第78話 完敗 そして決断(4)
(二人に、何と声を掛けたらいいのか……)
二日後にはヴァージン自身の女子5000m決勝が控えているものの、思ってもいなかったレースを立て続けに見てしまった以上、そのまま帰るわけにもいかなかった。数多くの陸上選手が出てくる中で、彼女は待ち続けた。
準決勝2組が終わってから20分後、先に出てきたのはフェリアーノだった。予選の時には整っているように見えた茶髪も、二度のレースを終えて風圧でその姿が変わっているようだった。重いバッグを持って、前を向いてまっすぐに歩いてくる姿は、実際とは逆に、レースに勝ったような雰囲気さえ見せていた。
「グランフィールド選手!残っててくれたんですね……!」
「はい。同じアメジスタの選手として、見なきゃって思ったのです。準決勝、あと少しでしたね」
ヴァージンが語り掛けるようにフェリアーノに言うと、フェリアーノは首を小さく横に振った。
「そんなことないです。それが今の僕ですから。次はもっと、上に行けばいいんです」
「フェリアーノさん、立ち直りがものすごく早いです。私も、見習いたいくらいです」
「グランフィールド選手のほうが、ずっと大先輩なのに……。僕、なんか照れちゃいます」
フェリアーノがそう言うと、ヴァージンは、彼の肩を軽く叩いた。
「今日、フェリアーノさんは世界中で有名になりました。アメジスタに、私以外にも強い陸上選手がいるということ、それに、私の夫よりも速かったという記憶は、みんなが刻んだと思います」
「あ……、そうでした……!」
フェリアーノは、ヴァージンの言葉に思い出したように息を飲んだ。
「言われてみれば、予選で一緒だったイリス選手は、グランフィールド選手と結婚されてましたよね……。なんか、レース中は全く意識しなかったのに、改めて知ると、逆に僕がすごいことやっちゃったような気がします」
「それは、間違いないことです。これからも、応援しています。同じフィールドで育った人間として」
「ありがとうございます!」
フェリアーノはヴァージンに向かって軽く頭を下げると、ゆっくりとスタジアムの出口に向かった。だが、それから10mほど進んだところで、一人の男性がフェリアーノに近づく。見るからにエージェントの人間と思われるような雰囲気を、ヴァージンに見せていた。
(フェリアーノさん、私と同じように世界で戦うアスリートになれそう……。今日オリンピックの舞台で走ったことで、人生は変わっていく……)
ちょうど19年前、右も左も分からなかったヴァージンにマゼラウスが声を掛けてきたときのように、フェリアーノもその誘いに対して、信じられないような表情を浮かべていた。それから、「覚悟はあります」と伝えたかのように大きくうなずいていた。
(きっと、次に私が見る時は、もっと強いアスリートになって帰ってくる)
ヴァージンは大きくうなずき、再び選手専用エリアの方を見つめた。ちょうどその時、イリスがゆっくりと出てくるところだった。イリスは、ヴァージンの姿を見るとやや肩を落としながら近づいてきた。その表情をヴァージンが見る限り、涙はロッカールームで流してきたようだ。
「今日は、全然ダメでした。最初の敗北で、集中力が切れたような気がします」
「あれだけ有力選手が固まっていたら、イリスが準決勝で9秒83を出しても勝てない。ただ、ポイントはやっぱり予選だった……」
「そうですね……。アメジスタの強さを感じるの、グランフィールドさんと走ったとき以来かも知れないです」
「たしかに、それは言える……。イリス以上に、私の方が、あの予選でフェリアーノさんが1位になるなんて思わなかった」
ヴァージンがそう言うと、イリスはやや考えるしぐさを見せながら間を開け、その後ヴァージンに尋ねた。
「あの……、グランフィールドさんは、あの予選で僕とフェリアーノ、どっちを応援してたのかなって……」
(難しい質問が飛んで来た……)
たしかに、あの場ではフェリアーノに心の中から声を掛けていたものの、イリスの1位通過も間違いないと思っていた。それだけに、どちらを応援していたかを正確に言うことは難しかった。
「妻としては、イリス。でも、アメジスタを背負うアスリートとしては、フェリアーノさん。だから、あの時の私はフェリアーノに声を掛けた」
「やっぱり。僕と出会う以前から、グランフィールドさんは、アメジスタに夢と希望を与えてきた一人の女性ですから……」
