第78話 完敗 そして決断(6)
オリンピックの舞台を後にして、オメガセントラル国際空港に降り立ったヴァージンは、到着ロビーの一番手前にメドゥがいるのを目にした。メドゥは金髪を軽く揺らしながら、ヴァージンに向けて大きく手を振っていた。
(やっぱり、私のことを心配で迎えに来たんだ……)
メドゥが飛行機の手配まで全て行っていた以上、オメガに戻る便が分かっていたとは言え、空港ロビーまで出迎えに来るのは想像していなかった。それどころか、ヴァージンにはそこまで頭が回らなかった。
「メドゥさん……、空港まで出迎えてくれてありがとうございます……」
「そうね……。私がここに来たの、ヴァージンの結果が信じられなかったし、きっとヴァージンだって言いたいことあると思ったから……」
メドゥの言葉に、ヴァージンは小さくうなずいた。メドゥの声のトーンは、明らかに低かった。
二人は、空港からほど近いカフェに入り、横並びに座った。
「ヴァージン、お疲れ様。結果は聞かないわ」
「はい……」
二つのグラスが小さな音を立てて触れ合うと、二人は正面にある窓ガラスに向かい、ストローで少しだけアイスコーヒーを飲み、それからメドゥがヴァージンに体を向けた。
「ヴァージンの正直なところ、聞かせて。あんな世界記録を出されるなんて、思ってた?思っていなかった?」
「……時間の問題だとは思っていました。けれど、最初からラップ66秒台前半を出されるとは思わなかったです」
ヴァージンの脳裏に、次々と彼女の前に出ていくライバルたちの後ろ姿が思い浮かんだ。何人もの背中を追わなければならないことは何度もあったが、あそこまで速いラップで引っ張られるのは初めてだった。
「なるほどね……。私も、中距離出身のウィンスターが、女子5000mまで中距離走にしてしまったように見えた」
「なんか、そういう気がします……。男子がそうなってしまったように、女子も、5000mまでは速いペースの展開と、あまりスパートで勝負しない戦略になっていくのだろうと、周回を重ねるたびに思い知らされました」
「今まで、何人かいたじゃない。メリアムとか、他の種目から5000mに移ってきた選手。それでも、ヴァージンのスパートがその走りを抜き去っていった。でも、13分40秒88ってタイムは、ヴァージンがいくらベストコンディションで走っても追いつけなかったのかも知れない」
ヴァージンは、小さくうなずくしかなかった。それを見て、メドゥは再び口を開いた。
「それでヴァージン。まだ決めていないかも知れないけれど、これからも戦おうと思ってる?」
(この話が来た……)
ヴァージンは、首を小さく横に振ろうとした。だが、目線を左右に動かすだけで、動作にならなかった。
「メドゥさん。私は、何もかも目標を失いました……」
「やっぱり、そう思っているのね……。ライバルとじゃなくて、世界記録と戦い続けたアスリートだから……」
「その通りです……。自分の限界が見えてしまい、世界記録も遠いところに行ってしまった今、トラックに立つ意味はほとんどないのかも知れません。ただ一つ、最初から抱き続けてきた夢を除けば……」
ヴァージンがゆっくり話すと、メドゥは手持ちのファイルをゆっくりと取り出し、ヴァージンに見せたいページを一発で止めた。そこには、ヴァージンの見覚えがある、最新鋭のスタジアムのパンフレットが入っていた。
「これでしょ。ヴァージンの夢というのは」
「それです。アメジスタのスタジアムで、一度でいいから私の走る姿を見せたいって、ずっと思ってきました」
そこまで一気に言った後、ヴァージンはため息をつき、それからもう一度パンフレットを見た。
「これだけを目標にするのは、私にとってあまりにもスケールダウンです……。ずっとトップアスリートと呼ばれてきたのに、最後はアメジスタの国内選手権になって……、アメジスタのみんなは喜ぶと思いますが、そこに私のライバルがどれだけいるのかと思うと……」
「いつものヴァージンだったら、そんなこと言わないのにね」
かすかに笑うメドゥの表情に、ヴァージンは小さくうなずくこともできなかった。
「どんなレースでも、どんなトレーニングでも本気で走ってしまう。それが、ヴァージンの強さ。それをアメジスタのスタジアムでも見せればいいじゃない。それが、みんなの思うヴァージンの姿よ」
「でも……、目標を失い、世界記録も見えなくなり、暗闇を走っている私は……、本気になれるか分かりません」
今度は、ヴァージンの言葉にメドゥが言いかけた口を閉ざす。その中で、ヴァージンはさらに続けた。
「走ることに対する情熱が、どんどん失われていくのです……。限界が見えたとき、それが私の……」
「ヴァージンに、限界なんてあって欲しくない!それが、誰もが抱いてきたヴァージンのイメージよ……!」
メドゥが、落ち込み続けるヴァージンの言葉を止める。小声で「すいません」としか返せなかった。
