第9話 ワールドレコード(2)
やがて、新しい年を迎えた。それと同時に、ヴァージンのトレーニングの時間も再び本番を意識するように延びていった。同じフィールドで練習をするグラティシモの姿を意識しないようにはしているが、時折ヴァージンの目に飛び込んでくるグラティシモの姿は、明らかにヴァージンを意識しているように見えた。
二度と、負けは許されないことを。
「グラティシモさん、お疲れ様です」
陸上競技に挑む全てのライバルたちにとって1年で最初の大会となる、ウッドランド室内選手権まであと1週間ばかりに迫ったある日のこと、ヴァージンがロッカールームに戻ってくると、ベンチにグラティシモが座っていた。トレーニング中は真剣な表情で取り組んでいるように見えるグラティシモは、この日に限ってベンチに座ったまま、いつになく疲れ切った表情をヴァージンに見せていた。
「お疲れ……」
「どうしたんですか、グラティシモさん。すごく……、なんかこう……、自分に悩んでいるように見えます」
「それは悩むわよ。去年のヴァージンがそうであったように」
「去年の……、私……ですか?」
ヴァージンは、グラティシモの言葉に何か引っかかるものを感じて、汗の引かないトレーニングジャケットのままグラティシモの隣に座った。
「そう。去年のあなたよ。いくらトレーニングしても、タイムが伸びていかない。少なくとも、あの日見たヴァージンのタイムを上回らなければ、と思って、今は少し焦っているのかも知れない」
「そんな気にする必要ないですよ」
ヴァージンは、軽く首を横に振り、少し首を傾けて下から覗き込むようにグラティシモを見た。
「……まだ、私がこんなこと言えるような経験を積んでない、って言われればそこまでですが……、私たちには波ってあると思うんです。逆に、今は私、すごくよくなっているように思いますし、グラティシモさんだって、すぐに不調から抜けていくと思いますよ」
「……ヴァージンにだけは、言われたくない」
グラティシモはそう言うと、軽く笑ってみせた。まるで、自分自身が決してそんなわけないとでも言うかのように。気が付くと、グラティシモは先に立ち上がり、ヴァージンを見下ろしていた。
「少なくとも、ヴァージンの一言で私はちょっと頑張れると思った。ありがとう」
だが、結果としてその後グラティシモは、出場登録したはずの1月、2月の室内選手権を全てキャンセルすることとなった。春先から始まる本格的な大会ラッシュに備えるため、大事を取ったのだという。
グラティシモが悩んでいたことは、そう簡単に解決できる問題ではなかった。そして、それは後にヴァージン自身をも苦しめる問題だったとは、まだ経験の浅い彼女には分かるはずもなかった。
「さぁ、今年こそは最低でも表彰台を意識しろ!いいな」
「はい!」
白い天井が輝くようにアスリートたちを見下ろすドームが、ヘルキシンという国にあるウッドランド室内競技場だ。ウッドランドは人口こそ少ないが、今年初の陸上競技大会ということもあって、ヘルキシン国内外から数多くの観客がドームに詰めかけていた。
ヴァージンは、マゼラウスに軽くうなずき、一発決勝となる女子5000mのスタートラインへと向かう。メドゥこそ出ていないが、やはりカメラが集中的に姿を撮っているライバルはいた。バルーナだ。今年も相変わらず、黒髪の刈り上げた部分を懸命にカメラに見せ、どこか気取っているような様子だった。
(必ず、追い抜いてみせる……)
やがて、勝負の時は来た。普段通りの号砲が、ヴァージンの耳に響き渡る。
(よし……)
大方の予想がそうしたのか、同じ距離を走る13人の走者の中から、バルーナが一人だけスーッと飛び出して行った。そして、その後ろから離されまいとヴァージンなど3人が10mほど遅れて走っている。
ヴァージンが、これまで何度も見てきた光景に他ならなかった。
(こんなんじゃいけない!)
ヴァージンは、まだ3000m以上も残っているにもかかわらず、軽くスピードを上げた。去年はそこでスピードを上げることを精神がストップをかけていたが、何気なく動いた体には、思った以上に軽く反応するようになっていた。10mほどの差があったバルーナとの距離は、あと数歩のところまで迫り、ヴァージンはそこで様子を見ることにした。
(あとは、最後の駆け引き……。もう、ここでしくじりたくない……)
ヴァージンの最大の武器が、残り数周からの中距離走者顔負けのスパートだ。だが、本番でそれを満足に発揮することは、前年はできなかった。だが、今日は違う。まだ体が動くように、ヴァージンには思えた。あとは、残された距離と、きっかけだけだった。
そして、バルーナが体にグッと力を入れた。逃げ切るための、バルーナ自身の力だった。
(スパートでは、私は負けない……)
軽く引き離しにかかったバルーナに刺激されるように、ヴァージンも右足にグッと力を入れた。できる限り足を前に伸ばし、ストライドを大きく取る。まるで、トレーニングでそうしてきたことを、今再現しているかのように……。
(さぁ、行け!私!)
