第76話 ボロボロの脚(6)
世界競技会、女子5000mの号砲が鳴ると同時に、ヴァージンはラップ68秒まで一気に加速する。一方で、ヴァージンの両隣でスタートを待っていたウィンスターとプロメイヤが、コーナーの出口までぴったりと横に付き、さらにその右からメリナが前に出た後に、そのメリナを追うようにヴァージンの前に出た。
その先の直線に入って、ヴァージンはようやくラップ68秒のペースを感じることができた。その段階で、トラック上にはメリナ、ウィンスター、そしてプロメイヤとほぼ同じペースで3人が一線に並び、ヴァージンがやや遅れながらその様子を伺う隊列へと変わっていった。
(メリナさんが、ラップ67秒くらい。ウィンスターさんとプロメイヤさんが、ラップ67.2秒くらいか……)
ヴァージンは、そう心に言い聞かせ、しばらくは自らのラップだけを意識するようにした。気を抜いて目標のペースが失われてしまった10000mと同じ失敗だけはしたくなかった。本番のレースで、1周走るごとに記録計の数字を見ることはこれまでほとんどなかったが、この日だけはそれを特に意識するのだった。
(周りから、自信がないと言われても構わない。でも、今の私はウィンスターさんに勝って、自らの世界記録を更新することしか、考えたくない……)
昨年ファーシティ選手権で出した、13分48秒26という過去最高のタイム。それ以来、ヴァージンが50秒を切れたことは一度もないものの、いまこのトラックにいる全てのアスリートの中で、ただ一人そのタイムを知っている彼女は、必ずその記録に立ち向かえると信じた。
2000mを5分40秒で通過する。スタートダッシュを他のライバルに邪魔されたものの、ここまでは完全に意識したペースで走れていると、ヴァージンは確信した。
(まだ、先頭は全く動かない……)
この時点で、レースをメリナが引っ張る形になっている。メリナとは30m差だ。そこから10m近く離れてウィンスターとプロメイヤがほとんど差のない状態で走っている。ヴァージンの目から確かめるに、3人とも最初の1周から大きくペースを変えていないようだ。
(メリナさんがスパートを決めれば、ウィンスターさんに勝ってしまうかも知れない。ウィンスターさんだけ抜けば世界記録が見えてくると思わないほうがいいのかも知れない……)
前を走る3人のライバルにターゲットを絞った「フィールドファルコン」が、ヴァージンの足元で早くも戦う意思を告げている。だが、ここでヴァージンはほんのわずかにペースを上げるだけで、ラップ68秒から大きく動かすようなことはしなかった。
(ラスト1000mで11分20秒を切れるようなら、今日の私は大丈夫なはず。まだ、足も膝も余裕だから)
最速女王の冷静さが、トラックを叩きつけるシューズのテンポへと変わっていく。3000mを最後に、ヴァージンはついに記録計の数字を見ることをやめ、自らの感覚でペースを確かめることにした。
(久しぶりの決勝だけど、レースには完全に慣れた……。大丈夫、私は本気で戦えるから……!)
ここでヴァージンが前を意識すると、周回遅れになった選手二人を挟んで、相変わらずウィンスターとプロメイヤがヴァージンの30m前にいる。メリナも45mほど先で、相変わらず後の二人を引き離しながら走っているが、残り2000mを切ってややペースを落としているようにも見えた。
(いつも、このあたりでウィンスターさんが勝負に出てくる……。今日はどうだろう)
ヴァージンの目は、2位につくウィンスターだけを見つめた。すると、ウィンスターはヴァージンの思った通りに2ブロックブレイズの頭を大きく揺らしながら、突然エンジンをかけた。スタートからラップ67.2秒をキープしていたその体が、一気にラップ66.5秒まで駆け上がっていき、4000mまでにメリナを捕らえそうなペースへと変わった。すぐ後ろでプロメイヤもややペースを上げたが、ラップ67秒で止め、残り1000mでウィンスターを追う作戦へと変えた。
(私も、そろそろギアを上げるしかない。ここで大きく引き離されたら、スパートでも届かない……)
昨年の世界競技会で、粘るウィンスターを前に「フィールドファルコン」が「力尽きた」ことを、この段階でヴァージンは思い出した。その二の舞だけは避けたいと、彼女は自らの体に言い聞かせた。
(やっぱり、いつもより早めにスパートを始めなければ、世界記録はない!)
半分は自らの記録を打ち破りたいという「女王」の強い意思、半分は3人のライバルを抜かなければならないという「女王」の焦り。ヴァージンの右足が3600mのラインを駆け抜けた時、彼女はついに心を固めた。
(少しでもウィンスターさんとの距離を縮める……!)
普段より1周早く、ヴァージンの右足が力強くトラックを蹴り上げる。スパートで最初に見せるラップ65秒よりもやや緩めたラップ66秒。それでもウィンスターとの差はラスト1000mを前に少しだけ縮められるはずだ。
その直後、ついにウィンスターがメリナを捕らえ、4000m手前の直線で横から一気に抜き去っていくのをヴァージンは見た。メリナも、ウィンスターに引き離されまいとペースを上げかけたが、すぐに元に戻してしまった。対照的に、3位で走るプロメイヤは、わずか1000mでウィンスターとの差を広げられたものの、ヴァージンの目にはプロメイヤがスパートでの勝負に賭けているように思えた。
(プロメイヤさんだって、私と似たようなスパートの力を持っている……。甘く看てはいけない)
4000mを11分10秒ほどで駆け抜けたウィンスターに続き、1秒後にメリナ、5秒後にプロメイヤが4000mを通過する。ヴァージンは、彼女の目で見るに8秒から9秒ほどの差であると悟った。
(ここから、私の本気のスパートを見せる……!)
