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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
ヴァージンの脚はもう 世界記録に届かない
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第77話 見えてしまった限界(1)

「お前がこの1年で取り戻したのは、レースで走れる喜びだけなのか……」

 ヴァージンがファーシティで最後に女子5000mの世界記録を更新してからちょうど1年となった寒い秋の日、マゼラウスがストップウォッチをポケットにしまいながら、タイムトライアルを終えたヴァージンに近づく。マゼラウスの険しい表情を前に、ヴァージンは荒い呼吸の中で小さくうなずくことしかできなかった。

「お前も、今日特に伸びなかったと思っているはずだ。長いことトップアスリートであり続けるお前に、私からそれを伝える必要はないのかも知れない。だが、この数ヵ月、お前はどんどん弱くなっている……」

「弱くなっている……」

 ヴァージンは、マゼラウスの言葉を復唱する。その時彼女が思い浮かべていたのは、5000mで14分すら切れなくなってしまいそうな、ぎこちない走りだった。

 ヴァージンがマゼラウスの表情を伺っていると、マゼラウスはようやくストップウォッチを取り出した。

「14分12秒73……。何年ぶりだ、こんなタイムのお前を見ることになったのは」

 ジャンパー膝を患った直後、あまり走り慣れていない時期にこれに近いタイムになったことはあるが、本番に限ればこの7年必ず上回ってきた14分10秒すら届いていない。ヴァージンは、そのことを一瞬で悟った。

「ここまでタイムが悪くなってしまったお前は、何かしら悩みを抱えているだろう。もしお前の都合が合えば、明日の午後、久しぶりに私とメドゥとお前の3人で、その悩みをじっくり聞く時間を持とう。場所は、私の家だ」

「分かりました……。その時までに、思っていることをまとめます」

 ヴァージンがそう言うと、マゼラウスは温かい手で彼女の肩を叩いた。タイムトライアルでボロボロになった体を癒し、再び走り出す力を与えるかのように、マゼラウスがヴァージンにエールを送っていた。


(室内選手権まで、あと3ヵ月……。私は、完璧に自分を取り戻したい。取り戻さなければ……)

 しばらく見たことのないタイムを出したその日、ヴァージンは疲れ切った体を休めるようにパソコンの前で大きく伸びをし、メールを見た。この日ばかりは、自分を支えてくれる言葉の数々に支えられたかった。

 だが、ヴァージンの目に留まったのは、それとは真逆のメールだった。


――今日、エクスパフォーマのグラウンドでトレーニングしていたら、グランフィールド選手がかなりスローペースでタイムトライアルしていたように思えます。本気のフォームなのにあんな遅いグランフィールド選手を、私は今まで見たことがありません。体は大丈夫ですか。

――世界記録の更新が止まって、今日でまる1年になります。出場したのが世界競技会だけだったのかも知れませんが、グランフィールド選手がどうしてこの1年記録を更新できないのか不思議でなりません。


(私への応援が……、数年前と比べるとかなり減っているような気がする……)

 ヴァージンは、パソコンに向かってため息をつき、ついにたまらなくなってメールを閉じた。

(少なくとも、今の私に陸上ファンは満足していない……)

 まだ、「ワールド・ウィメンズ・アスリート」をはじめとした陸上雑誌での評価が「世界記録を狙う最速女王」と書かれていることは救いだが、この日彼女が出したタイムではとてもそのような評価はされないはずだ。

(私は……、女王……。これまで、誰からもそう思われてきたのに……)

 ヴァージンが天井を見上げると、そこにはヴァージンを未だに「女王」と言うウィンスターの「冷たい」表情が思い浮かんだ。ウィンスターは、いつヴァージンの世界記録――13分48秒26――を上回ってしまうか分からない恐怖さえ、その表情から見え隠れした。

(それと、私に悩みがあるとすれば……、無意識のうちにペースが落ちていくこと……。この1年で、パフォーマンスがどんどん悪くなっていったような気がする……)

 これまでヴァージンは、決めたラップを意識せずとも守れていた。それが、この1年の間に意識しなければ徐々にペースが落ちていくまでになってしまった。序盤だけではなく、ラストスパートでさえも、トップスピードで感じる風が徐々に弱まっているようにさえ感じる。

(最近は、ラスト1周でも57秒とか、58秒がやっとになっている……。トレーニングだからって、手を抜いているわけじゃないのに、今まで出せたはずの力が出せなくなっている……。それが、悩みなのかも知れない)


 翌日、マゼラウスの家に行く前の数時間でヴァージンはトレーニングセンターで自主的にトレーニングを行った。軽いジョギングも挟んだものの、自らの今の走りを、コーチと代理人に会う前に再度確認しておきたかった。

(ああ言われてしまったのだから、今日は自分を取り戻してみせる……!)