加速する足は、徐々にバルーナとの距離を狭めていく。そして、1周も走らないうちに真横に並び、ヴァージンはバルーナの息遣いを肌で感じた。明らかに、バルーナの方が苦しそうな息遣いだった。
(振り切れるっ!)
ヴァージンは、さらにギアを上げていく。懸命に食らいつこうとするバルーナを振り払い、ついにバルーナの前に立った。遠くには、周回遅れに近いライバルたちの姿しか見えない。残り1周、気を抜きさえしなければ、そしてスピードを緩めさえしなければ、バルーナよりも先にゴールができる。
だが、残り1周を切ったところで、不意にバルーナの苦し紛れの息がヴァージンの耳にはっきりと聞こえるようになった。振り向く。そして、一瞬息を飲みかけた。
(まだ、そんなに離していない……!)
バルーナが、懸命に食らいついている。まだ勝負を諦めていない。ヴァージンは、再び顔を正面に戻し、ほんの2分前に比べて落ち着いてしまった闘志を、再び燃え上がらせた。
(今まで私が見てきた、1位でゴールするアスリートは、こんな簡単に諦めるような人じゃなかった!)
ヴァージンは、鞭打つようにスピードを上げた。体は、まだ言うことを聞いていた。ヴァージンは、体じゅうに自らの出せるトップスピードをはっきりと感じていた。
初めてとなる、誰もいない白いライン。全てを決める、たった一本の線をヴァージンは無心で駆け抜けた。
(……勝っ)
そこで、何が起こったのかヴァージンは覚えていなかった。気が付くと、初めての一般の大会の後のように、トラックの上にしゃがみ込んだ。しかし、あの時とは全く違う光景が広がっていた。
湧き上がる歓声。そこにいる誰もが、ヴァージンの姿に釘付けになっているようだった。
(……私、本当にバルーナさんに……、いや、誰よりも先に……、5000mを駆け抜けることができた)
ヴァージンは、思わず涙を見せようとしたが、事実が彼女をトラックから立ち上がらせた。ちょうど、メドゥが毎回見せるかのように、ヴァージンは観客に微笑みながら、軽く手を振った。
その時、ヴァージンの正面から何かが飛び込んできた。これまで一度も感じたことのない刺激だった。
「おめでとう、ヴァージン」
ヴァージンは抱きしめられる。汗だくになった、柔らかい筋肉の匂いだ。明らかにマゼラウスではなかった。誰だか分からないまま、ヴァージンも右手でその者の背中を軽く叩いた。その時、やっと全てが分かった。
「バルーナさん……。ど、どうして……」
これまで、ジュニアの大会で2度優勝したときには、体験することのなかったライバルどうしの抱きしめ合う姿。たしかに、ヴァージンの目の前で何度も繰り返されてはきたが、その味は分からなかった。
「なに言ってるの。勝者を褒め称えるの、当然よ」
「……ありがとうございます!私、初めて……バルーナさんに勝ったんですね」
「そうよ。……私、完敗」
有色肌のアスリートが、そう言ってヴァージンの目の前から去って行く。悔しまぎれにトラックを蹴り上げることもなく、また自己嫌悪に陥るような様子も見せることもなく、いたって普通にダッグアウトに去っていく。
「よかったじゃないか」
何人かのライバルに抱きしめられた後、やはり最後はマゼラウスに抱きかかえられた。完全に満足している様子ではなかったが、声は穏やかだった。
「はい……。コーチの言ったように、本番で悔いのない走りができました」
「そうか……。まぁ、インドアだからタイムが伸びないのは仕方ないが、14分48秒30では、まだまだ抜かされる危険はあるぞ。それだけは忘れるな」
「はい」
室外でのトレーニングと同じスピードで走ったように思えたのに、まだまだタイムとしては本気よりもほど遠い。それだけ、まだ体がスピードを求めていることの証拠だった。
「ただ、ヴァージン。今日は喜べ。明日、オメガに帰る前に、いくらでもごちそうしてやる」
「本当ですか!」
ヴァージンは、マゼラウスの表情をまじまじと見た。初めて、世界のトップアスリートよりも早くゴールラインを駆け抜けたアメジスタ色のショートトップが、スタジアムに響き続ける歓声で軽く揺れていた。
だが、これはまだヴァージンにとって、奇跡の序章に過ぎなかった。