第78話 完敗 そして決断(2)
4年前のアメジスタでの金メダル報告会と同じように、オリンピック壮行会もあっという間に終わった。会場にはそれぞれの代表選手とつながりのある、学校や職場の仲間などが集まっていたものの、誰もがヴァージンの名が呼ばれた時に大きな声援を上げたのは印象深かった。
ヴァージンも、歓声の中で「三つ目の金メダルを取ってきます!」と力強く叫んだくらいしか記憶になかった。
(オリンピックは、連覇がかかっている。私は、いまアメジスタを背負って戦っている……!)
弱い心が誘いかけてくるようになったこの1年ほど、ヴァージンは満足なタイムを出せていない。だが、世界に誇れる新しいスタジアムと、背中を押す多くのアメジスタ人を見た彼女に、不安の二文字はなかった。
その日は実家に戻らず、グリンシュタイン中心部の再開発地区に建った、オメガでも数少ない高級ホテルの一室に泊まった。24階という、かつてのグリンシュタインでは考えられなかった高さから、すっかり近代的になった街を、ヴァージンは窓の外から見渡す。少し離れているとは言え、大聖堂の尖塔の先を見下ろすのは、彼女にとっても初めての経験だ。
(統計ではどうだか分からないけど、アメジスタはもう、世界一貧しい国なんかじゃない……。私の走る姿を見て、世界に恥じない国にしたいと、一人一人が立ち上がって、ここまで発展したのかも知れない……)
ヴァージンは、そこで目線を下にやって、やや広い通りを見下ろした。オメガに比べれば車の量ははるかに少ないが、その中にエクスパフォーマのロゴがペイントされた車を、彼女ははっきりと見た。
(ここまで来る間にもいくつかオフィスを見たけど、グリンシュタインにスポーツメーカーの拠点が集まっている。国内にトレーニング施設が増えて、道具や器具、ウェアも多く発注するだろうし……)
ヴァージンがそう心の中で呟く中で、やがてエクスパフォーマの営業車は空港の方に向かった。すると、今度はビルとビルの間から、空港に着陸しようとしている飛行機が遠くに見えてきた。中心街から極力遠ざかるように着陸する、ヴァージンも何度も通ったルートながら、彼女はその光景にはっとした。
(空港に来る飛行機、1日1機じゃなくなっている……。今回こそスタインにオリンピックの応援ツアーも組まれるみたいだからスタイン行きの飛行機は飛んでいるだろうし、もしかしたら、オメガ以外の国にもここから行けるのだろうか……)
ヴァージンは、部屋に備え付けられたノートパソコンを広げ、グリンシュタイン国際空港の就航スケジュールを検索した。画面が表示されてわずか1秒で、ヴァージンは思わず口に手を当てた。
(オメガセントラルが1日3便、アロンゾに週5便……。それに、オリンピックのあるスタインだって、オリンピックが終わっても週3便飛んでいる……。それくらい、アメジスタは世界に開かれている……)
他にも、近隣の島国やオメガよりも距離的に近い大国ともつながっている。ヴァージンが世界に旅立った時、わずか週1回のオメガ便しか外に出る手段のなかった国が、ここまで発展するとは彼女にさえ思えなかった。
「本当に、世界中からアメジスタに人がやってくる……。本当に、アスリートの国になったのかも知れない」
それから3週間後、スタインオリンピックの開会式には、あの時に出会った4名が一堂に集まった。ヴァージンの出場する陸上競技は主に後半の日程で開催されるため、開会式にアフラリ入りしていないライバルもいるものの、アメジスタの代表は口々に「この場所に来られた」と言いながら開会式に臨むのだった。
(これ……、グローバルキャスでアメジスタにも流れているのかな……)
入場行進の始まる10分前、ヴァージンはサブトラックから集合場所に戻ってくる途中にあったグローバルキャスのブースに立ち寄った。ヴァージンがカウンターの前に立った瞬間、店員は思わず彼女の顔を二度見した。
「ヴァージン・グランフィールド選手……。まさか、今からグローバルキャスのご契約ですか……」
「そうではありません。アメジスタで、どのような放送が行われているのか気になりまして……」
4年前や8年前は、グローバルキャスはメインチャンネルをグリンシュタインの街角などで流すだけだった。アメジスタ国内で開局したテレビ局は未だになく、ネットを通じてオリンピックの結果を知ることはできても、競技によってはアメジスタで中継を見ることができないまま終わってしまう可能性もあり得た。
だが、そうヴァージンが尋ねた瞬間に、店員が納得したようにうなずき、机の下にあったファイルに手を伸ばした。それから数十秒、ファイルのページをめくったのちに、1枚の紙を彼女に見せたのだった。
「アメジスタ向けのチャンネルも、現地法人から流すようになっています。アメジスタの選手が出る種目は、被らない限りは必ずアメジスタ向けのチャンネルで見られます。アメジスタの選手が出ていない時間は、メインチャンネルと同じですね」
「そうですか……。ありがとうございます。私の走りしか見られないと思っていたので……」
店員に頭を下げ、集合場所に向かって歩き出したヴァージンは、心の中で「よしっ!」と声を上げた。
(もう、アメジスタの選手の活躍が、誰からも見向きされないなんてなくなった……!)
