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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
ヴァージンの脚はもう 世界記録に届かない
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第77話 見えてしまった限界(2)

「今までずっと世界記録を更新し続けてきたのが重圧になって、メンタルが不安定になっているわね……。なんか、ヴァージンの話を聞いてるとそう思えてくる」

 悩みを教えて欲しい、という前日の問いに返したヴァージンに向けて、メドゥがふぅと息をついて言った。

「メンタル……。言われてみれば、そうかも知れません……」

「ヴァージンは、今まで何度も苦しんできたと思う。でも、その苦しみを乗り越えて次の世界記録を出してきた。だから、メンタル面でそこまで深刻な状況になることが少なかったように見えるのよ。でも、今回初めてと言っていいくらい、自分の走りに対して落ち込んでるでしょ……」

 メドゥの言葉に、隣に座るマゼラウスも静かにうなずく。ヴァージンも、その後にうなずくしかなかった。

「落ち込む理由は、分かっています。膝とか、タイムとか、そういうものに不安になってしまっています」

「そうね。いろいろな不安が、ヴァージンのパフォーマンスにリミットをかけてしまっているわ。だから、そういった不安を少しずつなくしていけばいいじゃない」

「そうですね」

 ヴァージンがそう言うと、メドゥはカップに入れた紅茶を持ち上げ、静かに飲んだ。紅茶を飲む間でさえ、ヴァージンには彼女が本気で考えているような表情を浮かべているように見えた。

(メドゥさんは、もしかしたら仕事じゃなかったとしても、不安を抱えるアスリートを救いたいのかも知れない)

 16年前、初めて参加した世界競技会でゼッケンを焼かれて完走できなかったとき、メドゥが率先してヴァージンを守ったことを、この表情を見ながらヴァージンは鮮明に思い出した。あの時は、正義感の強い大人に見えたが、それから16年が過ぎてメドゥが第一線を引退しても、正義感に溢れているように思えた。

「ところで……」

 メドゥが紅茶の入ったカップをソーサーに戻すと、すぐにヴァージンに尋ねた。

「こんな悩みを言っているということは、ヴァージンはおそらくピークを意識したと思うの。違う?」

「意識するようになりました」

「やっぱり……。それは、もしかしたら私に原因があるような気がする……」

 メドゥは、静かにため息をつくようなしぐさを見せながら、ヴァージンの注意を引きつける。

「メドゥさんが原因じゃないと思います。タイムが伸びなくなってきているのは、私ですから……」

「そう思っているのなら、それでいいんだけど……。私は、去年の世界競技会の後に、ヴァージンを怒らせたあの言葉が、知らず知らずのうちにヴァージンのピークを意識させてしまったような気がする」

「……何か、メドゥさん言いましたか。気が付いたら、タクシーで喧嘩になっていたような気がして……」

 ヴァージンは、メドゥの前で咄嗟にあの日のことを思い出そうとしたが、どうして喧嘩したかまでははっきりと覚えていなかった。じっと見つめるメドゥの表情を前に、ヴァージンは首を横に振るだけだった。

「全力で走らなければ、ピークを先延ばしできるって……。あの日まで、無敵と言ってよかったヴァージンにピークという言葉を使って、それに体が反応したのかなって思うのよ」


――全力で走る回数を減らせば、ヴァージンのピークだって先延ばしできる!


「思い出しました……。私がトレーニングでも全力で走ってしまうから、膝が痛くなるとか……、ですよね」

「そう。ヴァージンはトレーニングでさえ勝負の時間だと思っているのに、私がああいうことを言ったら間違いなく怒る。でも、そこでヴァージンにもピークがあることを言っちゃったから……、本気になったと思うの」

 そう言うと、メドゥは再びカップに手を伸ばしたが、ヴァージンを見つめたままその手を動かそうとはしなかった。そのメドゥの前で、ヴァージンはやや下を向いた。

「メドゥさん。どのアスリートにも、ピークってあるんですか」

「間違いなくあるわ。絶頂の時に致命的なケガで引退するようなケースじゃなければ、だいたいは選手生命のどこかでピークを見てしまう……。だって、私たちは人間だから」

「なるほど……。じゃあ、ピークを意識するのは、決して私だけじゃないのですね」

 ヴァージンは、メドゥに視線を合わせようとしてもさらに下を向いてしまう。それから再び目線を戻したヴァージンに、メドゥはそっと告げた。

「ピークは誰にでもやってくる。けれど、そのピークの存在が、アスリートを不安にさせてしまう。だから、今までヴァージンがそうしてきたように、記録で跳ね返していけばいいと思う。記録が上向いてきたら、逆に昨日や今日がどん底だったと思える日が来るはず」

