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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
ヴァージンの脚はもう 世界記録に届かない
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第78話 完敗 そして決断(1)

 スタインオリンピックの開会式まで、いよいよ3週間を切った。4年前はヤグ熱で開催できなかったアメジスタ文化省主催の壮行会の日が迫り、ヴァージンも早々にアメジスタ代表選手として呼ばれていたが、彼女はすぐに返事を出すことができなかった。

(アメジスタに帰っている余裕は、本当はないのかも知れない……。少しでも、タイムとスピードを取り戻さないといけないし……。でも、アメジスタのみんなが応援しているのに、顔を見せないのもなんだし……)

 マゼラウスに代わるコーチは、オリンピックを間近に控えたこの時期になっても見つかっていない。メドゥは営業活動に走り回り、この1ヵ月ほどほとんどヴァージンのトレーニングに姿を見せていなかった。もう一つの悩みを相談したくても、電話やメールでしかやり取りできないのが、彼女にとってさらに悩みの種となった。

(やっぱり、走っていて少しでも他のことを気にしてしまうと、タイムに響く……)

 この日も、ストップウォッチの上2桁の数字に「14」と書かれているのが目に留まったとき、ヴァージンはもはやため息すらも出なくなった。心の中で、ため息をついている余裕すらもなかった。

 44回目の世界記録を出せなければ、何とか守れている世界記録――女子5000mアウトドア、13分48秒26――さえも、ヴァージンの知らない世界に遠ざかってしまう可能性が極めて高い。唯一、いまの最速タイムを知るその脚で、彼女は感覚を取り戻すしかなかったからだ。

(私は、もっと速く走りたい……。その気持ちが、タイムに跳ね返って欲しい……!)

 ヴァージンが心の中でそう叫んだ後、ストップウォッチから目を離すと、スタンドに見覚えのある女性のシルエットが彼女の目に見えた。近づかなくても、彼女は雰囲気だけでメドゥだと分かった。

「メドゥさん……。久しぶりにトレーニングに来て下さったんですね!」

 ヴァージンは、トレーニングシャツを着たまま、メドゥのいるスタンドの下まで歩き、タイムトライアルを終えて間もないにもかかわらず、階段を小走りで駆け上がった。メドゥは、スタンドまで上がってきたヴァージンに微笑み、それからヴァージンの表情を伺うようにその目を見つめた。

「ヴァージン、ずっと私と会えなくて……、きっと悩みがあると思ったら、そんな目をしているようね」

「はい……。ウィンスターさんが世界記録まで0秒04まで迫ってきているのに、タイムが伸びなくて……。でも、いま一番の悩みは、調整不足なのにアメジスタのオリンピック壮行会に行った方がいいのかということです」

「壮行会ね……。ヴァージンにとって、今度こそ初めての、オリンピックの壮行会だものね……」

 メドゥは静かにうなずきながら、ヴァージンに言葉を返す。

「そうです。だからこそ、アメジスタのみんなから力をもらいたいというのはあります」

「なるほどね……」

 メドゥが、再びヴァージンの目を見つめる。その視線がほとんど動かなくなった後、メドゥは再び口を開いた。

「ヴァージンは、アメジスタを一番大事にしているはず。アメジスタのみんなだって、ヴァージンが、きっと今回も世界の頂点に立つって、そういう言葉を言いたいと思っているはずよ」

「ですね……」

 ヴァージンはうなずいた。彼女が祖国のことを考える余裕すらなくなったことに気付いたのは、それから3秒も経たなかった。

「アメジスタは……、私にとって帰るべき場所で、多くの支えをもらっている場所ですから」


 その日の夜、壮行会当日にパソコンからアメジスタ入りするように飛行機の手配をしたヴァージンは、そのまま今回のスタインオリンピックに出場する予定のアメジスタの選手を調べた。

(こんなにいるんだ……)

 ヴァージンや、前回のプロトエインオリンピックが決定していた、水泳バタフライのファスター・セイルボートだけではなかった。マウンテンバイクのアリューダ・フェルマン、そしてヴァージンと同じ陸上競技では男子100mのジャン・フェリアーノ。男子3人とヴァージンの、合計4人が代表に選ばれたのだった。

(マウンテンバイクのコース、去年行ったときに整備されていたのが遠くから見えた……。あのホイールズさんが走ったコースに、あれから世界中のマウンテンバイクの選手が集まってきているみたいだし……、その中でアメジスタのみんなから、アメジスタのコースを走りたいと思う人が出てきたのかも知れない……)

 少なくとも、今回が初めての内定となった二人の画像をヴァージンは見たことがなかった。それだけに、壮行会ではその姿を見て、同じアメジスタ人として勇気づけようとさえ思った。


