第77話 見えてしまった限界(6)
「メドゥさんを見つけないと……!」
3年前はエレベーターを使うしかなかったオメガ国立医療センターの階段を、ヴァージンは駆け上がる。メドゥに言われた呼吸器科緊急手術室2を、ヴァージンはやや小走りになりながら探した。
一つ階層を間違えたことに気付いてから数十秒後、ヴァージンはようやくその部屋の案内を見つけ、まるで全力でゴールに飛び込むときのように、手術室に駆け込んだ。
「こんな早く来るなんて……、ヴァージン、こんな時にまで本気で走らなくていいはずなのに……」
「メドゥさんが、すごく辛そうな声で言うということは……、なんか嫌な予感がしたのです」
ヴァージンは、閉ざされた手術室に顔を向けた。「緊急手術中」のランプが、悲しげに灯っていた。
「メドゥさん……、いったい何があったんですか……」
すると、メドゥはヴァージンに深いため息をつきながら返事をした。
「昨日の夜、マゼラウスが突然過呼吸になったの……。横になっても、全然治まらなくて……。何が原因かは分からないけど、最近のヴァージンにどう言葉を掛けていいのか、ストレスを感じていたのかも知れない……」
「私に対する……、ストレスですか……」
ヴァージンは、驚いたような声でメドゥに返事したまま、そのまま口を閉じてしまった。タイムが伸びないことで、マゼラウスにも負担がかかってしまっていることで救急搬送になってしまったのであれば、ヴァージンも感じる必要はないと分かっていても。責任を感じなければならなくなる。
「そう。ストレスしかなさそう……。ヴァージンのトレーニングから戻ってきた後に、『どうしよう、どうしよう』と言っているうちに、呼吸をうまく吐けなくなっているのは、私も少し感じていた。それで、今朝めまいを起こして倒れてしまったのよ……」
「やっぱり、自分の不甲斐なさが原因かも知れません……」
メドゥは、ヴァージンの言葉に特に何も返すことなく、手術室に向かって祈るような目線を浮かべた。
「コーチは、どれくらい前から手術をしているんですか」
「そうね……。ヴァージンに電話したのがちょうど入っていったときだから……。長いわね」
メドゥは、ヴァージンにそう答えながら、さらに心配そうな目で手術室を見つめる。それからメドゥは、ヴァージンだけに聞こえるような低い声で、そっと告げた。
「ヴァージンにも来て欲しいというのは、どういうことか……、分かるわよね」
ヴァージンは、メドゥにうなずくだけだった。言葉にすることも、この場では許されそうになかった。
(アメジスタからたった一人で来た私を、ここまで一番に支えてくれたのは、コーチだった……。メドゥさんは、それを分かっていて、私にその時を教えてくれたのかも知れない……)
ヴァージンの目も、時間が経つにつれて細くなっていく。未だにメドゥや医療センターの職員からも何一つ告げられていないものの、この時には先にメドゥに何を告げられたか、ヴァージンにも分かっていた。
やがて、「手術中」の電気が消え、中から医師と数人の看護師が姿を見せた。医師が首を横に振った。
「やっぱり、そうでしたか……。ありがとうございます」
メドゥが医師たちに軽く頭を下げると、ヴァージンに顔を向けた。冷静なトーンで返したメドゥの顔は、まるで動きが止まったかのような表情だった。
(手術が成功しなかった……。つまり、コーチは……)
その後を追うようにして、一枚のカルテが手術室から出てきて、医師がメドゥとヴァージンに聞こえるようにそれを読み上げた。
「過呼吸の症状があると連絡をされていましたが、それほどの症状ではなかったようです。ただ、マゼラウスさんの場合、重度のくも膜下出血を患っていて、それで今朝起き上がれないような状態に陥ったのかも知れません」
「くも膜下出血……。それも、ストレスから来るものなのですか」
メドゥは、戸惑いの表情を見せながら医師に尋ねる。すると、医師は小さくうなずきながらこう告げた。
「ストレスが血管を破損させたのは、ほぼ確実と言っていいでしょう。くも膜下出血には、特に前触れも起きませんので、発症したらすぐに手術しなければなりませんが、搬送された時点でかなり時間が経っていました」
医師がそこまで言うと、移動式ベッドに乗せられたままのマゼラウスが、手術室からゆっくりと姿を見せた。心電図モニターはかすかに動いているものの、マゼラウスの目にほとんど動いている様子はなく、今にも死を待っているかのような表情にしかヴァージンには見えなかった。