 メドゥの横で、マゼラウスも静かにヴァージンに告げる。

「お前は、弱くない。どんな困難も乗り越えられる、スーパーアスリートだ」

「そう信じたいです」

 ヴァージンが力強くうなずくと、メドゥもマゼラウスも微笑みながらヴァージンを見守った。


 12月3日、ヴァージンは35歳の誕生日を迎えた。

 メドゥやマゼラウスに悩みを告げて以来、あまりメールに目を通さないようにしていたが、この日ばかりはトレーニングから帰ると早速メールを開いて、35歳になった彼女への祝いの言葉を確かめた。

(最近見ていないから、もう2000件くらい未読がある……)

 その中には、このところ意識してしまう冷たい文面もあるものの、メールの大半は祝福と激励の言葉に溢れていた。「35歳でも世界記録を見たい」「35歳まで高速スパートを決められるのは素敵です」などというように。

(私は……、まだピークを過ぎたわけじゃない……。そう信じられるようなメールがいっぱいある)

 すると、彼女の背後から誰かが入ってきたような音が聞こえた。一人ではなかった。

(お姉ちゃんと同じ匂いのする人が、二人……?)

 ヴァージンが振り返ると、姉のフローラがヴァージンの見知らぬ男性と手を繋ぎながら廊下を歩き、リビングに入るのが見えた。ヴァージンはパソコンの前の椅子から静かに立ち上がり、軽く頭を下げた。

「ヴァージンに、誕生日プレゼントを持ってきたわ」

「た……、誕生日プレゼントって、この方ですか……。もしかして、お姉ちゃんの結婚相手……」

 そう言うと、男性が静かにうなずいた。その反動で、彼の短い茶髪が軽く揺れる。

「そう。今までヴァージンには紹介したことがなかったけど、紹介するわ。これが、私の旦那、脳神経外科のヒールティ。入籍は夏にしていたんだけど、新居ができるまでは病院でしか会わないことにしようって決めてたの」

 すると、ヒールティは再びヴァージンに頭を下げ、軽く微笑みながら彼女に告げた。

「初めてお目にかかります。カリウス・ヒールティです。オメガ国立医療センターで脳神経外科の医師をやっています。よろしくお願いします」

「ヒールティさん、こちらこそ初めましてです。私はヴァージン・グランフィールド。陸上選手です」

「なるほどね……。妹さんが陸上選手ってことは、初めてのデートで聞いてたけど、こんなに強い体なんだと思ってしまいますよ……。同じ家に生まれたとは思えない姉妹です」

 ヒールティがそう言うと、ヴァージンはフローラとともに思わず笑った。決して、共通の母を持っているわけではないということは、ヒールティの前では敢えて伏せることにした。

「二人とも、おそらくヒールティさんのように、夢を形にしたという共通点はあります」

「夢を形に……。いいことを言いますね。病院でいろいろな人を診察していると、病気を前に夢のかけらも出せない人ばっかりですから」

 ヴァージンは、ヒールティの軽い言葉にうなずいた。つい2年半前に入院生活を送ったときのヴァージンでさえ、そのように思えてならなかった。

 ヴァージンがそう思っていると、フローラが横から言葉を重ねる。その言葉に、ヴァージンははっとした。

「ヒールの言う通りです。いつでも、誰にだってチャンスは開かれていると分かっていても、そのチャンスがケガで奪われてしまうと、悩んでしまいますから……」

(それは、今の私もそうなのかも知れない!)

 ヴァージンのパフォーマンスが衰え始めたのは、そのケガだった可能性も否定できない。復帰してから二度は世界記録を叩き出せているものの、特にここ最近は満足のいく走りを見せられていないのは、その時に絶望感を味わったからという見方もできるのだった。

 ヒールティに何を返そうか迷っているうちに、ヒールティがヴァージンに告げた。

「私たちの新居が、1月に完成します。そこから同居生活が始まりますので、よかったら今度は妹さんが新居に来て頂けると嬉しいです」

「分かりました。ぜひ行きたいです」

 ヴァージンがヒールティとフローラにうなずくと、ヒールティが二言三言フローラに話し掛けながら、静かに玄関から出て行った。その時ヴァージンは、あることを思い出した。

(そう言えば、イリスさんから私に結婚の話が来ていない……)

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