第77話 見えてしまった限界(5)
(私の憧れた「女王」は、元に戻れないまま去ってしまった……)
一人ぼっちの家に戻ると、ヴァージンはソファーに座りメドゥに告げられた真実を再び思い起こした。ヴァージンが過去のレースを振り返ろうとメモ帳を取り出すと、メドゥは12年前のグロービスシティのオリンピックを終えた後、翌年の世界競技会まで一切のレースに出ていなかった。
(メドゥさんが膝を抱えて棄権したのが、さらに1年後の世界競技会……。あの前から膝は悲鳴を上げていた)
メドゥが引退したとき、ヴァージンはまだ25歳。10年ほど前の話でも、メドゥの真剣そうな表情を思い浮かべるにつれ、ヴァージンも少しずつ思い出すのだった。
(メドゥさんは、体が持たないことを知っていて、10年前のアムスブルグで「私に勝ちたい」なんて言葉を言った……。その頃にはもう、メドゥさんはいずれ引退することを決めていたのかも知れない……)
そうヴァージンが思った直後には、彼女はその時メドゥが告げた言葉を、自らの言葉で口にするのだった。
「今のウィンスターさんに一度は勝つ。それまでは、私、引退なんかできない」
このまま、メドゥと同じようにトラックを去りたくない。ヴァージンは、首を左右に一度振りながら、ソファーから立ち上がった。そして、5月のネルス選手権に向けて、タイムの向上を誓うのだった。
だが、彼女の不振の理由が単にメンタルの問題ではないことに気付くまでには、それほど時間がかからなかった。メドゥに真実を告げられてから数日後に、ヴァージンは5000mのタイムトライアルに挑んだものの、周回を重ねていくうちからマゼラウスの心配そうな表情がちらちらと見え隠れしていることに気が付いた。
(ラップ68秒が、全然守れていない……。残り1000mで11分30秒を過ぎている……)
ヴァージンの体感でさえ、最も状態の良いときの彼女に比べると10秒以上も悪くなっているタイムを確信した。アムスブルグ室内選手権で見せてしまった、全くスパートが伸びずに沈む姿だけは避けたいと、ヴァージンは「フィールドファルコン」で力強くトラックを踏みしめ、ラスト1000mからのスパートに臨んだ。
(私は……、世界記録と戦い続けるしかない運命……。最後に勝負したいのは、そこに決まっている!)
ターゲットをはっきりと確信したヴァージンは、4200mを過ぎたあたりでさらにペースを上げる。ラップ62秒を意識しながら1周を駆け抜けたとき、それまで曇っていたマゼラウスの表情が少しずつ晴れていくのを、ヴァージンはその目で見た。
(今日は無理だけど……、まだ世界記録に立ち向かえるっていう姿を見せる……)
ラスト1周。ヴァージンは、右足でトラックを力強く蹴り上げて、一気にペースを上げていく。だが、その意思に反して、脚が前に出て行かない。「フィールドファルコン」の力さえ、その足にほとんど感じられないほど、彼女は疲れ果てていた。
(ここまで苦しむこと……、昔だったらあり得ないのに……。あと少しはペースを上げられるのに……!)
次の瞬間、ヴァージンの目の前が真っ暗になった。
(なに、この暗闇は……)
まだ最後のコーナーを回り切れていないのに、ヴァージンの目には薄青のトラックもスタンドも、そしてマゼラウスの姿さえ入ってこない。暗闇の中を走り続けているヴァージンが、その場所にいるだけだった。
(遠くに光が見える……。あれが、私の進むべき道……?)
