第77話 見えてしまった限界(4)
二人目のパートナーと結ばれたとは言え、ヴァージンに幸せな時間が訪れるというわけにはいかなかった。ヒールティと新たな生活を送ることになったフローラと入れ替わるように、イリスがヴァージンの広い邸宅に引っ越したものの、1ヵ月もしないうちにイリスが南国フュエールランドに長期トレーニングへ旅立ち、イリスの不在の間、ヴァージンは一人ぼっちの生活を送らなければならなかった。ほぼ毎日、フュエールランドの画像をつけてメールが送られてくるものの、ヴァージンはイリスとの距離が再び遠くなったようにさえ感じた。
(アムスブルグの室内選手権、イリスが時差の問題でグローバルキャスでも見れないとか、考えたくない……)
そのような不安が彼女のパフォーマンスをさらに悪くさせたのか、3年ぶりに参戦したアムスブルグ室内選手権で、ヴァージンは14分17秒26の4位で終わった。決して手を抜いたわけではないのに、アウトドアの自己ベストが13分台ではない選手さえ抜けなかったこともさることながら、プロメイヤに13分55秒68の5000m室内記録を叩き出されたことは、ヴァージンには大きなショックとなったのだった。
(10000mに続いて、室内5000mでも世界記録を失った……。アウトドアシーズンのレースで、自分を取り戻さなければ、最後の世界記録まで守れなくなってしまう……)
室内競技場を背に立ち止まったヴァージンは、その言葉を思い浮かべた。だが、彼女はすぐに首を横に振った。
(私は、世界記録と戦い続けるアスリート。守るなんてことを、考えちゃいけないのに……!)
世界競技会の時に語りかけた「弱いヴァージン」は、レース中にこそ現れなかったが、それがこの日のレースで叩き出した現実に寄り添うように後から現れてくるのを、彼女ははっきりと感じた。
それは、もがき続けるトップアスリートをさらに不安に陥れる存在に他ならなかった。
アムスブルグからアメジスタに戻って数日後、ヴァージンはアウトドアシーズンに向けて本格的に屋外でのトレーニングを始めた。膝への負担を考え、彼女は世界競技会の前に5月にネルスでのレースを一つ入れるだけにとどめたものの、落ちかけた自分自身を取り戻したい彼女に、気を抜いていい時間は全くなかった。
大きく深呼吸をして、彼女は5000mのタイムトライアルを始めた。だが、わずか3周で彼女は首を横に振った。
(本当に、膝が気になってしょうがない……。この前、本番の後に珍しく痛まなかったのに、体がラップ68秒をキープするのを無理と言い始めている……。トップスピードになれば、なおさらだ……)
メドゥやマゼラウスに悩みを打ち明けて以来、ヴァージンは膝を気にしないように心がけてきたものの、その意識が体に届かない。速く走りたいという願いを、体が受け付けなくなっているのだった。
(タイムを伸ばしたいし……、何より世界記録と戦いたいのに……!)
10000mと5000mインドアの世界記録をライバルに譲ったとは言え、ヴァージンが最も力を入れてきたアウトドアの5000mの記録とはこれからも戦いたい。緩め始めるスピードを取り戻そうと懸命に走るヴァージンは、自らにそう言い聞かせるものの、楽に走れない分だけ徐々に体が重くなるのはこの数ヵ月変わらなかった。
(今日も14分台……)
ストップウォッチを力なくリセットした彼女は、クールダウンを終えた後、トラックの外に座り込み、後ろに手をついて、まだ寒い空に向かってため息を吐き出した。
(少なくとも、一昨年の秋にもう一度ジャンパー膝をやってしまってから、あまり無理はしていない。毎日20kmも30kmも走り続けるようなこともしていない……。なのに、どんどん疲れが溜まっていく)
気が付くと、膝に力がほとんど残っていなかった。満足のいく走りをして力を使い果たすのであればまだしも、ヴァージンが満足のいっていない状態で、体だけが疲れていることは彼女にとって異常と言ってよかった。
――きっと、少し休めばまた元通りの体になるから。
(メドゥさん、たしかこんなことを言ってたっけ……。休めば元に戻れるって……)
カテーテル治療をした直後にメドゥから告げられたアドバイスを、ヴァージンは空を見上げながら思い出した。
(でも、最初にトレーニングを休んでからの2年半で縮められた世界記録は、たった1秒84だけ……。しかも、自分からトレーニングをセーブするようになってから、記録が悪くなっている……)
ヴァージンは、メドゥの言葉を思い出しながら、再びため息を吐き出すしかなかった。初めのうちはその意味が分からず、トレーニングでセーブすることに憤ったこともあった。それでも、再びジャンパー膝を患ってからは、ようやくその言葉に寄り添うようになってきた。
だが、その言葉に寄り添っても元通りにならないタイムを、彼女は気にせざるを得なかった。
(あれ……?)