 ヴァージンの拳は、力強く握りしめられる。そして、右手の人差し指がストップウォッチを動かした。

(まずは、ラップ68秒……。今まで、これを無意識に10周クリアできていたはず……)

 彼女の足は、あっという間にラップ68秒のペースにまで駆け上がった。最初の直線に差し掛かる手前で目標にしていたスピードを感じ、そのまま直線へと突き進む。ここでもラップ68秒ちょうどのペースだった。

 だが、ラップへの意識が2周目、3周目に入ると遠ざかってくる。代わりに彼女に現れたのは、早くも膝を気にし始める、真逆の意識だった。気が付くと、想定していたペースよりも遅くなっているのだった。

(ラップ68秒で走り続けても膝がもたないわけないのに……。タイムが遅くなっているのに便乗して、変なところまで気にしてしまう……。走りに集中できてない……)

 ヴァージンは、再び自らのラップに意識を戻す。それからは、ほとんど途切れることなく集中し続けた。だが、ラップに対する意識を繰り返すうちに、彼女は少しずつ体の疲れを感じ始めた。

(体が少し重くなっている。小刻みに意識し続けて、思うように走れない……。前は3000mでここまで深い息を吸うことはなかったのに……)

 3000mを通過したあたりで、ヴァージンの体感では8分33秒ほど。ストップウォッチは全く数字を示している可能性も、この時の彼女には捨てきれなかった。

(この分じゃ、記録更新は厳しい……。最近、早々に世界記録を諦めてしまう走りが多いような気がする……)

 彼女の脳裏は、スタート直後の強気から、徐々に弱気になり始めているのを感じていた。そして、その想いに追い打ちをかけるように、この数ヵ月で何度か見かけたメールの文章を思い出してしまうのだった。


――世界記録を更新できないヴァージン・グランフィールドは、完全に別人だと思います。

――グランフィールド選手から世界記録に立ち向かう姿が消えたら、何が残るのでしょうか。


(まだ2000m近くあるのに、世界記録を諦めてしまう私が、ものすごく悔しい……)

 これまで43回も世界記録を更新してきた彼女だが、そのほとんどが「過去最高の走り」で終盤まで走り続けてきた時に達成することが多かった。逆に言えば、そこから数秒ズレてしまうだけで、その可能性は限りなく低くなってしまうのだった。

(世界記録の達成感を誰よりも知っている分、何故それが出ないのかもはっきり分かってしまう……)

 メールに書かれた冷たい言葉が、彼女の悩みを強く後押しする。そして、それをかすかに意識しただけで、ヴァージンのパフォーマンスはさらに落ちていくのだった。

(嫌だ……。こんな想いで走り続けたくない……)

 ヴァージンは、首を横に振って、再びペースを上げた。この時点で、3800mを過ぎていた。

(今からペースアップしなければ、また14分台を出してしまう……!)

 彼女の右足が力強くトラックを蹴り上げ、70秒近くにまで落ちたラップを65秒まで戻していく。多少は体の疲れを感じるものの、「フィールドファルコン」の反発力で次の一歩に向けて羽ばたいていく。だが、その時でさえ、意識をしなければペースが落ちていくのを感じた。

(苦しい……。どうして、ここまで楽に走れないのだろう……)

 残り800mの手前で、普段のようにラップ62秒まで駆け上がったときには彼女にはトップスピードにつなげるための力がほとんど残っていなかった。足元では、シューズから激しい戦闘力を感じるものの、それを操る両足は力をほぼ使い切ったかのように空回りしていた。

(ここから、どこまでスピードを上げられるのだろう……)

 ラスト1周、ヴァージンはトラックを力強く蹴り上げ、ペースを上げた。だが、スピードを上げたい想いとは裏腹に、ラップ60秒を切るか切らないかのところでそれ以上足の動きを速めることができなかった。

(やっぱり、スピードを出せなくなっている……!意識しても、昔の自分に届かない……!)

 懸命にゴールラインまでたどり着くと同時に、彼女はストップウォッチを止めた。そこには、14分07秒89という、決して満足のできない数字が刻まれていた。

 その数字を見て、荒い呼吸の中でヴァージンはそっと呟いた。


「1年前の世界記録が、私のピークだったのかも知れない……」

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