第78話 完敗 そして決断(5)
スタインオリンピック、女子5000m決勝のスタートを告げる号砲と同時に、ヴァージンはラップ68秒のペースまで加速する。だが、その外側からメリナが一気にラップ67秒を切るスピードでヴァージンをかわすと、それを意識したのか、内側にいるウィンスターとプロメイヤが、ほぼ同時にラップ66.3秒ほどのペースまで加速していった。ロイヤルホーンとカリナも、メリナの後ろにぴったりと付き、自己ベスト14分台の選手でさえも数名がラップ67秒を切るスタートダッシュを見せるのだった。
(こんなハイペースのスタート、見たことない……)
ウィンスターのレースを、ヴァージンは今年に入ってテレビでも見なかった。特に、自己ベストを0コンマ04秒差に詰められたセントイグリシア選手権に至っては、ウィンスターのラップタイムすら見ていなかった。だが、ラップ66.3秒というのは、そこからスパートをかけなくてもヴァージンの世界記録に並んでしまうペースだ。
(でも、こんな走り方を4000mまで続けられるわけがない……)
少なくとも、ヴァージンがラップ66秒台で4000mまで勝負することはできなかった。トレーニングで一度試してみたものの、最後のスパートが全く伸びていかず、逆にタイムを悪くすることとなったからだ。だが、これまでヴァージンと戦ってきたライバル、特に前に立つ二人――ウィンスターとプロメイヤ――は、そのペースすら気にしないほど、走りに余裕を見せている。
(中距離走の走り……。それは、ウィンスターさんがよく分かっている……。だからこそ、ウィンスターさんと戦うために、プロメイヤさんだって明らかにフォームを変えている……)
最初の1周が終わり、ヴァージンは先頭集団から早くも10mほどの差をつけられていた。ラップ66.3秒のペースが、他のライバルを牽制したスタートダッシュではなく、これからそのラップで戦うという強い意思の表れであるように思えた。
(私がここから逆転するには、どうすればいいか考えるしかない)
ラップ68秒をやや上回るペースで走り、一昨年までは出せていたスパートで前を行くライバルたちに食らいつけば、オリンピックの連覇と新たな世界記録が見えてくる。だが、この1年の走りを考えれば、その体が知る最速のタイムを見せつけるのは、奇跡と言うしかなかった。
(大丈夫。私は……、この体で世界記録を知っているから……。この体で、何度記録を破ってきたか……!)
冷静に言い聞かせたつもりの言葉でさえ、焦っているようにしか彼女の心に響かない。それを言い聞かせている間に、彼女からライバルの姿が遠ざかる。同時に、彼女はペースが落ち始めていることを意識し、一度落ちたペースを取り戻さざるを得なかった。
(ラップ68秒……。それが、世界記録への最低ライン……。今日の私が、それを出せないわけがない……!)
最初の1周でちょうど10mの差をつけられていたウィンスターとは、2周目で20mをやや上回る差をつけ、3周目が終わる時には35mほどの差になっていた。コーナーに差し掛かった時に、ヴァージンはウィンスターのストライドを確かめるが、66.3秒よりもややペースを上げているようにしか見えなかった。プロメイヤも、メリナも、カリナも、そしてロイヤルホーンでさえも、最初の1000mを過ぎてややペースを上げているように見えた。
(私も、勝つためにペースを上げるしかない……)
このままペースが落ちなければ、優勝した選手が新たな世界記録を手にする。2000mを前にして、これまでヴァージンが常に意識してきた勝負がその脳裏に浮かび上がる。その勝負に、最速女王が挑まないわけにいかなかった。だが、そう思ったことさえも、彼女がこれまで組み立ててきたベストのペース配分に対して自信が持てていないことの裏返しでしかなかった。
このトラックの中で渦巻いている異次元の雰囲気に飲み込まれているのは、ヴァージンしかいなかった。
(そんなことを考えちゃいけないのに……。私がベストな状態で走れば、世界記録を手にするはずなのに!)
