばれるとしたらヴァージンたちと一緒に走っていた誰かということになる。
(まさか……)
ヴァージンは、担架の運ばれる方向に目を向けると同時に、嫌な予感を思い浮かべた。そして、その嫌な予感は、数秒もしないうちに的中してしまった。
(メリナさんが……、担架に乗せられる……。途中で失速して、レースを棄権した……)
トラックの脇で膝を抑えたままうずくまるメリナを、救急隊員が複数で持ち上げ、ゆっくりと担架に乗せていく。妹のカリナが心配そうな目をしながら担架について行くものの、救急隊員に何かを言われて、ちょうどヴァージンたちの前で止まった。
ガックリと首を垂れるカリナに、ヴァージンが後ろから声を掛けた。
「カリナさん……、気持ち察します……」
「グランフィールド……。たぶん、見てたよね……。お姉ちゃんの体がもたなくなったの……」
ヴァージンが小さくうなずくと、カリナがゆっくりと体を上げ、ヴァージンに振り返った。カリナは起きてしまった現実を前に、心なしか途方に暮れたような表情だった。
「メリナさんは、中距離走のように走ろうとしていました。でも、途中で心が折れたように思えます」
「でしょ……。今までグランフィールドを見て育ってきたほとんどのライバルが、いま心が折れてるよ……」
「カリナさん……?」
ヴァージンは聞き返そうと言葉を選び始めた。だが、その前にカリナが首を大きく横に振り始めた。
「あのね、グランフィールド。私も、お姉ちゃんも、ウィンスター1強の5000mには、もういたくない」
「まだ、私がいます。1強だって思わないでください」
「でも、もうダメ……。ウィンスターは、もうすぐ5000mに自分しかいなくなるって、何度も言ってる。久しぶりにグランフィールドと一緒に走れるこんな日に、何とかウィンスターに勝たなきゃとフォームを変えたお姉ちゃんまでこんなことになって……」
カリナが、ここでヴァージンの胸に泣きついた。ヴァージンは、反射的にカリナの背を軽く叩く。
「グランフィールド……。今まで数年間、ずっとバカにされて……、その中でも、ウィンスターがグランフィールドだけを尊敬していたから、何とかここまでやっていけたのに……、グランフィールドが引退を決めて、みんなの心が折れた……」
泣きついたカリナは、まだ顔を上げない。ただ、その中でも泣き声だけは徐々に小さくなるのを、ヴァージンはその耳ではっきりと感じた。
「私、そう思われていたんですね……」
「だって、グランフィールドは私たちの憧れで、私たちにとってたった一人の女王だから……。それが、ウィンスターになるのは嫌だって……、だからこの数ヵ月、引退とか、他の種目に出ていく5000mの選手が多いんです」
(そんなことになっていたなんて……)
ほんの数年前まで、ヴァージンが出ればスタジアムの期待が一気に高まる中で、数多くのライバルが集まっていた女子5000m。そのヴァージンがいなくなることで、次々と選手が離れているのだった。
「ウィンスターさんが、完全に別の種目を作ろうとしている……」
ヴァージンは、カリナに向かって静かに告げた。すると、カリナは「だね」と軽く返し、下を向いた。
「私ももう、普通の女子に戻るよ。グランフィールドの最後のレースには、出ない……」
「カリナさんまで……。私の最後のレースまでは続けないですね」
ヴァージンの声に、カリナが少しだけ顔を上げ、それから力なく下を向いた。
「だって、今までいた世界が幻になる瞬間なんて、見たくないから……」
(幻、か……。トラックはみんな平等で、別に、幻の世界で走っているわけじゃないのに……)
カリナの足が、レーシングウェアを永遠に脱ぐ場所、ロッカーへと向かう。その背中を目で追うヴァージンは、あと数ヵ月で同じ道を歩くことになると、この時もう一度思い知った。
そこに、プロメイヤがヴァージンに声を掛けた。
「グランフィールドは、そう思われるくらい、今も女王だってこと。最後まで何かを見せてくれそうだから」
「はい……」
力なく返事をするヴァージンは、軽くプロメイヤの表情だけを見た。プロメイヤは、メリナやカリナが去ることに、そこまでショックを受けているような表情ではなかった。
「心配しないで。私は、5000に残る。ウィンスターに一番近いし、一度くらい勝ちたいし、何と言っても、グランフィールドのような人を引き付けるようなアスリートになりたいもの」
「プロメイヤさん……!」
そこに、リングフォレスト選手権のスタッフが、ヴァージンとプロメイヤに声を掛ける。
「もうすぐ、男子100mの決勝が始まりますので、なるべく端のほうとか、ダッグアウトのほうにいてください」
(そう言えば、この後男子100mだった……)
イリスの姿を見るために、もともとメインスタジアムに残っていようと決めていたものの、走り終えたライバルたちの会話に夢中になっているうちにすっかり忘れていた。
4レーンにイリス、6レーンにナイトライダーが、早くもウォーミングアップを終え、スタートラインに立つ。
茶髪を普段以上に空の光に輝かせながら、イリスが細い目で100m先を見つめている。もはや獲物を狙う目だ。
(今日こそ……、イリスは絶対に何かを起こしそうな感じがする……。あの目は、いつも以上に本気……!)
「神」にだけは絶対に勝てなかった「勇敢なスプリンター」が、奇跡を起こすまで、あと10秒――。