ヴァージンは、真横に見えるスタンドにメドゥが上っていくのを見た。思わず立ち上がって、トレーニングウェアを着たままでヴァージンもその後を追うと、メドゥが階段を駆け上がる音に振り返るのが見えた。
「やっぱり、今日はトレーニングセンターにいたのね」
「やっぱりって……、もしかして、私を待っていたんですか」
「そうね……。正直、アムスブルグであんなタイムを見たら、トレーニングに顔を出さないわけにいかなくて」
メドゥは、仕事用のバッグを肩に掛けている。決してヴァージンの走りを見物に来ただけではなさそうだった。すぐにメドゥはメモ用紙を広げ、左上に日付と「V」の文字を書き、普段と変わらぬ表情でヴァージンに尋ねた。
「さっきもすごく悩んでいるように見えたけど、また何かつまずいたの?」
「いえ……。メドゥさんの言った言葉を思い出して、少し不安になってきたのです」
そう言うと、ヴァージンはメドゥに先程から思い詰めていたことを短めに告げた。
「休めば、元通りになる……。たしかに、私は言ったわね」
「2ヵ月トレーニングできないと医師に言われてものすごく落ち込んでいた私を、メドゥさんのあの言葉が救ってくれたような気がするんです。でも、やっとトレーニングをセーブするようになったら……」
「なるほどね……」
メドゥはそこまでメモを取ると、メモ帳を持ったまま腕を組み、ヴァージンから目を反らしてトラックを見つめた。かつて勝負の場に立ち続けていたメドゥが、その場所を懐かしむように立っているのを見て、ヴァージンもその横に並ぶようにして見た。
それから、メドゥが深いため息をつき、ようやく口を開いた。
「あの言葉は……、ヴァージンが同じ道を駆け抜けてしまうのを見たくなかったから、口にした言葉よ」
「同じ道を駆け抜ける……。もしかして、メドゥさんが通ってきた道ですか……」
ヴァージンがそう尋ねると、メドゥは静かにうなずいた。それから、やや考えるしぐさを浮かべた。
「この言葉の本当の意味、今のヴァージンに言ったら、ますます気にしてしまうかも知れない……。けれど、この言葉の本当の意味を伝えないまま、ヴァージンが本当に行き着くところまでいってしまったら、私も悔やむに悔やめない……。だから、ヴァージンにそれなりの覚悟があるなら、私があの時言った意味を教えるわ」
メドゥは、ずっとトラックを見ている。トレーニングウェアに着替えれば、10年ぶりにでも走り出せそうな目に、ヴァージンは久しぶりに、憧れの「女王」の本気を見た。
「教えて下さい。覚悟はできてます」
ヴァージンがメドゥに向かって短めに返すと、ようやくメドゥがヴァージンに向き直った。そして、口を開く。
「私は、引退の3年くらい前から少しずつ体に異変を感じていた。あの時私は、コーチや代理人から、無理しない方がいいとか、休んだ方がいいと言われた。けれど、その言葉を信じた私は、タイムも、パフォーマンスも元に戻せなかったし……、戻したら体が悲鳴を上げた……。でも、ヴァージンだけは元に戻せると思って……、私じゃ無理だったこともヴァージンならできると思って……、私は休めば、って声をかけたのよ……」
「メドゥさん……。ずっと悩んでいたのですね……」
ヴァージンは、息を飲み込んでメドゥに告げた。すると、メドゥは力なくうなずき、言葉を続けた。
「ヴァージンのように、みんなが見ている前で医務室に運ばれたら、誰もが知るところになってしまう。けれど私は、膝に異変を感じていたのに、それを本当に身近な人にしか言わなかった。だからこそ、膝の痛みのこと、ずっと悩み続けてしまった……」
「逆に、私はみんなから膝を心配されて、膝への負担を気にしてしまうのかも知れません……。だから、逆に休んだら、という言葉に従ってみようと思ったんです……」
それから、ヴァージンはトラックに視線を戻して下を向いた。
「結果、私も同じ道を歩き続けてしまっているのかも知れません……」
二人の「女王」の影が、トラックに向かって短く伸びていく。その影は、どちらが抜きん出ているわけではなく、その姿を追い続けてはようやく追いつく、互角のライバルが勝負をしているかのようだった。
(メドゥさんは……、私に想いを託して……、そう言った。けれど、私がそこから無理をしたがために……、ピークを早めてしまった……)
気が付くと、ヴァージンの背中にはメドゥの温かい手が寄り添っていた。それは、次のレースに送り出す力ではなく、同じ悩みを抱えてしまったアスリートに気持ちを重ねる姿だった。