第76話 ボロボロの脚(3)
3月にトレーニングに復帰したヴァージンは、以前のように毎日タイムトライアルを重ねることをせず、まずは距離感やラップの感覚を取り戻すことに専念した。特に、10000mはプロトエインオリンピックから3年近く走っていないため、普段のようにラップ68秒で走り出さないよう、ラップ73秒から72秒のペースを掴むための400mランを取り入れるようになった。
いよいよ本番に向けてトレーニングができるという喜びはしばらく続いたものの、たまに行うタイムトライアルの結果がヴァージンの目に触れるたびに、彼女は戸惑うのだった。
(やっぱり、5000mで13分57秒前後しか出せなくなっている……)
マゼラウスも、3月4月のうちはこのタイムでもヴァージンに何も言わなかった。だが、5月も後半になってくると、いっこうに自己ベストに近づけないことを彼女に告げるようになった。
「自己ベストの走りを思い出すには、まだ時間がかかりそうだな……。お前は今まで、毎日にピークを持っていったが、今回ばかりは本番に全てを出し切るような走りを見せないといけなそうだ」
(毎回、本気で走っているのに……、記録が付いて行かない……)
ラップ68秒で走っている感覚はあるものの、マゼラウスの声で設定のペースから少しずつ遅れていることを、否応なしに知らされる。世界記録に挑む走りを全く取り戻せていないことの証拠だった。
「なら、次に私がやって来る水曜日は、気分転換に10000mのタイムトライアルをやってみないか。5000mよりはスローペースで走れるから、そこまで膝への負担は掛けないだろう」
「分かりました。できれば、早いうちにやりたかったですから」
ヴァージンは、5000mで記録を伸ばせないことを忘れたいかのように、マゼラウスにそっと告げた。
だが、10000mのタイムトライアルすらも、ヴァージンの納得するようなタイムにはほど遠い結果となった。
「30分08秒29。7年前の世界競技会よりも悪いタイム……。やっぱり、久しぶりの10000m参戦はきついな」
「コーチ。ラップ72秒で走っていたはずなのに……、少しずつ遅くなっていくことを感じました……」
「やっぱりな……。事実、8000mあたりまではお前のラップが少しずつ悪くなっているようだからな……」
「実際、どれくらいまで悪くなっていたんですか……」
ヴァージンが尋ねると、マゼラウスはあまり告げたくなさそうな表情を浮かべながら、ヴァージンに言った。
「75秒まで落ちたラップもあった、とだけ言っておく」
(ペースが保てていない……。長距離走にとって、致命的な問題だ……)
おそらく、5000mもそうなのだろう。マゼラウスの言葉に、ヴァージンはそう思うしかなかった。その理由は練習不足であることは、間違いなかった。
(でも、練習不足が原因だったり、膝の痛みが原因だったりしたら……、もっと前に私のパフォーマンスが悪くなってなきゃいけない……。何が原因なのか、本番までに見つけないといけない……)
その後、7月に入ってヴァージンのタイムは10000mも5000mも上向いてきたが、自らの世界記録に手が届くタイムを出すことができなかった。前回のタイムトライアルよりも良いタイムであればマゼラウスが褒めるものの、ヴァージンが心を落ち着かせるのはその瞬間でしかなかった。
(世界記録と勝負がしたい……。私は、自分にしか出せない記録と戦うために、トラックに立っているのだから)
彼女はストップウォッチに荒い息を吹きかけ、この日も出なかった最高の走りを吹き飛ばすしかなかった。世界記録を破り続けてきた女王は、トラックの上でもがき続けていた。
16年ぶりのスィープスランドは、気候帯が全く変わったかのように蒸し暑く、これまで行われたどのレースよりも過酷な環境で戦わなければならないことを、ヴァージンは空港に着いた瞬間に感じずにはいられなかった。
(スィープスは、私が2度目の世界記録を叩き出した場所……。そこで私は、今年の世界競技会に挑む……)
今回、世界最高峰のレースということもあり、ヴァージンが強敵と感じているライバルが数多く出場する。スィープスに着いたヴァージンは、世界各国から選手を迎える空港の到着ロビーで、今年一度も見ていないライバルの表情を一人ずつ思い出していた。
(まずは、ロイヤルホーンさん……。今回も5000mは出ていないけど、10000mだと私の世界記録まで3秒のところまで迫ってきている……。そのロイヤルホーンさんに勝てば、世界記録を出せる。間違いない)