アメジスタの人々が、アスリートに全く興味を示さなかったのは、国際試合での結果もさることながら、アメジスタ人の戦う姿を見る機会が一度もなかったという面が大きい。それは、ヴァージンがいくら世界記録を土産にアメジスタに戻ってきても、街の人々の反応が乏しいことで分かっていた。
(遠い場所から、同じアメジスタ人を応援できる……。考えるだけで素晴らしい……)
8年前のオリンピックでグローバルキャスが街頭中継を始めたとき、スクリーンに映ったヴァージンの名前は、その後に続く「アメジスタ」という国名とともに、道行く人々の心を一つにした。同じアメジスタ人が、世界で戦っている瞬間を見ようと足を止め、「夢語りの広場」などでかすかに記憶している一人の女子選手を懸命に応援した。
(みんなが見ている。応援している。だから、どんな奇跡だって起こせる。それが、私たち――!)
競技日程は順調に進んだ。まず、序盤で開催された水泳では、午前中からセイルボートが男子100mバタフライ予選に挑んだ。ヴァージンは、あえてその日だけ午前中をオフにして、ホテルから中継を見ながら応援した。
だが、セイルボートの目は、プールの中で他の全てのライバルが壁にタッチするのを見ることとなった。
(セイルボートさん、最後まで諦めなかったのに……)
6位と7位、そしてセイルボートとの差は、ヴァージンの見た目ではほんのわずかだった。タイムだけを見ても、2秒差もつけられていなかった。だが、長距離走と違って、わずか100mの水泳ではその2秒でさえ大きな差となってしまうのだった。
さらに翌日には、マウンテンバイクのクロスカントリーが全選手一斉に行われた。競技は朝早くから開催され、ヴァージンもトレーニングに向かう前にテレビで見たが、絶対の存在となったヘンリオール・ホイールズのスピードにどの選手も早々に付いて行けなくなるのを見たあたりから、テレビから視線を離すことができなくなった。アメジスタから挑んだフェルマンは最下位から3番目の結果に終わり、グローバルキャスのアフラリ向けチャンネルではほとんど流されなかった。
(アメジスタ向けだと、最後まで追っていたのかな……。いくつか国際映像があるわけだし……)
そして、陸上・男子100mのジャン・フェリアーノがトラックに立つ日は、ヴァージンの女子5000mの予選と同じ日だった。男子100mは予選と準決勝と決勝が全て同じ日に行われるため、ヴァージンも予選が終わり次第、その日は一日スタジアムにいると決めていた。
(フェリアーノさん……、どこまで進めるだろう……。同じ種目にイリスもいるし……)
ヴァージンは、壮行会で見たフェリアーノのまっすぐな表情と、頂点を常に見続けている夫イリスの勇ましい表情を交互に見比べた。
(壮行会で、フェリアーノさんはナイトライダーさんを意識していた。だから、できればナイトライダーさんと同じ組を走る瞬間まで残って欲しい……。真横で、そのスピードに立ち向かって欲しい!)
そう思いながら、ヴァージンは選手受付までやって来た。男子100mの選手はほぼ全て受付を済ませており、多くのチェックが入ったシートには、1から8までの数字が書かれた予選の組分け、そしてレーンの番号がヴァージンの目にもうっすらと見えた。
次の瞬間、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。
(イリスさんと同じ、予選7組……、しかも隣のレーン……)
ナイトライダーがイリスと同じ組に出るはずもなく、フェリアーノがイリスの圧倒的な加速に立ち向かわなければならない。そのことを悟った彼女は、ロッカールームに向かうまでの間、かすかに震えていた。
(アメジスタの代表と、私の夫……。どっちを応援すればいいんだろう……)