第77話 見えてしまった限界(3)
ヴァージンは、再びメールを開いて、すぐさま「差出人:アーヴィング・イリス」で検索をかけ、イリスからのメールだけに目を通した。そこには、ヴァージンの応援やイリス自身の大会での結果が記されていたが、誕生日当日だけ「今日は僕たちにとって特別な日だね」というタイトルで書かれていることが気になった。
(特別な日……。私の誕生日に、すごく嬉しいことが伝えられそうな予感がする……!)
ヴァージンは、早速メールを開いた。その文面を開いた瞬間、彼女の目は早くも言葉の波に釘付けになった。
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僕が尊敬するグランフィールドさんへ
35歳の誕生日、おめでとうございます。ここまで第一線で走り続けられることが、素晴らしいと思います。
今日は、そんなグランフィールドさんに、僕から謝らないといけないことがあります。
世界競技会が終わったら、一緒に住もうとか言っていたのに、遠征とかいろいろあって、シーズンが終わるまでグランフィールドさんとの距離を縮められませんでした。本当にごめんなさい。
でも、僕がグランフィールドさんに捧げる愛は、より強くなっています。
もし、グランフィールドさんの気持ちが変わっていなかったら、今度新しい年に変わるとき正式に婚姻届を出して、僕と新しい生活を始めませんか。
僕も、グランフィールドさんもものすごく忙しいと思います。でも、支えられる限り支えていきます。
12月31日の深夜23時50分、オメガセントラル西8番街の区役所で待っています。
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(イリスさん、私のこと、忘れていなかった……。たしかに、イリスさんだって一流選手だから忙しいもの……)
ついにその言葉がイリスの文面から告げられたのを見て、ヴァージンは軽く手を叩いた。不思議に思ったフローラがヴァージンの真後ろに立つと、ヴァージンはかすかに笑いながらフローラに「何でもない」と告げた。
(前のアルも、現役のアスリートで結婚したけど……、アルはオメガの代表になれないし、国内リーグにばかり参加していたから、試合で1泊2日いなくなるだけで、あとは近くのグラウンドで練習するだけだった。私は、コーチが近くに住んでいるからそれほど遠征トレーニングとかやらないけれど、イリスさんはきっと、オメガの選手だけど違う場所を拠点にし始めたのかも知れない)
メールに向かってうなずいたヴァージンは、返信に「必ず待っています」とだけ書き添えて送った。何度も思い浮かべてきたイリスとの距離が、ここにきて一気に縮まったようにさえヴァージンには思えた。
そして、12月31日の夜がやって来た。その日は、オメガセントラルでも年に一度、二度あるかというほどの寒い夜だったが、街には新年を待ち焦がれる多くの人々で溢れていた。
(えっと……、西8番街の区役所……)
一度も行ったことのない区役所に向かうヴァージンの足取りは、不安とは真逆の期待に溢れていた。オメガセントラル一番の繁華街・ホールタウンを通り過ぎると、そこが西8番街だった。
通りに設置されたデジタル時計が23時48分から49分に変わろうとしていたその時、ちょうどヴァージンの目の前に、区役所が飛び込んできた。どうやら間に合ったようだ。
(あとは、イリスさんが来てくれるかどうか……。私は、イリスさんを信じたい……)
街を歩く人混みの中で、ヴァージンはイリスを探した。人口の多い都市では仕方のないこととは言え、茶髪の青年がこれほどまでに街の中に溢れていることに、彼女は思わず面食らった。
(来てくれる……。私は、イリスさんと一つになれるという夢を、今日までずっと抱き続けてきたのだから)
通りのデジタル時計が、23時50分へと変わる。その時だった。
その人混みの中で、何者かが遠くからヴァージンにうなずいているのがはっきりと見えた。
(もしかして……、あれがイリスさん……)
まだ顔の表情がほとんど見えないにもかかわらず、ヴァージンは自らの場所を示すために大きく手を振った。すると、彼女の耳にはかすかに「グランフィールドさん!」と叫ぶのが飛び込んできた。
その声で、ヴァージンはイリスが来てくれたと確信した。