まだ本番まで1週間ほどあるにも関わらず、ヴァージンは早くもロイヤルホーンとの10000mの勝負を夢見た。すると、その夢が正夢になったかのように、背後から聞き慣れた声が聞こえた。ヴァージンは、思わず振り向く。
「グランフィールドね……。まさか、ほとんど同じ時間に空港にやって来るとは思わなかった」
「ロイヤルホーンさん……。なんか、すごく久しぶりな気がします」
ヴァージンがロイヤルホーンに頭を下げようとすると、ロイヤルホーンが軽く手を振ってその動きを止めた。
「グランフィールドのほうが、この2年くらい大変だったと思う……。私は、同じトラックで本気で戦える時をずっと待っていただけだから」
「ロイヤルホーンさんにそう言ってもらえると、ものすごくありがたいです……。私だって、世界競技会という最高の舞台に、最高の自分を見せられるようにここまでトレーニングしてきたので……」
「その答え、期待しているから。私だって、最高の走りでグランフィールドに立ち向かうから」
二人は、空港の真ん中でがっしりと手を組み、1週間後の勝負に向けて誓い合った。
(10000mは……、かなり調子を取り戻したような気がする……)
本番の会場となるスィープスのスタジアムの外周を、ヴァージンは当日までに2回、3回と10000mや5000mを走った。本番三日前には、ロイヤルホーンの自己ベスト29分31秒20をやや上回るタイムがストップウォッチに刻まれ、その数字に嬉しい吐息を吹き付けるのだった。
(私の世界記録は、4年前に出した29分28秒81……。もしかしたら、ここまで待った甲斐があって、今回は世界記録で突っ走れるかも知れない……!)
世界競技会、女子10000mの当日がやって来た。
この日は、男子100mの準決勝と決勝があり、ヴァージンも客席から見て欲しいとイリスに言われているものの、その直後に女子10000mが入ったために客席からイリスの走りを見るわけにいかなかった。
(でも、見てみたい。去年の世界競技会のように、選手専用エリアから遠目で見るしかない……。けれど、レース前だし、どうしよう……)
「神」ナイトライダーの牙城になっている男子100mで、イリスがその力を打ち破れるか。ヴァージンをはじめとしたごくわずかなファンしか気にしていない出来事に、本番前のアスリートが集中するのは、本当は良いことではない。だが、永遠の約束を誓い合った以上、見ないわけにはいかなかった。
ヴァージンは、集合時間よりも10分以上早くトラックへと続く階段を駆け上がった。そこには、イリスやナイトライダー、それにジェラトールといった注目選手が並んでいた。スタート直前のようだ。
(頑張れ、イリス……)
イリスの目は、普段と全く変わらず、100m先のゴールラインを見つめ続けている。今回こそナイトライダーを破りたいという意思が、ヴァージンの体にはっきりと伝わってくる。
(イリスさんは、何度見ても勇敢そうに感じる……)
ヴァージンが心の中でそう呟いたとき、スターターの右手が上がった。スタートラインに並んだ16本の腕が、100m先目掛けて一気に加速したいと、力強くトラックに力を溜めていく。
(イリス……!)
号砲が鳴ると同時に、イリスのスタートダッシュがナイトライダーを体二つ分ほど引き離す。力強いその走りが、ゴールへと突き進む一筋の光となって、ヴァージンの目の前を駆け抜ける。
だが、それからわずか1秒もしないうちに、その光を「神」の輝きが消し去った。
(うそ……!)
ナイトライダーの体が、あっという間にイリスの横に並び、イリスの体をも突き抜けていくかのように先頭に立った。そして、力強いストライドをイリスにはっきり見せつけるようにゴールへと飛び込んだ。
(9秒48……。またナイトライダーさんが世界記録だ……)
スタジアムにいる誰もが注目した記録計から視線を反らした瞬間、イリスがゴールの先で倒れ込んだ。最終的にはジェラトールにも抜かれ3位に終わった「獣」は力尽きたかのようにその身を休めていた。
(イリスさんだって、決して遅くないのに……)
ヴァージンは、最後にイリスの体に目をやり、集合場所へと体の向きを変え、ゆっくりと歩き出した。
(今日も、「神」は最強だった……。だから、私だって女王として敗れるわけにいかない……)
大きく深呼吸をしながら、ヴァージンは間もなく訪れる勝負の瞬間を待ち続けた。濃い肌がトレードマークのロイヤルホーンの姿が、彼女の目の前にはっきりと見えていた。