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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
ヴァージンの脚はもう 世界記録に届かない
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第76話 ボロボロの脚(2)

 それからの2ヵ月、ヴァージンはトレーニングセンターに入っても、ほとんどトラックに出ることはなかった。トレーニングセンターの外周通路で軽いジョギングをするだけで、あとは室内練習場や自宅で、ルームランナーで軽めに走るだけだった。

(本当はトラックを走りたいけど……、トラックを見ると本気になってしまうこと、1年半前に痛いほど分かってしまったし……。今は我慢しかないのかも知れない……)

 エクスパフォーマとスポンサー契約を結んでいる女子短距離走の選手が何人かまとめてトラックに出て行くのを背に、ヴァージンはこの日もわずか1時間だけの滞在で自宅に向かって歩き始めた。

 すると、目の前から見慣れた茶髪の青年がヴァージンに向かってくるのが見えた。

「イリスさん……、久しぶりです。こんなところで会うとは思わなかったです」

 イリスと最後に会ったのは、昨年のリングフォレスト選手権が最後だった。世界競技会ではイリスのレースだけ見たものの、それ以外はメールでのやり取りをするだけだった。ヴァージンがタイムトライアルやトラックを使うトレーニングができないことは、イリスにメールで伝えていた。

「あのメールを見て、僕、ものすごく心配になったんです。膝がまだ治らないとは分かっていたのですが……、この前の世界記録を見て、僕はグランフィールドさんがすっかり大丈夫になったと思ったんで……」

「イリスさん。なかなか、そうもいかないのです。本気で走ると痛みが出てくるし……、まだ回復にはほど遠いと自分でも気付いてしまいましたし……」

「やっぱり、グランフィールドさんはものすごく悩んでいるようですね……」

 イリスはそう言うと、ゆっくりと近づき、ヴァージンの手を握った。それから、耳元でささやくように告げた。


「今は、僕がグランフィールドさんに寄り添ってあげなきゃいけないのかも知れない」


(寄り添う……。イリスさんが、私に寄り添う……。これって、まさか――!)

 ヴァージンは、イリスの言葉にこれまで聞いたこともないほどの甘い香りを感じた。ヴァージンの表情が戸惑いに変わっていくのを、彼女の肌が微かに感じていた。

 すると、イリスがヴァージンに向かってさらに言葉を重ねた。

「たしかに、グランフィールドさんのコーチも、代理人も、元は有名なアスリート。けれど、いま記録と戦い続ける身として、グランフィールドさんに何かできるんじゃないかと思ったんです……」

「イリスさんが……、私を支えてくれるのですね……」

「支えてくれるというか、僕は支えたい!こんなにも、世界中が待ち望んでいるアスリートを、いつまでも走れるように支えたい!グランフィールドさんの今を見て、心からそんな気持ちになれるんです!」

 ヴァージンは、イリスの言葉が次々と彼女の心を包んでいくのを感じた。握りしめた手の温もりに負けないほどの暖かさが言葉の全てから伝わり、それが今にも走りたくて仕方がないヴァージンの全身に伝わっていく。

(メドゥさんより……、100倍、いや1000倍も……、私の気持ちを感じ取っているのかも知れない……)

 イリスは、戸惑いが少しずつ消えていくヴァージンの目を見つめ続ける。それから彼は、何も言わず静かにうなずくことしかできなかったヴァージンにうなずき、さらに言葉を継げた。


「僕は、女王を守る騎士。その女王は、勿論グランフィールドさんしかいない……。これまでいろんなことを僕に教えてくれた、長距離界の女王を、僕は今のコーチ、いや、親以上に一番守りたいんです」


 そう言うと、イリスはやや中腰になってヴァージンを見上げる。ヴァージンは、次の瞬間にイリスの体を抱きしめ、そして胸元で泣き出した。

「今の私には、こういう温かい気持ちが……、ものすごく欲しかった……!膝がいつ痛むか分からない不安が、いろいろな理由で増えていって……、私はもうどうしていいか分からなかったのです……」

「僕も、グランフィールドさんを見てて、そんな気持ちでした……。今に始まった話じゃなくて、スタンドで苦しそうなグランフィールドさんを見たときから、ずっとそんな気持ちでした……」