「コーチ……」
脳が破壊され、マゼラウスの呼吸はほぼ止まっていた。その中で、ヴァージンは大切な存在の最期を受け入れるしかなかった。つい数日前まで、トレーニングセンターで大きな声を上げてヴァージンを応援していた体とは思えないほど、無音の鼓動がその体からかすかに溢れていた。
「おそらく、この場でその時を迎えることになるでしょう」
医師は、その場から一歩だけ離れ、二人をベッドの周りに呼んだ。ヴァージンは、マゼラウスの表情を上から見つめるが、マゼラウスの目も閉じており、彼の目からヴァージンが来ていることを知る術はなさそうだった。
(私がまだ戦えるうちに二度と会えなくなるなんて……、考えたくないのに……)
ヴァージンは、たまらずマゼラウスに一粒だけ涙をこぼした。すると、ヴァージンの温もりを感じた肌がかすかに動いた。ヴァージンとメドゥが、ほぼ同時にマゼラウスに顔を近づけ、その表情を見つめた。
(起き上がって欲しい……。たとえ、医師から助からないと言われたとしても……、私たちはみんな、不可能を可能にしてきた……。今もまた、その体で、奇跡は起こせるって……)
小さく動いた肌に向かって、ヴァージンは声にならない声で告げた。心電図モニターが、その時を待つかのように、ほとんど動かなくなる。もはや、生命の終わりは時間の問題だった。
その時だった。呼吸も忘れてしまったはずのマゼラウスの口が小さく開いて、出せる限りの声で伝えた。
「ヴァージン……。お前は……、最後まで女王であり続けろ……。メドゥが最後まで、お前にとっての女王であったように……」
心電図モニターから絶望の音が聞こえたのは、それから1秒にも満たない短い間を置いた後だった。
「コーチ……!嫌だ、別れたくない……!もっと、走りを見て欲しかったし、生きる術を教えて欲しかった……。それに、一度くらいコーチに勝ちたかった……。何度走っても、一度も追い越せなかった……」
死亡した人に被せられる白い布が静かに掛けられる中、ヴァージンは出せる限りの声で泣き叫んだ。メドゥが引退した瞬間にも、ほぼ同じような声で泣いていたのを思い出すまでに、それほど時間がかからなかった。
やがて、叫ぶ言葉もなくなって呆然と立ち尽くすヴァージンに、メドゥはそっと告げた。
「ヴァージンにとって……、マゼラウスは私と同じくらい大切な存在だった……。ヴァージンがあの時のように泣くの、私にだって分かる……。私だって、そこまでヴァージンに尊敬されてたんだって、あの時改めて思ったぐらいだし……」
そう言うと、メドゥもとうとう涙を見せた。その涙は、ヴァージンに寄り添うかのような大きな滴になった。
男子10000m走で世界を湧かせた、ベルク・マゼラウス。アスリートとしての未練と、想いと願いと希望の数々を、世界最速を駆け抜けてきた一人の女子選手に遺し、彼は63歳でその生涯を閉じた。
メドゥが次のコーチと交渉する間、ヴァージンは一人でトレーニングをしなければならなかった。イリスが家にいるときには、イリスにストップウォッチの手伝いをしてもらったものの、その日は決して5000mを本気で走ることはできず、崩れかけたラップタイムを取り戻すための計測をイリスにお願いするのがやっとだった。
1ヵ月で不安が和らぐわけもなく、その後にヴァージンが臨んだネルス選手権でも、ヴァージンは5000mを14分07秒69と出遅れ、特段の強豪選手が出ているわけでもないのに優勝もできなかった。
(ウィンスターさんは、今年も勝ち続けているのに……)
ウィンスターは、7月のセントイグリシア選手権で、ヴァージンの世界記録まで0コンマ04秒に迫る13分48秒30を叩き出している。
(世界記録を叩き出さなければ、負ける……。嫌だ……、そんなことを考えたくない……。だから、8月のスタインオリンピックで、自分の全てを懸けるしかない……)
いよいよ追い詰められた「最速女王」は、暗闇から脱出するための光を力ずくで追い求めた。ほとんど見えないその光に最後の希望を託し、ヴァージンはたった一人、トレーニングセンターで「戦い」続けた。
だが、一度限界を知ってしまったヴァージンに、その限界から這い上がるための力はもう、残されていなかった。