第76話 ボロボロの脚(1)
――今年も、女王グランフィールドはどこまで世界記録を伸ばせるか、世界が注目です。
新しい年が明け、ヴァージンがたまたまテレビをつけた瞬間、スポーツニュースで自らの名前が呼ばれる。次の瞬間には、彼女の手はここ1年半何度も触ってきた左膝に近づき、ため息をついた。
(前のレースから2ヵ月以上経っているのに、本気で走った後にすぐ膝が痛くなる……。リハビリ明けでもここまで酷いことはなかったのに……)
すぐに引くものだと甘く見ていたジャンパー膝の痛みが1週間経っても引かないと分かった段階で、メドゥにはインドアシーズンの欠場を伝えているが、今もなおベストコンディションにほど遠い彼女はそれより先のスケジュールも考えなければならない段階になっていた。
すると、その悩みを待っていたかのように電話が鳴る。メドゥだった。
「ヴァージン、今年もよろしく」
「メドゥさん、こちらこそ……。まだエージェントが休みなのに、電話をかけてくるのは珍しいですね」
「そうね。いま、テレビでヴァージンのことが紹介されていたから、気になって電話したのよ……。膝、どう」
「あまり、いい状態とは言えません……」
ヴァージンは、メドゥに見えるわけがないのに、首を横に振った。
「そう。トレーニングでも、そんないいタイムじゃないって聞いたから……、そういうことじゃないかと思った」
「そうですね……。なんか、ギアを上げるときに、少し膝が重くなるんです……。そんな毎回じゃないはずですが、それがタイムに影響しているような気もします……」
ヴァージンは、そう言って電話口の前で再び首を横に振った。すると、メドゥはさらに言葉を続けた。
「正直なところ、ヴァージンは何月ぐらいからなら実戦で走れそう?希望じゃなくて、体調と相談して」
(体調と相談して、か……)
まだ年が明けたばかりのこの時期に、アウトドアシーズンも走りたくないなどとヴァージンは言うつもりはなかった。むしろ、アウトドアシーズンには数多くのレースに出て、自らの新しい記録をウィンスターなどのライバルに見せつけたいと思っていた。だが、メドゥに釘を刺された段階で、ヴァージンは考えざるを得なかった。
(ある程度の方針だけ伝えて、メドゥさんに振ってみようか……)
ヴァージンは電話を強く握りしめながら、メドゥに告げた。
「メドゥさん……。私は、戦うチャンスが欲しいです。必要最低限。女王なき5000mなんて言われたくないです」
「やっぱり、ヴァージンはそう言うね……。昔から、変わってない」
電話口の向こうで、メドゥがふっと笑うのをヴァージンは聞いた。だが、それから間髪入れずに、メドゥはさらに言葉を続けた。
「でも、私は、数少ないレースにピークを持っていった方がいいと思う。ちょっと、今度タグミ医師の定期検査で聞いてみるけど、今のままだと同じことを言うと思う」
「タグミ医師も……、大会のたびに発症してしまうことを大きく見てますね」
ヴァージンがメドゥに静かに言葉を返すと、メドゥは少し考えるような息遣いをしながらヴァージンに告げた。
「あのね、ヴァージン。このまま軽い痛みが続くようなら、思い切って一つのレースだけに集中して取り組んだ方がいいのかも知れない。例えば、8月のスィープスでの世界競技会だけとか」
(世界競技会だけ、か……。タクシーで言い争いになったときもそうだけど、メドゥさんはケガのこと、かなり重く見ているのかも知れない……)
ヴァージンは、すぐに言葉を返さず、一呼吸置いてメドゥに「それでいいかも知れませんね」と告げた。それから、ヴァージンはやや声を大きくして、さらに言葉を続ける。
「そこが、世界記録と戦う、私の次のフィールドにします。5000も10000も」
「10000も。分かった。じゃあ、その時には2種目で最低でも優勝するよう、ピークを持っていって欲しいわ」
「そうですね、メドゥさんの期待に添えられる走りを見せたいと思います」
ヴァージンがそう言うと、程なくして電話が切れた。それからヴァージンは、天井をじっと見つめ、自らの世界記録を追っているライバルたちの表情を次々と思い浮かべた。
(5000m……、そう遠くないうちに、誰かが50秒を切ってきそう。10000mだって……、ロイヤルホーンさんが去年29分31秒20を出したし、3年ぶりに走る私だって負けるわけにはいかない)
