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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
アメジスタのレコードブレイカー ラストラン
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第79話 帰るべき場所(2)

(トラックを走るのは、これを含めてあと3回……)

 ヴァージンは、何度踏みしめたか分からないほどのリングフォレストのトラックを、両足に携える「フィールドファルコン」で静かに踏んだ。これが終われば、残りはグリンシュタインでの世界競技会の予選と決勝しか残っていないだけあって、少しでも「その時」を楽しみたかった。

(でも……、心なしか出場選手が少ないような気がする……)

 スタートラインに立ったのは、わずか10名。普段は15人、16人は出場していて、2段階スタートが当たり前のはずの女子5000mが、全員同じスタートラインに立つこと自体、ヴァージンのキャリアでも片手で数えられるほどだった。

(リングフォレストと重なっている国際大会は、たしかなかったような気がする……)

 内側から4人目でスタートを待つヴァージンは、逆にはっきりと見える、スタートライン近くのスタンドに目をやる。その中に、たった一つ、彼女が何度も見てきた「Virgin, Go WORLD RECORD!!」のプラカードが見えた。

(私のイメージは、まだそこまで崩れていない……。でも、今日は楽しみたいから)

 ヴァージンの代名詞である世界記録に、この日の彼女はあっさりと別れを告げた。思い通りに走りたいという、一人のアスリートの心が、狭いところに閉じ込められていたこれまでのヴァージンを、解き放とうとしていた。

「On Your Marks……」

(よし……)

 始まりの時を告げる、低く静かな声。スタンドが静まり返り、ヴァージンの目にこれから走る5000mが映る。それは、世界記録との勝負では見ることが出来なかった、本当の新しい世界――。


 号砲が鳴ると同時に、ヴァージンの脚がトラックへと飛び出した。

(ラップ68秒を思い出そう……。大丈夫、少しずつ自分を取り戻してきたんだから……)

 ヴァージンが、最初のコーナーまでの間にラップ68秒のペースまで駆け上がっていくものの、彼女より内側からスタートしたプロメイヤが早くもラップ67秒を切り、66秒にも迫るようなペースで先頭に立ち、メリナがプロメイヤについて行く。二人のペースは、直線に入っても、最初の1周を走り終えても、全く変わらなかった。

(プロメイヤさんとメリナさんは、このペースで最後まで行こうとしている……)

 リングフォレストの空の下で、女子長距離走にしてはハイスピードで駆け続ける、茶髪とワインレッドの髪が風になびく。全く新しい時代のペースが、この日もヴァージンの前で流れていこうとしていた。

 だが、そのレース展開にヴァージンは怯えなかった。

(大丈夫……。最高の走りを見せられれば、どんなライバルだって最後に追い抜けるんだから……)

 ここ1、2年の間、意識しない限り出すことすらできなかったラップ68秒のペースを、この日ヴァージンは、律義に守っているように思えた。1周で8mから9mも離されようが、ヴァージンは「今は」そこに食らいついて行こうとは思わなかった。

(無理してスピードを上げて、最後にボロボロになったら、最悪のレースになってしまうから……。私は、一番得意とする走り方で、勝負に挑む……)


 2000mを過ぎ、3000mを過ぎても、先頭の4人の順位に変動はなかった。3000mの時点で、プロメイヤやメリナとヴァージンは80mほどの差に開いていた。普段なら、ライバルの背中を見ると懸命に追いかけようと動き出すカリナが、この日はヴァージンの真後ろにぴったりと付いて、そこから動かない。

 そこで、突然プロメイヤがペースを上げた。ラップ66秒台から、一気にラップ65秒近くまで達するようなペースで、3400mに迫ろうとしている。

(3400mが9分25秒くらい……。残り4周でラップ65秒を続ければ、13分45秒……)

 ヴァージンの自己ベストを軽く上回る計算だということが、彼女の単純な足し算でもはっきりと分かった。ラスト1000mで少しペースを上げれば、昨年のオリンピックで出したプロメイヤ自身の自己ベスト13分44秒83をも上回るタイムになる可能性だってある。

(そうでもしないと、みんなウィンスターさんに勝てないと思っている……。でも、みんな自分の持ってた走りを、短い時間で変えなきゃいけなくなった……)

 一気にペースを上げたプロメイヤと対照的に、メリナが少しずつプロメイヤから離されていく。メリナがデビューした時には、ヴァージンも序盤からハイペースで引っ張るような展開に苦戦を強いられていたものの、そのメリナが「新しい時代」の展開について行けなくなるのだった。