 気が付くと、ヴァージンの薄い金髪に、一粒の涙が落ちていた。気持ちを伝えるイリスが泣き出すはずがないのに、ヴァージンの涙に刺激されたのだと彼女は思った。

「イリスさん……。なんか、私、心が決まったような気がします……。私とイリスさんは、心から通じ合っているんだって……、そんな関係のように思えます……」

 ヴァージンは、イリスの胸から体を離して、彼の表情を見つめた。イリスは微笑んでいた。それを見て、ヴァージンはさらにイリスに告げた。

「私は、心から大事だと思えるパートナーがイリスさんなんだって、今ようやく気付いたような気がします!」

 そう言うと、ヴァージンはイリスの手を再び握りしめた。イリスは、微笑みながらヴァージンを見つめている。その表情からは、イリスがヴァージンのある答えを待っているかのように、彼女の目に映った。

 その答えを言うのに、ヴァージンにはもう気の迷いはなかった。


「私、イリスさんに付いて行きます。これからも……、イリスさんがその脚を止めるまで……、ずっと!」


 その瞬間、ヴァージンの心の中に動くもやもやした気持ちが、一気に消えていくのを感じた。イリスの柔らかい表情が、彼女の悩みや不安を受け止めてくれるように思えた。彼女は、自分の出した答えが正しいことを、口にして数秒で気付いた。

「決まりだね。僕と、グランフィールドさんが新しい生活を送る……。結婚届は、時間があるときに出そうよ。例えば、世界競技会が終わった後とか」

「イリスさんも、忙しそうだから……、きっとその方がいいと思います。でも、実質的には今日からイリスさんを……パートナーだと思います」

 イリスはヴァージンの声にうなずいた。半年後にイリスと結ばれることを指で確かめ合った二人は、最後に大きくうなずいた。


「ヴァージンも!?」

 その日、姉のフローラにイリスとの再婚を告げると、フローラは別の意味で驚いた表情を見せた。次の瞬間、ヴァージンの目にはフローラの手の指に男性の写真が一枚挟み込んでいることに気が付いた。

「もしかして、お姉ちゃんも結婚関係で伝えたいことがあるんだ……」

「そうね。だいぶ前に言ってた脳神経外科の担当医、ヒールティと言うんだけど、この夏に結婚届を出すことに決まったの。ヴァージンと違って、全く注目されないけど……」

「じゃあ……、お姉ちゃんもこの家に彼氏を連れてくるってこと……なんだ」

「大丈夫、大丈夫。私もヒールティも新しい家を建てて、そこから病院に通うことになったから」

 ヴァージンに向かって、フローラは気にしないでと言わんばかりに大きく手を振った。ヴァージンはそれを聞いて思わず目線をフローラから反らした。

(この家に……、イリスさんが来るなんて全く約束していなかったし……、二人で暮らす場所も、アルが命を落とした場所じゃないところのほうがいいような気がするんだけど……、どうなんだろう……)

 ヴァージンもフローラも出ていくとなると、元々はアルデモードの豪邸だったこの場所に誰も住む人がいなくなる。ただでさえ掃除以外に立ち寄っていない部屋がいくつかある今の家は広すぎて、もしわがままが言えるのであれば、部屋よりも庭に400mトラックのついた家のほうがよかった。

(でも、イリスさんはどうしたいんだろう……。それは、二人の新生活が始まる前に決めた方がいいのかも……)

 ヴァージンは、イリスの表情を少しだけ思い浮かべながら、早くも二人の新しい生活のことを考えていた。


 メドゥやタグミ医師に説得されてから2ヵ月、ヴァージンは結局、一度もトラックの上で5000mを本気で走ることはなかった。ルームランナーで一度だけその距離を走ったことはあっても、目標タイムを18分台と、彼女にしては遅すぎるペースに設定するのがやっとだった。

「走らなかったというのはありますが、グランフィールドさんの膝はだいぶ良くなっていますね」

 タグミ医師に見せられたCTスキャンの画像を見ながら、ヴァージンは心の中で「よし」と叫んだ。まだ血管が通常より多いものの、正常範囲内の上限ギリギリに収まっているというのが医師の診断だった。

「今年は、8月の世界競技会だけに集中して取り組むことにしたのですが、大丈夫ですか」

「そうですね。これからも定期的な診察を行って、あまり悪化しないようなら出てもいいと思いますよ」

「分かりました……。ありがとうございます」

 ヴァージンは、タグミ医師に礼を言うとゆっくりと立ち上がり、決して態度に表さないものの、心の中では既に薄青のトラックを走り出しているように思えた。

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