第76話 ボロボロの脚(4)
「On Your Marks……」
女子10000mのスタートを告げる低い声とともに、ヴァージンは最も内側でスタートを待つロイヤルホーンの表情を見つめた。ヴァージンよりやや背の高いロイヤルホーンは、落ち着いた表情でスタートを待つ。ヴァージンが女子5000mに専念していた3年間、10000mのほうはほぼロイヤルホーンが優勝することが多く、ロイヤルホーンの表情はなるべくヴァージンを気にしないように走りたいという意思にさえ思えた。
(でも、私はロイヤルホーンさんを上回るタイムを知っている……)
号砲が鳴り、3年ぶりの優勝とヴァージンは44回目の世界記録に向けて一歩を踏み出した。10000mの目標ラップ72秒まで一気に駆け上がり、徐々にトラックの内側まで移る。だが、その左側でロイヤルホーンがヴァージンを上回るペースで一気に先頭に立った。
(ロイヤルホーンさんが前に出ることは……、今まであまりなかったはずなのに!)
ロイヤルホーンは、中盤からペースを変えることが多い。そのため、序盤はヴァージンがレースを引っ張るものとばかり思っていた。だが、ロイヤルホーンのラップはおよそ71秒。ヴァージンが不在だった3年間で戦術を変えたようにしか、彼女には思えなかった。
(でも、ロイヤルホーンさんがここまでスタートダッシュを決めたということは……、スパートまではあまり調整してこないのかも知れない。あまり離されなければ、残り1600mあたりからじわじわペースを上げて何とかなるはず)
ヴァージンは、ロイヤルホーンに付いていくことはせず、ラスト1600m近くまではラップ72秒のペースをキープすることとした。一方で、ヴァージンをやや引き離して1周目を終えたロイヤルホーンは、2周目に入るとヴァージンと同じラップ72秒ペースに落ち着き、5mほどの差からほとんど動かなくなった。他にも数名のライバルがヴァージンに付いていくものの、3周目を終えたあたりから少しずつ選手が脱落し、1600mを過ぎたあたりでヴァージンの周りにはロイヤルホーンしかいなくなった。
(私のペースは大丈夫だろうか……)
ヴァージンは、2000mに差し掛かるところで、ラインのすぐ横に置かれた記録計に目をやった。ヴァージンが2000mを駆け抜ける前に、記録計は6分を刻んでいた。
(体感的には72秒のはずなのに、なかなか思うように走れていない。72秒ペースから少しだけ遅れている……)
ヴァージンは、やや体を前に出し、若干落ちたスピードを取り戻した。すると、ロイヤルホーンもそれに刺激されるように少しだけペースを上げる。ヴァージンの目から察するに、ロイヤルホーンのラップ71.8秒ほどだ。
(またロイヤルホーンさんに離されていく……。8000mあたりでどれくらいの差になっているか……)
前を行くロイヤルホーンを意識しながら、ヴァージンは次の1周を駆け抜ける。記録計の数字だけを見るに、この1周はラップ72秒で走り切れているようだ。
(少なくとも、分かっていることは世界記録を更新するには、トレーニング以上のスパートを決めないといけないこと。ラップ55秒とまではいかなくても、60秒切るだけだとまず昔の自分には追いつけないはず……)
ヴァージンはこれから20分ほどのことを考えながら、慣れたペースでトラックを駆け抜けていく。勝負の大地を蹴り上げるその足は、今のところ全く疲れたような素振りを見せなかった。
だが、6000mを過ぎたあたりで、ヴァージンは目の前の光景に異変を感じた。
(ロイヤルホーンさんから、この時点でもう、こんなに引き離されている……)
コーナーに差し掛かると、ヴァージンの視界からロイヤルホーンの姿が消えるほどまで、二人は差を広げられていることに気が付いた。ラップ0.2秒ほどの差が付いている以上、計算上はおよそ3秒ちょっとの差がついているにも関わらず、実際にはその3倍の9秒ほどの差が付いている。同時に、ヴァージンはペースが再び落ち始めていることに気が付いた。
(ロイヤルホーンさんは、71秒台後半で走っている。きっと、私のほうが引き離される原因を作っている)
ヴァージンはトレーニングでも、ラスト4周まで目標のラップを守れたことは少なく、気が付くとラップ74秒や75秒まで落ちていることを体で感じるのだった。今回、本番でしかもロイヤルホーンのペースを見ているにもかかわらず、無意識で走っているうちにペースを落としていることに、ヴァージンの心は震え上がった。
(ここはトレーニングじゃない。世界記録に立ち向かう、本番の舞台。このままじゃいけない……!)
