第9話 ワールドレコード(1)
「メドゥさん……、グラティシモさん……、バルーナさん……」
ワンルームマンションに、ヴァージンのかすかな声がこだまする。オメガにやってきて容易に手に入るようになった「ワールド・ウィメンズ・アスリート」に、1ページまるまるライバルが映っているページがあると、切り抜く癖はアメジスタにいた頃から抜け出すことができない。そして、未だにヴァージンにとって格上とも言える3人のトップアスリートのグラビアが揃ったこの日、ヴァージンは思い切って壁に穴を開け、実家でそうしていたようにそれらを貼りつけた。
そして、3人の喜ぶ表情を見て、ヴァージンは両手の拳を握りしめた。
(いつまでも、負けてちゃいけない……)
アメジスタにいた頃は、貼りつけたトップアスリートの姿に憧れるだけのものだったが、ヴァージンが同じフィールドに立っている今は、その役目を終えていた。3人が喜んでいるように、自分だって満足のいく結果を残したい。そのために、ライバルたちのグラビアがあった。
(私は走った後、いつもこの3人を前に、悔しさしか出てこない……。それじゃいけない!)
ヴァージンは、そこでまばたきをした。そして、すぐに一人一人の喜びの表情を、細い目で見つめた。
オフシーズンは、マゼラウス同伴のトレーニングの時間は多少短くなり、代わりにヴァージンが未だに不得意としている教養の講義が増えてくる。暮れも押し迫ったある日、昼食を終えたヴァージンがアカデミーの講義室に入ると、珍しくグラティシモが前の方の席に陣取っていた。
「グラティシモさんが、ここにいるのは珍しいですね」
ヴァージンは、グラティシモの三つ隣の席に腰を下ろし、すぐに声をかけた。グラティシモは何やら課題をしていたようで、目を課題用紙にやっていたが、すぐに顔を上げてヴァージンにうなずいた。
「今はオフよ。少しは勉強もしたくなったから、この前から講義に出てたの」
「そうなんですか……」
マゼラウスに勧められなかったとしても、絶対に基礎学力をつけなければならないことが分かっていたヴァージンは、1年半近くに及ぶアカデミー生活で、数多くの教養の講義を受け続けてきた。逆に、勉強をしたくなったから講義に出るグラティシモは、やはりヴァージンからは大人に見えた。
ヴァージンは、軽く下を向いてため息をつき、この日使うテキストを机の上にいそいそと出す。だが、その時ヴァージンに思いがけない一言がグラティシモから飛び込んできた。
「ヴァージンも、ついに写真付きで紹介されるようになったじゃない」
「え……?」
ヴァージンは、手を止めてすぐにグラティシモに顔を向けた。
「まさか、ヴァージン、今月号の『ワールド・ウィメンズ・アスリート』を見てないの?」
「…見てますけど、バルーナさんが期待の新星みたいな感じで、1ページまるごとグラビアになってたぐらいしか、記憶にありません……」
「そのバルーナは、サウザンドシティの大会で撮られたやつでしょ。その裏側にヴァージンの写真がいたじゃないの」
「裏側……ですか……!壁に貼っちゃいました……」
ヴァージンは、思わず右手で口を押えた。雑誌を切りぬくのに夢中で、その裏側にまで目が回らなかったのだ。そう言えば、今月号の特集が「来季への飛躍」で、9月や10月の大会で特に目覚ましい成績を残したアスリートをフィーチャーする特集が組まれていたのだった。
「ということは、私も『ワールド・ウィメンズ・アスリート』から注目されてるって……ことですか?」
「そういうこと。それ、すごいことじゃない」
ヴァージンは、気の抜けたように軽く笑った後、すぐに目を細めた。できることなら、今すぐにでも講義を欠席して書店に急ぎたいところだ。少なくとも、これから不得意な数学の講義を受けるような気分にはなれない。
ヴァージンは、いつの間にか落ち着かないようなしぐさを周りに見せていた。それはグラティシモにもはっきりと見えていた。すると、グラティシモはバッグから雑誌を取り出した。
「ヴァージン、そこまで気になるんだったらあげるわ」
(……今月号!)