 そして、開会式の10日前、ヴァージンは1泊2日の予定でアメジスタに帰郷した。壮行会への出席がメインのため、1週間実家に戻るときのような大きなバッグを作ったりはせず、普段よりはるかに身軽な状態で飛行機に搭乗した。

 飛行機のドアが閉まったとき、ヴァージンが周りを見渡すと、数多くの人間が乗っていた。そのうちの大半が、アスリートのような見た目で、肩や足などしっかり鍛えられているようだった。その中に混じって、陸上5000mの女王ヴァージンも一人のアスリートとして、アメジスタに向かう空の下で飛行機に揺られていた。

(みんな合宿とか、トレーニングとかなのかも知れない。去年行ったとき以上に、アメジスタがアスリートの国になっている証拠なのかも知れない……)

 トイレに向かうとき、ヴァージンは機内を歩いたが、この便には彼女の他にアメジスタ人が乗っているような雰囲気はなかった。それだけは、ヴァージンが世界に飛び出して19年の歳月が経っても変わっていなかった。


 そして、飛行機の窓からアメジスタの自然がはっきりと見えてきた。その中に、ところどころトレーニング施設が点在しているのが、ヴァージンにはすぐ分かった。ヘンリオール・ホイールズの走ったマウンテンバイクのコース、サッカーやテニスの練習場など、まだアメジスタで活躍した選手の少ない競技まで整備されていた。

「あっ……」

 飛行機が着陸態勢に入り、グリンシュタイン国際空港の滑走路が眼下に広がった瞬間、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。そこから5kmも離れていない、グリンシュタイン大聖堂の真横に、これまでヴァージンすらもほとんど見たことのないクラスの壮大なスタジアムが、空に向かってその雄姿を見せていた。

(これが……、アメジスタのスタジアム……!やっと、完成が見えてきた……)

 ヴァージンの脳裏に、自ら提案した図面がはっきりと思い浮かぶ。だが、見えてきたスタジアムはそれすらも超越する、最も先進的な施設に思えた。まだ数機のクレーンがスタジアムの中で作業をしているものの、そう遠くない時期に、アメジスタの陸上競技場が復活する瞬間を迎えることは間違いなかった。

(こんな立派なスタジアムを見たら、私……、今すぐにでもここで走りたい……。アメジスタのみんなが、このスタジアムに立つ私を待っているのだから……)

 抱き続けた夢が間もなく完成しようというときに、タイムが全く伸びなくなってしまった、アメジスタで最も有名な女子アスリート。それでも彼女は、祖国の土に向かってまだ戦えることを告げた。

(私、やる気になってきた……。膝を痛めてから、この1年、2年ずっと悩んできたけど……、このスタジアムを見て、本当にやる気が出てきた……!)

 徐々に大きくなっていく、グリンシュタインの街並み。この19年で見違えるほど近代的になった街に力を届けるように、ヴァージンの拳が強く握りしめられたとき、飛行機は滑走路に勢いよく着陸した。


 それから数時間後、アメジスタ文化省の前に設けられた特設ステージ横の小屋に、ヴァージンは通された。代表選手の控室になっていると係員から告げられたが、そこにヴァージンが入った瞬間に、先に入っていた3人の選手が一斉に立ち上がって手を叩いた。

「初めまして、ヴァージン・グランフィールド選手!アメジスタの誰もが知ってるアスリートの姿、初めて間近で見ました……!」

 やや赤みがかった髪を揺らしながら、一人の代表選手が真っ先にヴァージンの前に向かった。イリスとほぼ同じくらい硬い膝を見たヴァージンは、その男性が男子100mのフェリアーノだとすぐに分かった。

「ありがとうございます。あの……、もしかしてそちらは、フェリアーノさん……、ですか」

「はい。ジャン・フェリアーノって言います。グローバルキャスでナイトライダー選手を見て……、絶対速く走りたいって思ったんです……。アメジスタにオリンピック委員会ができて、やっと戦えます……!」

 26歳になるフェリアーノは、ヴァージンがオメガを出る前に調べた情報では、アメジスタの中等学校の大会に飛び入り参加して100mを10秒08と他を圧倒したそうだ。世界に挑む足がかりを中等学校の大会に求めたのは、控室の最も奥に座っているセイルボートと同じだった。

「フェリアーノさん……、世界で戦いたいっていう強い心、私、応援しています。今日はみんなから応援をもらうはずの場所ですが……、私と同じように世界に挑んでいく姿を見ると……、頑張れって言いたくなります」

「そうですね。ありがとうございます」

 ヴァージンの言葉に、その場にいる3人は一斉にうなずいた。それからやや遅れて、ヴァージンもうなずく。

(私、アメジスタをずっと背負い続けて、やっとあの時の自分の姿をこの目で見られたような気がする……!)

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