第9話 ワールドレコード(3)
続く2月のアムスブルグ室内選手権でも、ヴァージンは思いのほか安定した走りを見せ、16人中トップでゴールラインを割った。前年は、この大会がヴァージンにとって初めてジュニア以外でのレースとなり、最後はボロボロの成績で終わってしまったが、その忘れられない地で、今回は再びトップに立ったのだ。
タイムは14分39秒28。インドアということもあり、思ったよりタイムが伸びなかったと思っていたヴァージンは、表示された自らのタイムに思わず驚かざるを得なかった。インドアばかりか、アウトドアを含めても、彼女自身の公式なパーソナルベストにあと1秒と迫っていたからだった。
唯一の懸念材料といえば、この大会に強豪選手が誰一人として出場せず、ヴァージンがほとんど周りを意識することなくトラック25周を走りきってしまったことである。これまで周りにライバルが一人はいて、それを追い越そうとして力尽きてしまうことが多かったヴァージンにとって、逆に誰もいない時にこのような好調を見せることが、恐ろしくもあった。
「それは違うと思うんだがな」
アムスブルグの繁華街で、マゼラウスのおごりで豪華な肉料理を頂いたヴァージンは、ホテルに戻って食後の一杯となるコーヒーを飲んでいる。これもまたマゼラウスのご褒美ということで、ホテルの中でも最もおいしいとされているコーヒーを疲れ切った喉に含んでいた。その時に、ヴァージンがふとその日のレース後の不安材料を話すと、突然マゼラウスは顔色を変えて、真剣な表情で彼女を見つめた。
「違う……」
「ライバルがいて、人間は初めて本気になれる」
「でも、ライバルを意識して、思うようにタイムが出ないのが、この1年の私だったような気がするんで、そこがどうしてもしっくりこないんです。今日、なぜ本気を出せたのか」
ヴァージンがそう言うと、真剣そうな表情のままでマゼラウスは鼻で笑った。
「それが、ヴァージンの実力だと思う。つまり、力が付いてきているということだ」
「本当ですか」
「お前の、ここ3回ぐらいのタイムが、それを証明している。調子を崩していた、世界競技会の頃は本番で15分の壁すら越えられなかったが、今日もあのタイムじゃないか」
「……はい」
ヴァージンは少しだけ唇を震わせたが、すぐに軽くうなずいた。
「さらに、その前の29秒もあるからな。私はヴァージンを、そろそろトップアスリートだと認める時期に来ているのかも知れない」
「トップ……、アスリート……」
それは、アメジスタで毎日のように部活動で走っていた頃から夢見た、職業であった。ヴァージンは何度か息を飲み込んで、静かにそう言った。
「認めてもらえるんですか……」
「世界のトップランナーとして認められたくないのか?」
「認めてもらえるのなら、それはそれでいいと思うのですが……」
ヴァージンは、それ以上言い返すことも、また同意することもできないまま、下に首を垂れた。
2ヵ月ほど前から部屋の壁にグラビアが貼ってあるライバルで、公式にヴァージンが打ち勝った相手は、まだバルーナしかいない。メドゥもグラティシモも、大会の場ではヴァージンが遅れを取ってしまっている。
彼女たちは、トップアスリートとして世界にその名を羽ばたかせている。逆に、そのライバルたちを追い抜けない自分、競い負ける自分を、同じように見られることを、ヴァージンは認めることができなかった。
突然、マゼラウスの握り拳がコーヒーのカップが二つ置かれたテーブルを軽く叩いた。刺激されるように、ヴァージンのコーヒーが僅かながらソーサーに元気よく飛び出して行った。
「ヴァージン。何故勝ったのに、自信をなくしてるんだ」
「はい……」
「もっと自分を認めていいんじゃないか」
「おっしゃる通りです……」
ヴァージンはそれ以上首を下に垂れることもできなくなり、ゆっくりと顔を上げてマゼラウスの表情を見た。
「それに、お前がよく口にする、ライバルがいる時に負けるとかいうのは、それはただ、相手の作戦に乗せられているだけだ」
「作戦……、ですか……」
「メドゥとか、とくにそうだが、誰もそのスピードで付いて行きたくないような速さで、最初から飛び出して行くんだ。メドゥは実力があるから、それで勝利を決められるかもしれない。だが、メドゥに付いて行った他のライバルは、序盤から過度に体力を消耗し、思い通りのレースができなくなる」
「たしかに……」
