第79話 帰るべき場所(1)
ヴァージンが競技生活にピリオドを打つまで、残り4ヵ月。春の暖かな日差しのもと、彼女のキャリア最後のアウトドアシーズンが始まった。
「コンスタントに13分台に乗せられるようになったじゃない!その調子よ!」
引退表明をしたトップアスリートにコーチが付くことはなく、ヴァージンが36歳を迎えた昨年末から、メドゥがヴァージンのトレーニングを見るようになった。
「信じられないです……。今日もまたズルズルとペースを落としていたような気がしました……」
ストップウォッチに映った、13分59秒73――これでも彼女の自己ベストからすれば遅い方なのだが――まで戻ってきた数字に、ヴァージンは久しぶりに首を縦に振った。2ヵ月前、室内選手権の走り納めとなったフューマティックで、14分15秒82の5位に沈むなど不調が続く中、少しずつ戻ってきた走りにヴァージンは少しだけ笑顔を見せるのだった。
そこに、メドゥが右足を軽く前に踏み出すポーズを、ヴァージンに見せた。
「ズルズル行ってると思ってるのは、まだ調子が悪い時のヴァージンを引き摺っているだけだと思う。ほら、踏み出す時、リズムを意識して少し高めに足を動かしちゃうって話、3ヵ月くらい前にしたじゃない」
「していました。ペースが遅くなる一番の理由って、メドゥさん言っていました」
「そう。でも、今日は踏み出しの角度がそこまで高くなくて、気持ちよく前に踏み出せていたと思う。ストライドもいつもより大きかったし」
「言われてみれば……」
セントリック・アカデミーでペースを体で覚えてから、ヴァージンは体で感じるスピードだけでラップタイムを計り続けてきた。ライバルのストライドは意識する一方、自らのストライドは意識しなければ気付かなかった。
(もうすぐ引退するのに、今更そのことを教えられたような気がする……。やっぱり、メドゥさんは、私の大先輩で……、ここまで一緒に走ってきた仲間だ……)
「だから、ヴァージン。今はペースを意識しながらでいいから、その中で気持ちよく走ったほうがいい。気持ちを落ち着かせれば、眠ってしまったヴァージンのスピードは、絶対蘇ってくるから」
「はい!」
メドゥに軽く肩を叩かれたヴァージンは、メドゥの目を見つめ、うなずいた。それからクールダウンに入るため、トラックの外に出た。そこに、エクスパフォーマのトレーニングセンターにいた走り幅跳びのマリック・ジェスキンが、一段落したヴァージンに話しかけた。
「ヴァージン・グランフィールド。さっき、ラガシャ選手権で、お前のライバルのウィンスターが、13分40秒の壁を破ったぞ」
「40秒の壁……」
スタインオリンピックで13分40秒88と、ヴァージンの持っていた世界記録を大きく突き放したウィンスターが、ヴァージンの脳裏に浮かぶ。中距離走的なペースで12周半を走り終えるウィンスターの体に、オリンピック当日のヴァージンには余裕さえ見えたが、それから1年もしないうちに13分39秒98と、ウィンスターが文字通り「新しい世界」に世界記録を動かしていったのだ。
だが、ヴァージンはその知らせに、何も驚かなかった。
「ありがとうございます。でも、私はもう世界記録を意識するつもりはありません」
すると、ジェスキンがヴァージンに振り返り、思わず声を裏返した。
「えっ……、世界記録の女王が、世界記録って言葉に反応しないんだ……」
「そうですね……。気にしない方が、楽に走れるって思えてきたのです。残り4ヵ月、私は自分の走る時間を最高に楽しみたいから」
「そうか……。てっきり、ウィンスターに完敗して、ずっと落ち込んでるかと思った」
ヴァージンは、クールダウンをしようと座り、後ろに手をついたところでジェスキンにうなずいた。
「ウィンスターさんは、私に勝ちたいと思って、あれだけ強くなった。その努力は、タイムに現れる。同じトラックであのスピードを見た身として、認めなきゃいけないです……」
「あれだけの強いライバルを、認めるんだ……」
「いつだって、私は同じトラックに立った全てのライバルを認めています。トラックに立つまでに、どれだけ努力してきたか、どれだけそのレースに勝ちたいと思って毎日を過ごしてきたか……。たった14分、15分のレースのためにそれができるだけでも、すごいことだと思うのです」