気が付くと、ヴァージンは何度か首を横に振っていた。彼女のペースは、ラップ70秒近くまで落ちており、そこからラップ68秒に戻すも、わずかなタイムロスを取り戻すための一歩が踏み出せない。
否応なしに、普段よりも早い段階から勝負を仕掛けなければならない現実が、彼女を襲う。
(どこからスパートを始めれば、今のベストタイムになれるのだろう……。自分しか分からないこんなことを、レース中に考える余裕なんてないはずなのに……)
ヴァージンがそう考えているうちに、2000mを過ぎ、3000mまで差し掛かった。ウィンスターはヴァージンの体感で8分17秒から18秒、そしてヴァージンはウィンスターから遅れること20秒以上、130mほどの差をつけられていた。ヴァージンが走ってきたどのレースよりも、先頭が遠く感じられる。
(行くしかない……)
ヴァージンは、「フィールドファルコン」の底を力強くトラックに叩きつけ、普段よりも1000m早くペースを上げた。ラスト1周をラップ55秒のトップスピードで走るとして、そこまでの4周をヴァージンは出せる限りの力で挑んでいくしかなかった。
だが、ヴァージンの動きを先頭集団が察したのか、プロメイヤがまずラップ66秒までペースを上げ、ウィンスターの横に並ぼうとする。それを見たウィンスターが、ラップ65秒までペースアップしてプロメイヤをかわしていく。そして、そのペースは一時的なものではなく、残り2000mを過ぎてからのウィンスターの作戦であるかのように、ラップ65秒のまま軽々と走り続けるのだった。
(ウィンスターさんのペースが、全く落ちない……。むしろ、世界記録に向けてスパートを見せ始めた……)
そのペースを見た瞬間、「フィールドファルコン」がさらにペースを上げようと、その「翼」を強く羽ばたかせようとした。だが、ヴァージンがペースを変えようと体の重心を前に傾けたとき、彼女の脳裏にいくつもの言葉が浮かんできた。
――世界記録を更新できないヴァージン・グランフィールドは、完全に別人だと思います。
――グランフィールドさんだけは、限界なんて言葉とは無縁の存在だと信じていました。
――世界記録は、もう出せないんですか。
(苦しい……)
頭をよぎることさえ考えたくなかった言葉が、この日も出てきてしまった。不振にあえぐヴァージンを縛り付けていく言葉に対して、今の彼女の脚に振り切れるだけの力はなかった。
(世界記録と戦うことが、私がトラックに立つ楽しみだったはずなのに……)
13分48秒26という、その時はたった一つの通過点に過ぎなかった記録であり、次の日にでも追い越してしまいそうな「過去」が、長いこと世界記録を更新できていないボロボロの「女王」を、縛り付けていた。タイムが目に見えて落ちていくたび、さらに10000m、5000mインドアと世界記録を他のライバルに破られるたびに、その全てを苦しめていくのだった。
スパートを踏み出そうとしていた足が、現実を前に怯えている。
世界記録に挑み続けた女王が、トラックの上で起きている現実に、なすすべもなく立ちすくみ、沈んでいく。
ヴァージン・グランフィールドという、一人のトップアスリートの輝きは、この場所で消えようとしていた。
(世界記録……)
ウィンスターが奏でるラスト1周の鐘を、ヴァージンは手前のコーナーに差し掛かってすぐに耳にした。どのレースよりも遠く離れた場所、ほぼトラックの正反対の場所で響いた鐘が、遠く離された彼女の耳にはっきりと刻まれた。ラスト1周に挑んだウィンスターのタイムは、12分36秒から37秒ほど。ウィンスターが少しペースを緩めたとしても、世界記録を破ることは確実だった。
ヴァージンは、何度もペースアップを試みるも、トップスピードとは程遠い低速スパートにしかならなかった。それさえも、自らを締め付けていく現実を前に維持することができず、徐々にしぼんでいく。ウィンスターとの差は広げられる一方だった。
(もう、何も考えたくない……)
ヴァージンは、ラスト1周に入ってもスピードを上げることができず、もはや見ることもできないウィンスターの背中を観客の歓声で追い続けるしかなかった。客席から、「20、19……」という声が響き、それが0になるのはヴァージンの出せた最高のタイムになるときと気付くまで、彼女にはそれほど時間がかからなかった。
それは、女王ヴァージン・グランフィールドが最後の世界記録を失うまでのカウントダウンだった。
13分40秒88 WR
(私の出した世界記録は、今日で全て更新されてしまった……)
普段と同じように記録計に足を向けかけたとき、現実がヴァージンの目に映った。その数字を見たとき、彼女はクールダウンをすることも忘れ、目にいっぱいの涙を浮かべた。自らの記録ではないワールドレコードは、その涙で、ぼんやりとしか映らなかった。
(今の私に、新しい世界記録を追うのは、あまりにも難しい……)
記録計から目を反らすと、ウィンスターがプロメイヤに「なかなかじゃない」と告げているのが、ヴァージンの耳にかすかに聞こえた。プロメイヤも13分44秒83と、それまでの世界記録を大きく上回るタイムで銀メダルを手にした。ウィンスターのハイペースを意識したロイヤルホーンやメリナさえも、13分50秒を切るタイムだ。
かたやヴァージンは、14分13秒73で7位。これまで彼女と優勝争いを繰り広げた全てのライバルに敗れ、この18年間、5位以下に沈んだことのない彼女には、完敗と言っていい結果だった。
(はぁ……)
モニターに映る、女子5000m決勝のタイムを7位まで目にしたところで、ヴァージンは深いため息をついた。その音が伝わったのか、ウィンスターがヴァージンに振り向いて近づいた。ヴァージンは、普段受けているように、ウィンスターの肩を抱こうと、右腕を伸ばした。
「世界記録、おめでとうございます。すごいタイムです」
だが、ウィンスターはヴァージンに向けて首を横に振り、一言告げるだけだった。
「ヴァージン・グランフィールド。あなたをもう、女王とは呼べないわ」
(あれだけ私を尊敬していたのに……!)
肩を抱くまでもなく、次のステージに向けて走り出してしまったウィンスターを、彼女はじっと見つめるしかなかった。呆然と立ち尽くす彼女に、背中からカリナと思われる声が響いた。
「グランフィールド、信じてたのに……」
スタジアムは、新たな世界記録の誕生と、一人のアスリートの変わり果てた姿に、どよめきが止まなかった。その空気の中で、ヴァージンはトラックを後にするしかなかった。
(私の時代は、終わった……)