ヴァージンの目が6400mの通過タイムに19分19秒と刻まれていることを確かめると、彼女は一気にペースを上げた。ラップは71秒を上回り、およそラップ70.8秒と、ロイヤルホーンと自らの世界記録を追うには十分すぎるペースだ。この地点からギアを上げるつもりではなかったが、あまりにも離されたロイヤルホーンに少しでも追いつくために作戦変更を強いられた。
女王は、それだけ焦っていた。
(8400mあたりまでで一番調子のよかった時のタイムに持っていければ、世界記録が見えてくるはず!)
だが、ヴァージンの力強い走りがロイヤルホーンに響いたからか、先に8000mを駆け抜けたロイヤルホーンがラップ71.6秒からさらにペースを上げ、ヴァージンは再びロイヤルホーンに引き離され始めた。8000mの時点で20mと少しの差にまで縮めたはずのロイヤルホーンを、ヴァージンは目を細めて見つめながら次の作戦を考え始めた。
(私のタイム、8000mを24分03秒くらいか……。残り2000mは、やっぱり5000mとほぼ同じラップに上げないと、世界記録には間に合わないのかも知れない)
すでに8000mを走っている段階から、残り2000mで5000m走のような走りを見せること。ヴァージンの体力をもってしても不可能に近い作戦を、逆算で求めなければならなかった。
だが、ヴァージンがどこからスパートをかけるかを模索しているさなか、ロイヤルホーンの加速が留まるとところを見せない。8000mを過ぎてから絶えずスピードを上げているようにしかヴァージンの目には映らなかった。
(ラップ67.5秒くらい……。5000mで見るようなペースだ)
ヴァージンの細い目が、さらに細くなる。この状態で、5000m走とほぼ同じペースで走り始めたロイヤルホーンに追いつかなければならないという使命感が、ヴァージンの心で燃え上がった。
(あと少し、ロイヤルホーンさんがペースを上げると……、ロイヤルホーンさんは完全に世界記録が射程に入る。そうだとしたら、ロイヤルホーンさんは私が記録を破るいいペースメーカーになっているかも知れない)
8400m手前のコーナーでそう悟ったヴァージンが、すぐさまラップ67.5秒までペースを上げ、ロイヤルホーンの40mほど後ろを同じペースで走る。もはやヴァージンは、ラスト1000mでの勝負に持ち込まなければならなかった。
(私は、出せる限りのスピードでロイヤルホーンさんと戦わなきゃいけない……!)
ヴァージンの足に携える「フィールドファルコン」が、今にもロイヤルホーンを捕らえたいとばかりに「翼」を羽ばたかせている。だが、ラスト1000mからでなければギアをさらに上げることが難しいと思ったヴァージンは、勝負の地点までは少しずつペースを上げるだけに留めた。
そして、9000mのラインを先にロイヤルホーンが駆け抜けたときだった。
(またペースを上げた!)
ここでロイヤルホーンがペースを上げ、今度はラップ66秒に近いタイムのスパートを見せた。ヴァージンの体感的に、ロイヤルホーンの9000m通過タイムが26分44秒ほどだ。
(まずい……!)
ヴァージンは、9000mのラインを待つことなく一気にペースを上げ、ラップ65秒とその差を詰めにかかった。だがその後の200mでも縮められたのは数mほどで、ロイヤルホーンはヴァージンが迫ってくることすら気に留めていないような余裕さえ見せていた。
(まだ、私はペースを上げられる!)
ヴァージンの走り方は、ここにきて5000mと全く同じになっていた。どこまで体力が続くかほとんど計算することなく、世界記録を持つ彼女が力の限りスピードを上げていく。残り800mとなったところでラップ62秒のペースまで上げていき、一気にロイヤルホーンとの差を詰める。
(ロイヤルホーンさんは、このまま走れば世界記録を破るか破らないかのタイム。私は、次の1周でペースを上げられなければ負けてしまう)
ヴァージンは「フィールドファルコン」に意思を告げるかのように、最後の1周に差し掛かる前に力強い一歩を踏み出した。だが、次の瞬間にヴァージンは体が一気に重くなるように思えた。
(足が付いて行かない……!)
どんなに前に足を出そうとしても、ヴァージンのスピードが上がっていかない。力強く羽ばたいているはずの「フィールドファルコン」も、力を消耗しきっている脚では空回りしているかのようだった。
(もっと速く……!)
最終コーナーを回ったところで、ヴァージンは20mほど後ろまでロイヤルホーンを追い詰めたが、そこから横に出るだけの力は残されていなかった。ここで初めてロイヤルホーンが後ろを振り向いたものの、その表情からは、ヴァージンと対照的に笑顔さえ見えた。
そして、ヴァージンの目の前でロイヤルホーンがゴールラインを駆け抜けた。次の瞬間、ヴァージンの目に見たくない数字が、記録計から告げられた。
29分28秒13 WR