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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
ヴァージンの脚はもう 世界記録に届かない
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第78話 完敗 そして決断(7)

 世界競技会がアメジスタで開かれることを知ってから数時間もしないうちに、メドゥから1本のメールが入った。そこには、翌日の夕方に世界中のスポーツメディアが集まるプレスルームを取れたというメッセージが書かれていた。

(メドゥさんは、スタジアム近くのホテルで引退会見だったけど……、私は全くランクの違う扱いだ……)

 普通の会場ではなく、スポーツメディアの記者たちが常駐している世界で唯一のプレスルーム。メドゥ自身が、ヴァージンに最高の会見場所をということで動いたに違いない。

 ネットのニュースには、まだヘッドラインが出ていない。今の時点では、どのメディアも「明日の夕方にヴァージンが会見する」というところまでしか流せていないが、早かれ遅かれヘッドラインで引退が伝えられる。それを、長年のアスリート人生で何度も見てきたヴァージンは、この時点で会見が終わるまでメールを開かないことにし、メドゥにも電話でそのことを伝えた。

(メールを見ると、世界記録に対する未練が、もう一度蘇ってしまう……。私は、この瞬間だけは一人の人間に戻っていたい……)


 翌日ヴァージンは、ここ数年は滅多に着たことのないフォーマルな服を自宅から身に纏い、会見の6時間前にメドゥの所属するホワイトスカイ・スポーツエージェントに向かった。彼女は到着するとすぐに会議室に通され、会見の段取りについてメドゥや会見担当者と打ち合わせを行った。

 その打ち合わせで、最初に引退会見であることを確認されたほかは、会見の内容に対して特に込み入った話をすることはなく、逆にヴァージンが戸惑うほどだった。

「中身については、特に触れないのですね……」

「それは、グランフィールド選手の自由です。世界じゅうが注目していますから、何を言ってもいいですよ」

「何を言ってもいいと言われると……、少しだけ不安になります。ただ、言おうとしていることはここにまとめていますので……、何かあった時はメモをそのまま読むような感じで行きます」

 そう言ってヴァージンは、会見担当者とメドゥに短めのメモを見せた。メドゥがそれを見るなりうなずいた。

「私よりも、うまく出来上がっているじゃない。今まで、いくつもの心に響く言葉を伝えたヴァージンらしい」

「メドゥさんは、あのサイアールでの引退会見、ほとんどメモを用意していなかったのですか」

「メモは作ろうとしたけど、途中で諦めた……。あの時は膝をケガしてたし、ヴァージンのように、私に引退を打診してしばらく時間があったわけじゃないから……」

 メドゥは、そう言いながらかすかに笑った。その笑顔の向こう側に、競技生活に別れを告げた、8年前のメドゥの表情が浮かび上がってくるのだった。

(アスリートとして、一度しかない経験。私にとってそのモデルは、メドゥさんしかいない……)

 ヴァージンが、何も返せずにメドゥの表情を伺っていると、メドゥは一言だけヴァージンに伝えた。

「大丈夫よ、どんな困難だって乗り切ったヴァージンなんだから」

「分かりました」

 背中を押されたような感触を、その時ヴァージンは味わった。会見は失敗しないという自信だけが、彼女の心の中で漂っていた。


 そして、その時はやって来た。ヴァージンが思った通り、これが引退発表となることはどこかから漏れており、メドゥと並んで会見場に入ろうとするヴァージンに「引退されるんですか、今の気持ちを」などとフライングで質問する記者が何人かいた。

「プレスルームだから、私は会見場に入れない。でも、控室からヴァージンを応援しているから」

「メドゥさん……。ありがとうございます……。最初で最後の引退会見を、見守っていてください……」

 ヴァージンとメドゥが同時にうなずくと、係員が控室のドアをノックした。

「ヴァージン・グランフィールド選手。お時間です」

 ヴァージンは「分かりました」とだけ伝え、上着の右ポケットに会見のメモを入れて席を立った。落ち着きのある廊下をゆっくりと進み、係員が頑丈なドアを開くと、木目調の床が眩しいプレスルームがヴァージンの目に飛び込んだ。

(テレビのニュースでも、ほとんど見たことがない……。こんな素晴らしい場所で、私は大事な会見ができる)

 座る椅子も、スタジアムのプレスルームとは全く座り心地が違う、全身が研ぎ澄まされるような感触がした。そして、ヴァージンが大理石の机に向かって体を出すと、司会が演台の前に立ち、始まりの時を告げた。

「それではこれより、ヴァージン・グランフィールド選手の会見を始めます。質疑応答の時間は後程取りますので、グランフィールド選手の発言中は、質問をお控えください」

(緊張してくる……)

 トラックの上に立った時とは、全く異質の緊張感がヴァージンを襲う。多くのカメラが、たった一人の女子陸上選手に向けられ、そのカメラの向こうでは、自宅で応援しているイリス、グローバルキャスの現地放送を通じて見ているかも知れないアメジスタの人々、そしてこれまでヴァージンを応援してきた多くのファンが待っている。それだけでも、いざその時を迎えるヴァージンに緊張しない理由はなかった。

(プレッシャーに負けちゃいけない……。私は、多くの人に夢や希望を届ける一人のアスリートなんだから!)