ヴァージンの目に、見慣れた表紙の「ワールド・ウィメンズ・アスリート」が飛び込んでくる。ヴァージンは、思わず体をのけぞって、グラティシモに体を向けた。震えが止まらない。
「い……、いいんですか……?」
「ヴァージンがそのページを持ってないなら、あげるわよ」
「でも、それだとグラティシモさんの分がなくなってしまうような気がするんですが……。すごく悪いし……」
ヴァージンは丁寧に拒絶したが、雑誌を持ったまま立ち上がったグラティシモの動きを止めることはできない。すぐにヴァージンの席に、少ししわのついた「ワールド・ウィメンズ・アスリート」が置かれた。
「私は別に、もう一冊買えばいいんだし。これは、ヴァージンが絶対に見なきゃいけないと思うの。見て損はない」
「……ありがとうございます」
ヴァージンは、グラティシモの目を見て、軽く笑った。そして、すぐに雑誌に手が伸び、急いで目的のページまで指を走らせた。だが、目的のページまであと6ページと迫った時、講義室に担当者が入ってきて、その瞬間ヴァージンは首をガックリと垂れた。
受ける気をなくした講義の間も、懸命に取り組まなければならない午後のトレーニングも、この日は全く身に入らない。珍しく5000mで15分を切ることができず、マゼラウスに軽く心配されながらアカデミーを後にした。
「これでやっと見れる……」
ヴァージンは部屋に戻って、今や3人のライバルが見つめているベッドの上に座り込んだ。そして、グラティシモから渡された「ワールド・ウィメンズ・アスリート」を取り出し、今度は恐る恐るページを開いた。どこにヴァージンの写真が載っているか、探さなくても分かっている。はずだった。
だが、バルーナのグラビアの裏側のページに来ても、ヴァージンは自分自身の姿を一目で判別することができなかった。
(もしかして、この前追い抜けなかったウォーレットさんのことを言ってただけなのかも知れない……。すぐ後ろに私がいたわけだし……)
ヴァージンは、少しだけ雑誌を目に近づけて、今度は左上から右下までゆっくりと読み進めた。すると、最も目につかなそうな右下に、4分の1ページぐらいの写真が載っており、それに「ヴァージン・グランフィールド」と書かれてあった。
その「ヴァージン・グランフィールド」というアスリートは、サウザンドシティのスタジアムの中でガックリと首を垂れ、ほとんど顔の表情が見えなかった。あと一歩で表彰台を逃したことに落胆し、表彰台に首を振っていた時に撮られていたのだった。
(これが……私……。あんまりじゃない!)
ヴァージンは、そのページを開いたまま雑誌を強く握りしめ、天高くそれを持ち上げ、力づくで地面に叩き付けようとした。だが、すぐに首を横に振り、再び雑誌に目をやった。
(こんな自分を受け入れられない私は、いつまで経っても成長しない……)
ここで壊れてしまえば、またマゼラウスに殴られる直前のヴァージンに逆戻りしてしまう。そう誓ったヴァージンは、再び雑誌に映った自らの姿を見つめた。
その写真には、横にこう文章が添えられていた。
――サウザンドシティ大会4位。最後までメドゥを苦しめる力強い走りを見せた。
そのパワー溢れる走りを維持できれば、来季は表彰台間違いなしと、多くの者が口にする。――
「うそ……!」
落ち込んだ表情を見せる雑誌の中のヴァージンの説明としては適当ではない、あまりにもスケールの大きい評価がそこにはあった。ヴァージンは、書かれてあった文章をもう一度指先で追いながら、目に涙を浮かべた。
(ここで私が立ち止ってしまうわけにはいかない……。世界は、私の活躍に期待しているのかも知れない)
ヴァージンは、手にグッと力を入れて雑誌を閉じた。出せる力はこの1年で飛躍的に高まってきているものの、目の前の壁に貼ったトップアスリートを未だに破っていない、一人の少女の心は、いま激しく燃え上がった。
「1月ウッドランド室内、2月アムスブルグ室内、5月ネルス。まずはここまで大会を入れておいた。そして、8月の世界競技会はそこまでの様子次第で決める」
「はいっ」
翌日、ヴァージンはマゼラウスに会うなり、そう告げられた。ヴァージンは、これまで何度もそうしてきたように、新しい大会の都市が伝えられるたびに大きくうなずいた。
「君は、本番を早めに設定した方が、モチベーションが上がるからな」
「はい、一つ一つの大会に、ピークを持っていけるよう……、そしてもう大会の後に後悔しないように、します!」
「よかろう!」
ヴァージンは、朱色のトレーニングウェアに身を包み、セントリック・アカデミーのトラックへと力強く駆けていった。