「イリスさん!イリスさん!……私は、ここにいます!」
お互いが名の知れたトップアスリートでありながら、街行く人々は二人に気付かないまま、通りを流れていく。ヴァージンとイリスだけが、この場で目を合わしている一組の男女だった。
一歩、また一歩とイリスがヴァージンに近づいていく。彼がトップスピードで近づけば、ものの3秒もかからないほどの距離でありながら、トラックではないこの場所ではその距離が2倍にも3倍にも感じられた。それでもイリスは、絶対にヴァージンに食らいつきたいと言うばかりの勇ましい脚で、残りわずかの距離を懸命に走り続けた。そして、ついに二人は手を繋げる距離にまで近づいた。
「イリスさん……。私、来てくれるって夢を信じてました……!」
ヴァージンがそう叫んだ時、ヴァージンの右手はイリスの力強い右手の感触をはっきりと感じた。それをヴァージンがそっと握りしめると、イリスが右腕を夜空に向かって高く持ち上げた。
「そう。僕たちは、夢の力を誰よりも知っている二人だから!」
(夢の力……。今まで、心の底からそう思い続けてきたのに、イリスさんに言われると、私、照れてしまう……)
陸上選手になりたいというイリスの夢を、他でもなくヴァージン自身が後押ししたことを、彼女はその手の温もりではっきりと思い出した。リバーフロー小学校で、夢をバカにされ続けてきたイリスを絶望から救わなければ、男子100m走で戦うトップアスリートになる可能性はゼロに等しかった。
――あの時、私も諦めてしまおうかと思いました。でも、心の片隅に、諦めたくない自分がいました。世界のライバルと勝負することなく、陸上選手になる夢を消したくありませんでした。スタートラインに立って、どんどん離されて勝負にならなくて、それで陸上選手になることを諦めるよりも、ずっとずっと辛いことなのです。
(私、思い出せる……。あの時、イリスさんを励ました言葉を、今でも一語一句まで思い出せる……。きっと、イリスさんだって、例えばナイトライダーさんに勝てないとかいう悩みを打ち明けたときも、私の言葉を常に頭に思い浮かべたはず……)
ヴァージンは、夜空を見上げた。世界一の大都会の真ん中で見上げる空は、アメジスタの実家で見る空よりも明るすぎた。にもかかわらず、オメガセントラルの夜空からも、夢を形にした二人を祝福するかのように一等星が明るく輝いているのが、二人の目に見えた。
(今なら、むしろ私がイリスさんからいろいろなエールをもらいたいくらい……。ちょうどいいときに、二人目のパートナーと結ばれたんだ……!)
ヴァージンが気付くと、二人の回りを多くの人々が取り囲んでいた。画像を撮るようなメディアはいなかったものの、結ばれた二人がどのような関係であるかは、立ち止まった群衆の誰もが分かっていた。そして、時折「おめでとう」という声が、二人の耳に溢れてくるのだった。
(なんて幸せな瞬間なんだろう……。イリスさんと、こうやって一つになれる瞬間って……)
ヴァージンがイリスの表情を見つめると、それに合わせてイリスも微笑んだ。それからイリスは「いよいよその時が来たね」と言いながら握りしめた右腕を下げ、ゆっくりと区役所の入口に歩き出した。そのイリスに歩調を合わせるように、ヴァージンも付いて行く。決して、ライバルを追い抜くような足ではなく、戦い終えた後のライバルに寄り添うような足に他ならなかった。
「婚姻届は、もうサインだけで済むようになっているから、0時になる直前に書いて、0時ちょうどに出そう」
「イリスさん、分かりました」
「最後に確認するんだけど、僕や君が遠征や国外トレーニングで離ればなれになったとしても、変わらない愛を誓えるよね……。僕は少なくとも、僕の人生にとって大切なトップアスリートを忘れたりはしないから!」
「私も」
二人は、区役所の記帳台の前に立って、ほぼ同時に夫の欄、妻の欄にサインを書き始めた。国籍が違っていたとしても、二人のペンは同じ星のもとに育った人間同士であるかのように、スラスラと流れていった。
そして、イリスがストップウォッチで0時になるのを確かめた瞬間、二人で作り上げた婚姻届を二人で一緒に差し出した。受領印が押された瞬間、イリスもヴァージンも微笑んだことは言うまでもない。
「僕たちは……、永遠の愛を誓います!」
二人は、力強い言葉を区役所の職員の前で叫んだ。二人の新たなステージが、いま始まった。