(メリナさんが……、苦しそうだ……)

 ラップ68秒を意識し続けているヴァージンは、メリナの荒い息が徐々に大きく聞こえてくるのを感じた。まだ残り4周もありながら、徐々にペースを落としていくメリナを、ヴァージンはじっと見つめるしかなかった。

 そして、3800mを過ぎた。

(4000m、11分25秒とか、26秒とか……、それくらいで行けそうな気がする……)

 この時、ヴァージンは徐々にその背中が近づいてくるメリナを意識するのをやめ、先頭を走るプロメイヤにどのように近づこうかということばかり考えていた。

 既にヴァージンは、1000mのスパートであれば膝が痛まなくなっている。トップスピードに向け、「フィールドファルコン」の「翼」が力強く羽ばたこうとしているのを、ヴァージンはその足で感じた。

 だが、そこにメリナが迫る。


(メリナさん……!?)


 ラップ70秒をはるかにオーバーするような、今の時代の女子5000mにしては限りなくスローペースのメリナの横を、ヴァージンは駆け抜けたように感じた。ラップ55秒にまで達するトップスピードで、ヴァージンが周回遅れの選手を追い抜いていくような「空気」に等しい一人を抜いたようにさえ思えた。

(今のが……、メリナさん……。そんなはずないのに……)

 信じたくなくても、プロメイヤを追っていたはずのワインレッドの髪は、ヴァージンの前にもういなかった。それどころか、ヴァージンのすぐ後ろを走っていたカリナも、突然ペースを落としたようにヴァージンの背中から消えていった。まるで、二人が一斉にレースから消えてしまったと言ってもいい展開だった。

 ただでさえ出場人数の少ない女子5000mで、ヴァージンの周りから「風」が完全に消えた。


(私は……、流されちゃいけない……!今までの自分、いや、最高の自分を楽しむために、トラックを走りたい!)

 気が付けば、ヴァージンの前に残り1000mを知らせる白いラインが飛び込んできた。彼女の体感で、11分26秒ほどで、この段階でプロメイヤとは22秒近い差がついていた。

(プロメイヤさんは、もう140m先を進んでいる……。でも、何とかここから食らいついてみせる……!)

 ヴァージンの自己ベスト13分48秒26を上回るかも知れないプロメイヤの走りに、どう計算してもヴァージンは追いつけない。だが、その中で最高の走りを見せたいと願うヴァージンが、残り1000mに挑もうとしていた。


(私は……、出せる限りの自分を見せる……!)

 ヴァージンが、ラップ68秒からラップ65秒のペースまで、一気に加速していく。このところ、本番ではほとんど感じることのなかったスピードを、この日のヴァージンはその体にはっきりと感じた。

 そして、4200mを過ぎたところで、再びスピードアップ。今度はラップ62秒まで上げていく。

(苦しくない……。なんか、初めて「フィールドファルコン」を履いた時のような、空を飛んでいるような感触を取り戻している……!)

 足元では、早くも「フィールドファルコン」が、力強く「翔ぶ」意思をヴァージンに伝えていた。たとえ、計算では追いつけないと分かっている相手に、鋭い目を向ける彼女に意思が伝わってくる。

 そして、その意思はヴァージンが4400mを過ぎ、コーナーを抜けようかというところで、ヴァージンのパフォーマンスをより強く動かしていった。

(ここで、ラスト1周の鐘を聞く……)

 12分40秒よりもやや早く、プロメイヤの足が最終決戦の鐘を鳴らしていく。100m以上は離れているだが、反射的にトップスピードまで駆け上がっていた。

(こんな早くからペースアップするはずじゃなかったけれど……、なんか今日は無理しても大丈夫そう……!)

 ラスト1周を前にした直線で、ヴァージンの体は、本番では久しぶりのトップスピードを感じた。

(これが、ラップ55秒の感触……。私と、「フィールドファルコン」の本気は、全然忘れてなんかない!)

 鐘が鳴り響いたとき、100m以上は離れていたプロメイヤの背中が、瞬く間に大きくなっていく。ラップ64秒台で逃げるプロメイヤを、懸命に追いかける「翼」が、トラックの上で力強い戦闘力を見せていた。


 だが、「楽しい」時間は終わろうとしていた。

 プロメイヤが自己ベストをやや上回りそうなタイムで、ゴールを駆け抜けていった。

 ヴァージンのトップスピードをもってしても、80mほど差にまで縮めるのがやっとだった。


(満足のいく走りはできたけど……、やっぱり負けるとこんなに悔しくなる……)

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