 そう心に言い聞かせ、ヴァージンはマイクの電源を入れた。



「今日は、私のためにこのような会見を開いて頂き、ありがとうございます。そして、いつも私を支えて下さる方々、応援の言葉を掛けてくれる方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。


 さて、私ヴァージン・グランフィールドは、来年のグリンシュタイン世界競技会を……、引退のレースとすることに決めました。

 引退は、言葉にすると短い時間で言い終わりますが……、それを決めるのは、とても心苦しいです。正直、膝も治ってきて、まだまだ走れそうだと体が語り掛けてくることもあります。その中で、自分で自分の競技生活にピリオドを打ってしまうのは……、本当に辛いことです。ですが、私が引退を決めるには、それなりの理由があることも、また事実です。


 13分40秒88。これが、今の女子5000mの世界記録です。ここ数年、記録が伸び悩み、無理をしてまで世界記録を出した結果、膝がまた痛むということを繰り返す私には、あまりにも遠い背中です。

 以前私は、世界記録は次の世界を照らし出す光だと言いました。私と世界記録が切っても切れない関係になったときから、私はレースのたびにその光を目指して走り続けてきました。ですが、やがてその光が見えなくなったとき、私は暗闇の中を走っているようにしか思えなくなりました。


 世界記録を出すことが楽しみだったのに、この1年、2年……、もしかしたらそれ以前からかも知れませんが、いつの間にか、世界記録がプレッシャーになり……、今の世界記録が私の限界なのだと落ち込むようになって……、そのうちに走ることに対する情熱までどんどん小さくなっていることに気が付きました。

 私のタイム、イコール世界記録。あるいは、私に限界なんてない、限界なんて来て欲しくない。多くの人々が私に抱いてきたイメージと、タイムの伸びない今の私とのギャップに苦しむしかありませんでした。もうダメかも、と言葉に出すことさえできませんでした。

 どんどん悪くなっていく記録だけは、正直でした。


 苦しんでいるうちに、先日のオリンピックで、全ての世界記録が私のものでなくなりました。

 新しい記録が出た瞬間、肩の荷が下りたような気がしました。世界記録を出せなくなったのに、次の世界記録を出さなきゃいけないという、重すぎる使命感に苦しむことがなくなったと思うと、少しだけ気が楽になったように思えます。

 ただ、それは同時に、世界記録と戦い続けてきたアスリート、ヴァージン・グランフィールドが完全に消えた瞬間でもあります。今までの私じゃない自分が、トラックで走り続けると思うことも、また苦しいのです。

 世界記録という目標を失った今、私はアメジスタのみんなの前で走ることだけを最後の希望にするしかなくなりました。そこに、最高の舞台が待っていると知ったとき、私はそこで終わりにしようと決めました。


 私は8年前、クリスティナ・メドゥ選手が引退するとき、思わず泣き叫びました。憧れだったアスリートがトラックを去るなんて考えたくありませんでした。

 ただ、その会見でメドゥ選手が私に伝えた言葉、私はずっと覚えています。ヴァージン・グランフィールドが、自分に代わって女子5000mの未来を切り開いていく、女王だと……。そう言ってくれました。

 私一人で43回の世界記録を叩き出し、女子5000mに至っては、メドゥ選手の世界記録を35秒も縮めました。私はメドゥ選手の言葉通り、ずっと女王であり続けました。


 その肩書きさえ、もうすぐ誰かに引き継ぐことになります。私に代わって、女子長距離走の世界を引っ張り、世界記録を更新し続ける、そんな強いアスリートに未来を託す時が来ます。

 ですが、来年のその日までは、私は長距離の女王としてトラックに立とうと思います。世界記録を気にすることなく、レースを楽しんで、出せる限りの力を出し切って、女王らしさを見せようかと思っています。

 そして、この場を借りて一言言わせてください。イザベラ・ウィンスター選手と私の、どちらが本物の女王か、最後に決めさせてください。


 引退まで、まだあと1年近くありますが、最後まで全力で走り続けます。以上です」



「ヴァージン、本当によかったわ……。私なんかよりも、何十倍も偉大なアスリートに見えた」

 控室に戻ってきたヴァージンを、メドゥが手を叩いて待っていた。メモにすら書いていなかったメドゥの会見を引き合いに出し、席を立った瞬間にしまったと思ったヴァージンは、思わず息を飲んだ。

「すいません……、なんか、引退会見なのに……、自分の気持ちを伝えようとしたら、つい本気になって……」

「そんなことないわ。だってヴァージン、最後まで何かを起こしそうだから……。最後まで、その気持ちよ」

 メドゥに軽く肩を叩かれたヴァージンは、全身から力が湧き上がってくるのを感じた。


 世界記録に立ち向かい続けた一人のアスリート。

 その奇跡は、まだ終わらない――。

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