「一つだけ夢があるのなら、そこに向かって走って行けばいいじゃない。たとえ世界記録が遠くなったとしても……、もうその脚では出せないかも知れないところまで離れてしまったとしても……、ひたすら記録に立ち向かう姿。それだけは、忘れないで欲しい……」
(メドゥさんが、やっぱり大人に見える……。実力は私の方が上になっても、いつまでも尊敬できる存在だ……)
ヴァージンは、何度かメドゥにうなずいた。その動きは小さくても、このまま暗闇に飲まれてしまう彼女自身を救うには十分すぎるパフォーマンスだった。
「43回も世界記録を更新し、5000mのタイムを35秒も縮めたこと。それは、たとえヴァージンが全ての世界記録を失ったとしても、ヴァージンの走り続ける姿とともに、みんなの心に永遠に刻まれ続けるわ。だから、自信を失わないで。ヴァージン・グランフィールドは、最後まで女王であるべきよ!」
「……分かりました。ちょっとだけ、気持ちが戻ってきたような気がします……」
ヴァージンがようやく普通のトーンで言葉を返すと、メドゥはそれを待っていたように、かすかに微笑んだ。
「これ、ヴァージンに言わない方がいいかなと思ってたこと。陸上機構でも極秘情報なんだけど……」
メドゥは、ヴァージンの耳元で一言、二言告げた。その言葉に、ヴァージンは息を飲み込んだ。
「来年の世界競技会の場所が決まってないのは……、そういう理由……」
「そういうこと。ヴァージンが何言っても立ち直らなければ、それも言わないでおこうと思ったの。ヴァージンにとって、それが最高の夢で……、最高の……。そこから先は、ヴァージンが決めること」
「分かりました。発表を待ちます。ただ、その時はメドゥさん……」
ヴァージンがそう言いかけると、メドゥは「分かった」と言葉を返した。
記録が戻っていないこともあり、ヴァージンは今年のレースの出場申し込みをせず、来年も方針が固まり次第、出場する大会をメドゥに相談するつもりだった。エクスパフォーマのトレーニングセンターにはほぼ毎日向かっていたが、世界記録という目標が見えない中でタイムトライアルをすることはなかった。
代理人のメドゥ以外、誰もタイムやフォームを見てくれる人がいないのも、また事実だった。メドゥが何も言わなくても、オリンピックで出したタイムが交渉に不利な材料になったことは、ヴァージンにも分かっていた。
そして、9月も終わりになりかけた頃、ほぼ同時に二つのニュースがヴァージンに届いた。
「アメジスタのスタジアム、来年の夏までに完成する……!」
アメジスタ文化省から、画像付きのメールが届いた瞬間に、ヴァージンは思わず声を上げた。その声があまりにも大きかったのか、キッチンに立っていたイリスが野菜を切る途中でパソコンの前まで飛んでくるほどだった、
「とうとう、夢が叶うのですね……!」
「はい。ずっと、ずっと抱き続けてきた夢が……、形になるときがきます」
つい2ヵ月前、ヴァージンが上空から見たスタジアムだったが、メールに添付されていた正面からの画像も壮大で、この場所で戦うアスリートに力を与えるような雰囲気のデザインがいくつも散りばめられている。まだ内装は工事中で、来年夏の完成に向けて国内外の業者が作業を進めているそうだ。
だが、ヴァージンがイリスに向かって笑った時、もう一つのメールが届いた。国際陸上機構からだった。
――ヴァージン・グランフィールド選手を、来年夏のグリンシュタイン世界競技会の第1招待選手に選定します。
(来た……!メドゥさんが極秘に掴んでいた情報は、間違っていなかった……!)
スタジアムが完成すれば、来年の夏、アメジスタで世界競技会が行われる。メドゥから伝えられた時には、陸上機構から招待選手の話まで上がっていたはずだ。
(トレーニング施設が充実し、国外のアスリートがトレーニングをするようになったアメジスタ。そこで、世界最大の陸上の大会が行われようとしている……。なんだろう、こんな夢の舞台で……)
だが、ヴァージンはメールの文面にうなずくものの、スタジアム完成のときのようには喜ばなかった。その代わり、キッチンに戻ろうとしていたイリスにこう伝えたのだった。
「私、来年のグリンシュタイン世界競技会を最後のレースにする。これが私のラストランに、一番ふさわしい大会だから」
(あっ……、イリスには私が引退を考えているなんて伝えてなかった……)
これまで、イリスには弱音の一つ吐いていないことにヴァージンが気付いたのは、全てを言い切ってしまった後だった。だが、「そっか……」と小声で言って、ヴァージンに向き直るイリスに、戸惑いの雰囲気はなかった。
「とうとう、その時が来るんですね……。誰もが避けて通れない、引退という日……」
「そうね……。そうだと分かっているけれど、そのタイミングを決めるのは難しい」
ヴァージンはうなずいた。その時には、メドゥが準備に向けて動き出しているはずの引退会見で伝えたい言葉を、断片的に思い浮かべていたのだった。