イリスは、特に怒っている様子はなかった。彼は、自信の告げた言葉に照れているだけだった。ヴァージンも、イリスが決勝に残れなかったことすら忘れたかのように、その表情に釘付けになった。
その二日後、再びスタジアムに悲鳴が上がることを、ヴァージンは何一つ覚悟していなかった。
(私は……、このまま世界記録を奪われるわけにはいかない……。今日、私は最高の自分を見せる……)
その日、ヴァージンがオリンピックスタジアムに足を踏み入れると、普段と同じようにメディアのカメラがその姿を追った。特にインタビューはされなかったものの、カメラマンや記者たちが、まだ5000mの女王がヴァージンだという目を見せていることは間違いなかった。
(この1年くらい、全く記録が伸びないけど、それは過去のこと。一昨日の予選だって、久しぶりに13分台を出せたし、アフラリに入ってから調子が上向いているような気がする……)
女子5000m決勝には、ウィンスターやプロメイヤ、ローズ姉妹といった普段の顔ぶれが並ぶ。地元アフラリのロイヤルホーンも10000mに続いて出場し、この決勝では自己ベストが13分台の選手が6人揃うこととなった。
そして、その中で13分50秒もクリアしているのは、ヴァージンとウィンスターの二人だ。
(ウィンスターさんには、絶対負けたくない……。今度こそ、私はウィンスターさんよりも前に出る……!)
選手受付からロッカールームに入り、その後サブトラックで最終調整に入るが、この日は不思議とライバルの走る姿が目に入らなかった。
逆に言えば、他を気にする時間も、余裕もなかった。それだけ、ヴァージンは自然に追い込まれていた。
(なんか、いつも以上に緊張する……。こんな気持ち、今までのキャリアで数えるくらいしかなかったし、こういう時に結果を出せるのが私のはず……)
いよいよ、集合時間となった。集合場所に向かう時、ヴァージンのすぐ目の前にウィンスターとローズ姉妹が歩いているのが見え、トラックでないのに彼女は追い越そうとした。彼女がこの日、それまで何度となく戦ってきたライバルの姿を意識するようになったのは、それからだった。
(世界記録ばかり意識してきたのに、どうして今日はライバルのことを考えるのだろう……。ライバルに勝つなんて、自己ベストを考えれば難しいことじゃないはずなのに……)
それから数十分後、彼女はスタッフに案内されトラックに立つ。トラックの最も内側がヴァージンの定位置だったが、この日はその内側にウィンスターやプロメイヤの姿があった。この1年のランキングを考えれば決しておかしくない並びも、いざ並んでみるとヴァージンには不思議でならなかった。
だが、それ以上にヴァージンが普段と違う雰囲気を感じたのは、ウィンスターがモニターに映ったときのスタジアムの反応だった。まるで、ナイトライダーがトラックに立った時のような、全てを飲み込むような歓声がヴァージンの耳に染み込んできた。
(ウィンスターさんだって、たしかに5000mでも有名な選手になった……。でも、ここまで応援が大きくなるなんて、去年の世界競技会では全く思わなかった……)
自己ベストにして、わずか0コンマ04秒差。ヴァージンはウィンスターを横目で見た。黄色く輝くフラップのシューズ「スパークエア」が見える。フラップが今年発売したシューズで、ウィンスターがプロモーションをしているのを、ヴァージンは否応なしに目にするのだった。かたや、「フィールドファルコン」のCMのオファーは、ジャンパー膝にかかって以来エクスパフォーマから受けていない。
(「フィールドファルコン」が生まれた5年前から、どこまで技術が進歩しているか分からない……。でも、私はこのギアでいくつもの世界記録を破ってきた)
ヴァージンの目の前にカメラが止まったことすら、もはや彼女は気付かなかった。そして、カメラが他の選手を映した時、スタンドにアメジスタの国旗が見えた。ちらほらとしか見えなかった。それどころか、その隣には「Winstar, Go WORLD RECORD!!」という幕が飾られていたのだった。
(世界記録を出すのは、私のはずなのに……!)
ヴァージンは、ウィンスターに見えないように両手の拳を軽く握りしめた。その瞬間、低い声が選手たちの耳に響いた。
「On Your Marks……」
女王は、ボロボロの脚で走り出す――。