次々と積み重ねてきたヴァージンの世界記録でさえ、他を圧倒するわけではない。所詮、今のところヴァージン以外に誰も出していないタイムにすぎない。ヴァージンは、心にそう言い聞かせて、右手の拳を握りしめた。
「なかなか、ベストの状態には遠いようだな」
マゼラウスを交えての新年最初のトレーニングで、ストップウォッチを見せるマゼラウスがため息をついた。ヴァージンが全力を出し切ったにもかかわらず、そこには13分59秒73と映っていた。
(トップスピードを出せたと思ったのに……)
ヴァージンは、トラックの内側に座りながら左膝を押さえた。まだ痛みは出ていないものの、この後いつジャンパー膝の症状が出てくるか心配でならなかった。彼女はマゼラウスにうなずくばかりで、数十秒もしないうちにマゼラウスも彼女の膝をじっと見つめるようになった。
「膝が痛いのか……」
「痛いというか……、気にしてしまうのです……。タイムトライアル中はタイムだけを意識したいのに、走った後にいつ痛みが出てくるか分からなくて……。意識したくないことまで出てきてしまうのです……」
「そうか……。走りたくてしょうがないお前の口から、そんな悩みが出てくること自体が、不安材料だ。なるべく無理はしないでおこう。お前だって、世界競技会で2種目の世界記録を狙っているのだからな」
「はい」
マゼラウスにしてはやや高い声に、ヴァージンは静かにうなずくしかなかった。それから静かに立ち上がると、その後は家に着くまで一切膝を気にすることはなかった。
「やっぱり、検査を重ねる毎に悪くなっていますね。今月も血管が増えています」
「そうでしたか……」
メドゥはおろか、ヴァージン本人も予想していた言葉がタグミ医師の口から現れた。この日はメドゥも診察室に同席していたが、タグミ医師はヴァージンとメドゥのそれぞれに向かって静かにうなずき、深刻そうな表情を見せている。その表情に誘われるように、ヴァージンもため息をついた。それから、タグミ医師に尋ねる。
「先生、レースへの出場は、去年のペースというわけにはいかないでしょうか」
メドゥも気にしていたことを、ヴァージンから確認した。タグミ医師の首が軽く横に振られたのを見て、彼女は答えを察した。
「ここまで行ってしまうと、根本的に痛みが取り除かれるまで、レースには出ない方がいいかも知れませんね」
「出ない方がいい……、ですか。例えば、年に1回だけとか……」
「グランフィールドさんが、世界的に有名なアスリートであることは承知の上で、その体を守ることになった立場として言わせてもらえば、また2ヵ月くらいトレーニングを休めと言うしかありません。ただ、入院を要するほどではない痛みだとも思いますので、せめてトレーニングにだけは気を付けた方がいいでしょうね」
(トレーニング……)
ヴァージンは、次に尋ねる言葉を忘れて、下を向いた。トレーニングができなければ、本番に向けてピークを持っていくことすらできない。できれば、軽めでもいいのでトレーニングを続けたい、という言葉を言おうとしても、それを口から告げることもできなかった。
すると、メドゥが中腰になり、ヴァージンに静かに告げた。
「2ヵ月でいいから、タイムトライアルを休んでみない。そうしたら、世界競技会に間に合うと思う」
「そうですね……」
世界競技会まで、まだ7ヵ月はある。再び2ヵ月本気で走れないことのダメージは大きいが、走るたびに膝の痛みに怯える現実を放置するわけにもいかなかった。ヴァージンは、メドゥに静かに意思を示すしかなかった。
「おそらく、2ヵ月本気で走らなければ、血管の数も少しは減ってくるはずでしょう。そうなったら、無理しない範囲で本気の走りを見せればいいと思いますよ。グランフィールドさんの回復を、私だって見たいですから」
「分かりました」
ヴァージンは、タグミ医師に静かにうなずきながら席を立った。病院に入った時には何も感じなかった膝が、心なしかやや痛くなってくるように思えた。
(私は……、しばらく思うように走れない……。メドゥさんも、医者もそう言ってた……。本当は待っているわけにはいかないのに……、走れば走るだけ膝に負担をかけてしまう。それが、私の置かれた現実……)
病院の出口でメドゥと分かれるまで、ヴァージンはメドゥに何も話し掛けなかった。メドゥもヴァージンに話し掛けることはなかった。二人は、この先を考えるしかなかった。