第76話 ボロボロの脚(5)
(世界記録……)
疲れ果てたヴァージンは、ロイヤルホーンの前に行くこともできないまま、トラックの横でしゃがみ込んだ。その目は再び記録計を見つめ、世界記録更新の瞬間から動くことのない数字をヴァージンに見せつけていた。
ほどなくして、ロイヤルホーンがヴァージンの横にやってきて、その右手を取る。ロイヤルホーンさえも、呼吸は荒くなっており、世界記録に打ち勝っただけの強さを感じるような表情を見せていた。
「ロイヤルホーンさん、世界記録の更新おめでとうございます。私がずっと出ていなかったので、いつか破られると思っていました……」
「そうね。最後にものすごく痺れるレースだった……。相手がグランフィールドじゃなければ、ここまで本気のスパートを見せられなかったし、世界記録だって取れていなかったかもしれないのに……」
「たしかに……、ロイヤルホーンさん、ずっと私を意識していましたよね……」
「意識は……、してたかな。ここでスパートを見せなかったら負けるって何度か思った」
ロイヤルホーンは、呼吸を整えながらヴァージンに告げた。その言葉を聞いて、ヴァージンはかすかに笑った。
「私だって、ロイヤルホーンさんがあまりにも速いので、ついて行けば世界記録を取れると思っていました……。でも、体がもたなかったです……」
「おそらく、そうだと思った。最後、急に失速したみたいだし……。それでも、これからもグランフィールドと世界記録を争わなきゃいけないって、今は心の底から思えるから……、また走れる日を待ってる」
「分かりました」
ロイヤルホーンが先にうなずくと、ヴァージンもやや遅れてうなずいた。それからヴァージンは、ロイヤルホーンの背中を見つめ、ため息をついた。
(本番で、ここまでスパートを決められなかったのはいつ以来だろう……。なんか、トレーニングで見せる悪い癖がどれもこれも出てきてしまったような気がする……)
ヴァージンは、照明の光で眩しく照らされるスィープスの夜空を見上げた。それから一度うなずいて、4日後に訪れる女子5000m決勝に向けて、気持ちを切り替えることを誓った。
選手専用エリアの出口までやって来ると、肩にスポーツバッグを掛けた茶髪の青年がヴァージンに手を振っていた。様々な光が夜のスタジアムに交わっていく中で、ヴァージンはその青年がすぐにイリスだと分かった。
「イリスさん……、待っててくれたんですね……!」
「勿論ですよ。僕のレースを見てくれたのですから、僕だってグランフィールドさんのレースを見なきゃと思って……、インタビューが終わったらすぐに観客席に行きました」
「ありがとうございます……。まさか、イリスさんの目の前で、9年間守り続けた10000mの世界記録をロイヤルホーンさんに更新されるなんて思わなかったです……」
ヴァージンがやや下を向きながらイリスに告げると、イリスは首を横に振りながらヴァージンに近づいた。
「グランフィールドさん、気にしないで下さい。いつまでも同じ人が世界記録を持ち続けられるわけじゃない、って去年言ってたじゃないですか。あと少しのところまで追い詰められたんですから、大丈夫ですよ」
「そうね……。でも、そう言った自分も、世界記録を破られることは本当に辛いし、悔しくなる……。あれだけブランクがあったんだから、他の選手が成長していることなんて分かっていたのに、私が昔のタイムを上回れなかった。本当に、悔しい……」
「グランフィールドさん……。その気持ち、僕も痛いくらい分かります……。ナイトライダーさんに世界記録を再び更新された時、直接対決で勝ってやるって思いましたもの……。実際は、まだ及ばないですけど」
逆にイリスが下を向くと、ヴァージンは語り掛けるようにイリスに告げた。
「私たちは、アスリート。永遠に挑戦し続ける人間です。その力は一瞬であって、永遠じゃないと思います。だからこそ、どの選手だって、その一瞬に全てを賭けるのです」
(イリスさんに言ったことを、次こそ有言実行しなければいけない……)
ホテルに戻った後、ヴァージンは20階の客室から夜の街を見下ろした。その光は、ここスィープスランドを突き抜け、これから戦うライバルを生んだオメガやセルティブにまで繋がっているように思えた。
(勿論、アメジスタだって……。きっと、今日も、4日後も、スポーツに関心を持ち始めたアメジスタのみんなが、私のことを応援する……。その声に、私が応えないといけない……!)