その暗闇の中、ヴァージンからはるか遠い場所でかすかに光が差している。彼女は、その光に向かってトップスピードで走り続けた。だが、その光は、彼女がどれだけ懸命に走っても、少しずつ遠ざかっていくのだった。
「ハァ……、ハァ……」
どれくらいの距離を追いかけたか分からないうちに、ヴァージンの口から激しい呼吸が響き、ついに彼女はペースを緩めてしまった。それから、ヴァージンをかすかに照らしてきた光は完全に消えてしまうのだった。
その時、ヴァージンは自らの口が告げた言葉を、心に思い浮かべるのだった。
――私にとって世界記録とは、次の世界を照らし出す光だと思うのです。世界で誰よりも速く走れる私に、次の向かう場所を教えてくれる存在で……、私はどんなレースでも、常にその光を追い続けているのです。
(その光は、限りなく小さくなって……、次の世界も全く見えなくなっている……。いくら私が本気で走っても、その光が示している世界を見ることさえ、できなくなっているかも知れない……)
ヴァージンは、暗闇の中で途方もなく走り続けていた。どこに向かって走っているのかさえ分からない。そのヴァージンに、次々と言葉が投げかけられる。それは全て、この1週間に届いたメールに書かれてあった言葉だ。
――ヴァージン・グランフィールドは、もう限界を迎えたアスリートなのかと思ってしまいそうです。
――グランフィールドさんだけは、限界なんて言葉とは無縁の存在だと信じていました。
――14分ってタイムを、グランフィールド選手が出すわけがないって思っていたのに……。
――世界記録は、もう出せないんですか。ずっと応援してきたのに、残念です……。
(なんか、満足に走れない理由がやっと分かったような気がする……)
ヴァージンは、一度首を横に振った。すると、彼女を覆っていた暗闇は少しずつ姿を消し、ちょうどゴールラインに飛び込んだところで、彼女はそこで走るのを止めた。現実の世界に戻ったようだ。
ゆっくりとマゼラウスが近づく中、ヴァージンは真っ先に伝えた。
「コーチ……。私、怖いです……。世界記録を出せない自分が、どんどん語りかけて……」
タイムを見る前から涙を浮かべたヴァージンは、一度だけ涙を拭った手を強く握りしめた。彼女には、どうしていいのか分からなかった。その様子を見て、マゼラウスはわずかに一言、彼女にこう告げるだけだった。
「お前はもう、走りに対する何もかもの自信を失っているのか……。私も、メドゥもそうなったように……」
(……っ)
マゼラウスの言葉が何を意味するのか一瞬で分かったとき、ヴァージンはさらに涙の勢いが増していくことに気が付いた。何度も涙を拭いながら、ヴァージンはマゼラウスの目を見つめようとしたが、それができないうちにマゼラウスから次の言葉が飛び出してきた。
「お前に憧れてきた多くの人々に、その言葉は絶望を与えるぞ……」
(絶望を与える……。たしかに……、その言葉を聞いたら……)
世界記録を破り続けてきたヴァージンでさえ、限界を迎えている。メドゥと違って、そのことを周りにはっきりと告げていることに、ヴァージンはようやく気付くのだった。
「この前メドゥさんが言っていました……。女王は、大切な人の前以外では、決して弱音を吐かないって……」
「この前、メドゥと会ったのか……。アムスブルグの後にか」
「はい……。ちょっとメドゥさんの言葉が気になっていたところで本人が来たのです……。その時に、いろいろ話しているうちに、そんなことも言っていたような気がします」
「なるほどな……」
メドゥとヴァージンが会ったことを初めて告げられたマゼラウスは、納得したかのように大きくうなずいた。それからマゼラウスは、ヴァージンに低い声でさらに言葉を返した。
「お前が私やメドゥに対して弱音を吐くと言うことは、おそらくお前にとってなくてはならない存在だからだろう。出してしまったタイムに、泣きついても騒がれない存在だ……。だからこそ、この涙を、私はお前が次に繋げてくれるんだろうと信じている……。18年半、お前に人生を捧げた身としてな」
「はい」
ヴァージンは、マゼラウスに小さくうなずいた。それから、彼女はマゼラウスの温かい手を取って、その上に涙を流した。その涙さえ、マゼラウスの手の中で徐々に熱くなっていくのをヴァージンは感じた。
「私は……、みんなに最高の走りを見せられるまで、走り続けたいです……!」
だが、ヴァージンの気持ちを削ぐように、ヴァージン宛に届くメールには悲観的なメッセージが日を追うごとに増えるようになった上に、雑誌「ワールド・ウィメンズ・アスリート」でさえ「ヴァージン・グランフィールドはピークを過ぎた」と論じるようになった。
(限界知らずのワールドレコードクィーンが、限界を知ってしまったワールドレコードホルダーに変わっていく……。今の私は、もうそんな状況かも知れない……)
昔のヴァージンであれば、その言葉を見てもすぐに立ち直れたはずだが、彼女を苦しめる言葉があまりにも多すぎて、ついにはその言葉を見るだけで首を横に振るようになった。
(イリスさんにも……、私が苦しんでいることを伝えられない……。私への憧れがある以上、イリスさんまで悲しくさせたくない……。私が悩みを伝えられる人は、これだけアスリートをやってるのに、ほとんどいない……)
ある春の晴れた日、ヴァージンは珍しくオフにしていた。オメガセントラルの繁華街で、普段あまり着ない私服を買うつもりで、彼女は財布を持って出かけようとした。そこに、メドゥから1本の電話が入った。
「マゼラウスが倒れたわ……!オメガ国立医療センターに救急搬送されているから、ヴァージンも来て!」
ヴァージンはメドゥの慌てた声に、思わず震え上がった。