ヴァージンは、座ったまま体を前に倒し、右手を右足に伸ばす。引退を前にしても、彼女の体は柔らかかった。
「そっか……。でも、グランフィールドも、ウィンスターに勝ちたいとか、世界記録を取り返したいとか、あの日以来思ったんじゃないのか」
「少しは思っています。でも、オリンピックの私は、世界記録がプレッシャーになって、何もできなかった。だからこそ、今は世界記録じゃなくて、忘れかけていた楽しいって気持ちを大事にするようになりました」
「楽しい、か……。俺も、記録に落ち込むことがあるけど、一番のジャンプを見せた時には、嬉しいよ」
ジェスキンが歩き出し、ヴァージンの横を通った時、ヴァージンはジェスキンと目が合った。
(なんだろう……。こうやってアスリートと話しているだけでも、楽しいと思えるようになってきた……)
もうすぐ離れることにした、勝負のトラック。残りわずかの現役生活となったヴァージンは、その上で感じる様々な想いを意識するようになったことに決めた。
(少なくとも、今の私は、プレッシャーから解放されて、少しずつ思い通りの走りができるような気がする)
「グランフィールドさんも、リングフォレストに出るんですね」
その日、ヴァージンが自宅に戻ると、ケトルランドでの高地トレーニングを終えたイリスが、大会事務局からの封筒を二つ持っていた。それぞれの名前が書かれた封筒をテーブルに並べ、イリスはそれを指差した。
「はい……。私にとっては、ラス2のレースになりますが」
「僕にとっては、今度こそってレースです。グランフィールドさんと同じように、タイムも戻ってきましたし、僕が世界一の走りを見せられる最高の舞台だと思うんです」
「イリス、心強い。いつか、ナイトライダーを抜いていきそうな気がする」
「いつかじゃないです。その日です」
(たしかに……)
ヴァージンは、イリスの言葉にそっとうなずいた。その言葉こそ、ヴァージンがレース前に何度も口にしてきたことであり、今でも持ち続けている「アスリートの本能」だった。
(イリスが、いつになく勇敢なスプリンターに見える……。ナイトライダーさんよりも、強そう……)
ヴァージンは、リングフォレストの地で何が起こるか、この場で予想した。
お互いが、世界一に向けて走り出していく未来を。
別々のコーチ、別々の代理人が付いているにもかかわらず、ヴァージンがリングフォレストのスタジアムに入ろうとすると、道路の反対側からイリスが男性コーチと並んで近づいてくるのが見えた。
(この場所で目を合わせるなんて、とても珍しいような気がする……)
普段は、選手専用エリアの中だったり、スタンドからだったりと、遠くでしか応援できなかったイリスを、始まる前から見るのは初めてと言ってよかった。家の中で感じているような落ち着いた気持ちが、ヴァージンにも、そしてイリスにも溢れているように、ヴァージンには思えた。
(なんか今日、ものすごくいいことがありそうな気がする……)
ヴァージンとイリスは、お互い目を合わせるだけで、数メートル間隔で歩いていても言葉を合わせることはなかったが、ともに選手受付が終わったときにこの日のタイムスケジュールに目をやっていた。
(女子5000mの後に、男子100mの決勝……。もしかしたら、私は一番近いところでイリスさんを見られる……)
トラックの中に残っていることはできないが、ロッカーに続いて行く階段からイリスがゴールする瞬間を見られる。その時、イリスが何位で飛び込んでくるか、ヴァージンは気になって仕方がなかった。
イリスがほぼ毎日のようにその名を口にするナイトライダーも、出場選手一覧の中にあった。
(いけない……。私は、自分のレースを楽しまなきゃ。気持ちを切り替えよう)
この日の女子5000mには、ウィンスターこそ出ていないが、オリンピックを境に自己ベストでもヴァージンを上回るようになったプロメイヤや、ローズ姉妹が出ている。
(ウィンスターさんは、最後のレースで女王を決める時に、一発勝負をすればいい。まずはその足掛かり……)
これまで、ヴァージンが何度もその挑戦を退けてきた3人が、サブトラックで本番に向けた調整を行っている。ヴァージンも、その中でライバルに話しかけずに、黙々とトレーニングを続けた。
(私は……、5000mを走る時間と、ライバルとの勝負を楽しみたい……!)