4日後にはオメガに戻ってしまうイリスこそ応援に参加できないが、スタジアムの内外で今年こそウィンスターに打ち勝ち、次の世界記録の瞬間を共にしたい人々が待っている。優勝と世界記録を逃したとしても、あと少しのところまで追いつめたことが、4日後の彼女にとって自信になっていることを、彼女は改めて意識した。
女子5000mの予選を終え、自己ベストが13分台で決勝に進出したのはヴァージンのほか、ウィンスターとロイヤルホーン、それにメリナだった。
(今回、カリナさんは出ていなかったか……)
普段であれば、予選の当日にも選手受付で出場選手一覧に目を通すが、この時だけはカリナまで追うことを忘れていた。最後の予選順位を確かめるとき、その名前がないことに気付くまで、どこかにサーモンピンクの髪がいるような気がしてならなかったが、ヴァージンの思い違いのようだった。
だが、当のカリナの姿は選手専用エリアの外にあった。
「グランフィールド~!」
「カリナさん……、って、その足はどうしちゃったんですか……」
カリナは左膝にアイシングをして、松葉杖をついて待っていた。アイシングの場所が、一昨年のヴァージンと全く同じで、わざわざヴァージンに会いに来たことを合わせると、彼女には嫌な予感を抱かざるを得なかった。
「ジャンパー膝で……、世界競技会を回避しました。グランフィールドのように、入院までにはならなかったけど……、勝負できなくて辛いです。今度こそ、あのウィンスターに勝ちたかったのに」
「そうですね……。ウィンスターさん、今年も負け知らずですし……」
ヴァージンの記憶が確かならば、ウィンスターは今シーズンカリナと同じレースに出たことはない。その代わり、他の有力選手はほぼ一通りこの1年でウィンスターに敗れている。
「やっぱり、ウィンスターに勝てるのはグランフィールドしかいないです!だから、私の分まで……」
「そんなこと言わなくて大丈夫です。そう言ってるカリナさんが、一番悔しい想いをしていると思います……」
そう言うと、ヴァージンはそっとうなずいて右手をカリナの松葉杖にそっと乗せた。
「私は、カリナさんが戻ってくる日を待ってます……。ウィンスターさんだって、心ではそう思ってます。だから、今はジャンパー膝が落ち着いた後のことを夢見て下さい。私だって、重度に近いジャンパー膝から立ち直れたんですから」
ヴァージンの語り掛けるような声に、カリナは静かにうなずいた。その目からは、かすかに涙がこぼれていた。
――さぁ、世界記録の女王を、今年も新星ウィンスターが破るのでしょうか!今日は注目のレースです!
スタジアムの入口に設けられた放送局のモニターがそう告げる中、ヴァージンは女子5000m決勝の舞台へと姿を見せた。4日前の悔しさも、一昨年以来ジャンパー膝で苦しんでいることもこの日ばかりは忘れ、昨年久しぶりに土をつけられたウィンスターや、今でも相当の実力を見せつけるプロメイヤなどのライバルにどのように立ち向かうかを意識していた。
(10000mは調整不足だったかもしれないけれど、5000mはトレーニングでも52秒とか、一度だけ51秒台まで戻ってきている。周りのペースが速くなっている中で、早めの勝負を仕掛けられれば、今回も世界記録に手が届きそうな気がする……)
そう心に言い聞かせながら、ヴァージンはロッカールームでアメジスタカラーのレーシングウェアに着替え、レース用の「フィールドファルコン」に履き替える。普段であれば、サブトラックまでのどこかでライバルと出会うはずが、このスタジアムのサブトラックが二つもあるからか、ウィンスターですら会わなかった。
結局、ヴァージンがウィンスターの姿を見たのは、集合場所に着いてからだった。2ブロックブレイズの髪が、他のライバルの間からはっきりと見える。
(ウィンスターさんも、私が出場するから、ずっと本気でいる。周りに話しかけている余裕もない……。もしそうだとしたら、回数を重ねている私の方が今日は有利かも知れない)
年齢が10歳近く離れているウィンスターを、ヴァージンは細い目で見つめ、心の中で「勝ちたい」と呟いた。
「On Your Marks……」
左にウィンスター、右にプロメイヤに囲まれながら、勝負の時を告げる号砲が鳴る。最速女王ヴァージンは、静かにうなずいた。