ヴァージンにも、心当たりはあった。付いて行けば付いて行くほど、最後のスパートに使う体力が余っていない。最大の武器を奪われ、結果としてヴァージンは中途半端な成績しか出せなくなる。
「だがな……」
そこまで言うと、マゼラウスはふぅとため息をつき、やや冷めたコーヒーを一気に口に含み、腕組みをしてヴァージンに向き直った。
「今のお前なら、必ずメドゥに付いて行けるはずだ。もう、簡単に彼女に負けるようなアスリートではない」
「はい」
「勝ちたいんだろ。お前が、自分を認めたくない最大の壁がそれなんだから」
「勿論です」
ヴァージンは、マゼラウスの静かな叫びに、右手にグッと力を込めた。
インドアシーズンが終わりを告げ、いよいよアウトドアでの選手権が続く季節まであと2ヵ月と迫った。好調を維持したまま、自らのタイムをどれだけ伸ばせるか。ヴァージンはネザーランドからオメガに戻る飛行機の中で、真っ青な空を見つめながらそう誓った。
翌日、大会から帰ってきたアスリートにしては珍しく、ヴァージンの姿はセントリック・アカデミーのトラックにあった。だが、金髪とやや白い肌が日の光に輝く彼女の、首から下はアカデミーの誰もが見たことのないほど真っ白だった。
「どうした、ヴァージン。急にこんな服を着て……。これ、スピードスターじゃないか」
「はい……。先月オフの日にスピードスターとスポンサー契約を結んだんです」
まだ冷たい風が軽く吹きつけるが、白と黒のアンサンブルが美しいトレーニングシャツが、その風をいとも簡単に跳ね除けていく。スピードスターと言えば、トレーニングウェアメーカーの大手で、ヴァージンはこれでシューズとウェアの2社、スポンサーを見つけたのであった。スピードスターとは、アウトドアシーズンから大会で製品を使うという契約を結んでおり、この白を基調に、袖に黒のラインの入ったトレーニングシャツは、サンプルで送られてきたものだった。
「そうだったのか……。そういう事を、年末ぐらいに言ってたような気がするな……」
そう言いながら、マゼラウスは軽く笑った。勿論、この中にはアカデミーに入ってから練習の際にはほぼ身に付けている朱色のトレーニングタイツを着ているが、マゼラウスの目にはもはや、自らがそれをプレゼントした頃のヴァージンと同じ人物とは思えなかった。
「じゃあ、今日も練習開始だ!」
「はい!」
新しいトレーニングシャツは、これまで使っていたものより以上に風通しがよく、400mダッシュを10本繰り返すときにも、インターバルの間にほぼ汗が乾いてしまうような感じだった。
そして、その日再び大きな出来事が起こった。
練習の最後にいつもやる、5000mタイムトライアル。アカデミーに来る前から、ヴァージンがほぼ毎日やっていたといっても過言ではないメニューで、その日のヴァージンの実力がはっきりと分かるため、大会明けだからと言って手を抜くことはしなかった。
スタートラインに立つヴァージンに、マゼラウスは声を出す。
「この前言ったように、自分の走りに自信を持て!」
「はい」
そして、マゼラウスの右腕が振り上げられ、すっかり履き慣れたイクリプスのシューズが力強くトラックを蹴る。大会と違って、同じ瞬間を走るライバルは誰もいない分、ヴァージンは序盤から飛び出して行った。目の前にいるはずの、メドゥやグラティシモなどを追いかけるように。
――もっと自分を認めてもいいんじゃないか。
アカデミーに入る前、ジョージやアメジスタの人々の前で力強く言い放った、アスリートになる夢。しかし、現実を見るうちに、冷静に物事を見るようになってしまった自分と、時に成績に納得がいかない自分とが何度も戦ってしまっていることに気が付いた。それでも、走っている時だけはいつも本気だった。
ヴァージンは、2000mの通過タイムを6分07秒と聞いた瞬間、大きくうなずいた。そして、一度だけ首を横に振った。
(私は、まだ伸びるはず。壁は、きっと越えられる!)
突然、ヴァージンのストライドが大きくなっていく。それも無意識だった。スピードを上げたわけでもないのに、1周あたりのタイムが60秒台へと上がっていく。
「いいじゃないか!足がはっきり伸びてる!」
時には、遅い、などという言葉を放つマゼラウスが、終始褒めている。この調子だ。ヴァージンは、誰もいないトラックをひたすら前進し続けた。
そして、その日の12周半の戦いは終わった。
「14分28秒32……!自己ベストじゃないか!」
「……えっ?」