すぐさまラップ65秒まで突き上げたスパートで、ヴァージンはウィンスターに迫っていく。ほぼ同時に、プロメイヤもヴァージンと同じペースまで駆け上がると、4200mのラインに差し掛かる前に再びギアを上げてラップ62秒から63秒のペースで突き進み始めた。二人のスピードアップを背中で感じたのか、ウィンスターもここでラップ65秒を切りほどのペースまで上げ、逃げ切りをはかる。
(4000m、11分20秒は切れている。トレーニングでも、このところあまり出せていない……。間違いなく、ウィンスターさんとの勝負が、世界記録との勝負になりそうだ……!)
4200mの手前で、ヴァージンはさらにギアを上げ、ラップ62秒の風を体で感じる。すると、ヴァージンとほぼ同じペースで走っているはずのプロメイヤの背中が徐々に大きくなり、4400m直後のコーナーでヴァージンの手の届くところまで迫ってきた。
(プロメイヤさん、5mくらい前にいるメリナさんさえも抜いて行けない……ずっとウィンスターさんを追い続けてきたプロメイヤさんが、次のスパートに行けないくらい疲れているみたい……)
その瞬間、ヴァージンはラスト1周でウィンスターに集中して勝負することを決めた。全くペースを落とさずにコーナーを抜けた瞬間、ヴァージンはホームストレッチの直線でプロメイヤとメリナの二人をあっさりと追い越し、ついにその目に「宿敵」ウィンスターを捕らえた。
ウィンスターが12分48秒ほどでラスト1周の鐘を鳴らし、ヴァージンも遅れること5秒ほどでラスト1周のラインを大きなストライドで駆け抜けた。ウィンスターとは35mほどの差だ。次の瞬間、これまでいくつものレースで見せてきた、ヴァージンのトップスピードが、スィープスのスタジアムでうなりを上げる。
(まだ私は戦える……!今度こそ、私のスパートでウィンスターさんを突き抜ける……!)
「フィールドファルコン」の鋭い「翼」が、逃げ切りを図るウィンスターに一気に迫っていく。その空気に気付いたウィンスターが、ラスト200mの手前でかすかに後ろを振り向き、鋭い目線をヴァージンに見せた。
(ペースを上げた……!)
昨年のアロンゾでの世界競技会では見せなかった、ラスト半周でのウィンスターのスピードアップ。ヴァージンの目には、それがラップ60秒前後のように映った。
(コーナーで食らいつけると思ったけど、ゴール手前の勝負になりそうだ……!)
「女王」ヴァージンも、ウィンスターの10m後ろで、スピードを落とすことなく駆け抜ける。
だが、次の瞬間、ヴァージンの心はわずか一言の感情に震え上がった。
――世界記録を更新できなければ、負ける……。こんな勝負を続けていたら、いくら私でもボロボロになる。
(何……、この……、弱い自分……。まだ、レースが終わってないのに……!)
ヴァージンは、突然聞こえてきた、自分とほぼ同じ声に戸惑った。「フィールドファルコン」の戦闘力を残り100mで見せようとしているこの段階で、体の奥から自ら戦う意思を失わせているような言葉だった。
(負けるのは嫌だ……!私は、世界記録と戦い続ける女王……!)
ヴァージンは、首を横に振った。その瞬間、不安は的中した。
「……っ!」
トラックの上を「飛んで」いたヴァージンの体が、突然重くなった。ジャンパー膝を患った左膝からいくつもの軽い痛みが彼女を襲う。
(スピードが、落ちていく……!)
目の前まで迫ったはずのウィンスターの背中が、目に見えて引き離されていく。ヴァージンの足は、前に進む全ての力を失ったように、トラックの上でもがいていた。
そして、それらをようやく体が理解した時には、ヴァージンは全くスピードを感じることなくゴールラインを駆け抜けていた。
(ウィンスターさんも、50秒を切ってしまった……)
そこに輝いていたのは、世界第2位のタイムとなった、13分49秒32というウィンスターの記録だった。やや睨みつけるようにそのタイムを見続けていると、ヴァージンの左からウィンスターが大きく腕を広げながら近づき、ヴァージンを抱きしめる。
「今日も、ウィンスターさんのほうが上でした……」
ヴァージンが力なくそう伝えると、ウィンスターはヴァージンの目をじっと見つめ、静かに告げた。
「ケガがまだ完全に治っていないようね……。私は、膝が完全な状態の、女王グランフィールドと戦いたい……」
ウィンスターの汗まみれの手が、ヴァージンの肩を軽く叩き、ゆっくりと向きを変えて彼女に背中を見せた。そしてウィンスターが遠ざかると、後には本気で立ち向かうことができなかったヴァージンだけが残された。
(私は、世界記録との戦いに勝てなくなっているのかも知れない……)
ヴァージンは、再び膝の痛みを感じ始め、軽く膝を押さえた。
(今まで、何の問題もなく、昔の記録を破り続けられたのに……。あまり意識したくなかったけど、自分の体がもう、悲鳴を上げている……)
出せていたはずの力が出せなくなる。無意識にキープできていたはずのラップも、ほぼ毎回決まっていたはずのスパートも、このレースでは世界記録ではなく、膝の痛みという形で返ってきた。ウィンスターにこの日も告げられた「女王」という言葉でさえ、その実を失いかけているように思えた。
世界記録を背負った、ボロボロの脚は、スタジアムの真ん中で立ち尽くしていた。