第75話 記録に立ち向かうための力(6)
自らの走りに完全に集中していたヴァージンは、トップスピードから一気にクールダウンに入っても、周りの空気を感じることすらできなかった。最後の力を振り絞って駆け抜けた「最高の」女子5000mの結果でさえも、彼女はその歓声から察することができないほどだった。
ヴァージンは、息を上げながら記録計に振り返った。
13分48秒26 WR
「うわああああああーーーーっ!」
ヴァージンは、久しぶりにトラックの上で力強く叫んだ。その声を聞いたスタンドから、これまで以上の声援が彼女に送られる。その時になってやっと、スタジアム全体で「世界記録に打ち勝った」一人のアスリートに喜びの声を上げていたことに気が付いた。
クールダウンすることも忘れかけるほど、ヴァージンは両手の拳を力強く握りしめ、自らの気持ちを表現した。それから記録計に手を掛け、カメラに顔を向けた。
(これが私の、女子5000mの新しい記録……。トレーニングでは何度も破っていた、あの「壁」にもやっと勝てたし……、何と言っても今まで私が出した最高のタイムで走れた……!)
ヴァージンがその場所に立つのを狙っていたように、複数のメディアが記録計に手を掛けながらVの字を見せる彼女をカメラに撮っていた。その映像が、すぐに大型ビジョンにも映し出され、その姿にも歓声が上がった。
(何だろう……。今日の走りに、これほどまで自信があったのに……、タイムだけ信じられない……。途中から、何秒でゴールできるかも全く意識しなくなったし……、完全に自分の走りに集中していた……)
その時、ヴァージンの目に見慣れた茶髪が飛び込んできた。プロメイヤだ。彼女は、すぐにヴァージンの肩を抱き、二度、三度とその肩を軽く叩いた後に小さな声でヴァージンに告げた。
「グランフィールド……、おめでとう。こんなレースで一緒に走れるなんて思わなかった」
「ありがとうございます。プロメイヤさんも……、今日だって強かったです。いろいろなライバルの強い走りがあるからこそ、私がここまで強くなったと思っています……」
「本当にそうね……。あなただけは、このままウィンスターに屈するなんて、私は思わなかった……。世界記録を出したときの私に対してもそうだったように、より速くなってライバルの前に戻ってくる。その力を見せつける。ヴァージン・グランフィールドが本当の意味で女王と言える、何よりの証拠よ」
(プロメイヤさんまで……、私を女王だと認めている……)
ヴァージンは大きくうなずいて、今度はプロメイヤの肩を二度、三度叩いた。その手は、プロメイヤがより速くなって自らの前に戻ってくることを信じる、温もりに他ならなかった。
その後、プレスルームに通されたヴァージンは、集まったメディアの数に面食らった。「14分の壁」を破ったときは、停電で地元メディアでさえも伝えられなかっただけに、ここまで多くの数のカメラや記者を相手にすることは、初めて世界記録を出した時やオリンピックで優勝した時に匹敵するほどだった。
グローバルキャスの腕章をつけたインタビュアーが演台の前に立つと、ざわついていたメディアが一斉に静まり返った。ヴァージンは席に座ったまま、どのような質問が繰り出されるか待つしかなかった。
「ヴァージン・グランフィールド選手、43回目の世界記録更新、おめでとうございます」
「ありがとうございます。……私、やっと壁を破れました」
「壁」という言葉がヴァージンの口から飛び出した時、多くの記者たちが唸った。インタビュアーが次の質問を言いかけようとしたが、その唸り声を聞いて「失礼」と言い、再び尋ねた。
「いま、グランフィールド選手から『壁』という言葉が出てきました。最初の世界記録を見てから15年、私たちは、グランフィールド選手に『壁』という言葉はないのではないか、という幻想を抱き続けてきました。グランフィールド選手にとって、『壁』とはどういう意味だと思っていますか」
「そうですね……」
ヴァージンは、これまでなかなか超えられなかった記録をいくつか思い出した。それはどれも、ヴァージン自身が「破りたい」と強く思い続けてきた、強い「相手」だった。
「短い言葉で言うと、壁は超えるためにあるものだ、と思います。その中で、14分だったり、今回の13分50秒だったりといった……、きりのいい数字は少しだけ意識してしまいますが、普段と何も変わりません。ですが、そういう時に限って足踏みしてしまうのは、何かの偶然としか思えません」
(記録を達成してなかったら、こんな言葉は言えないか……)
ヴァージンは、心の中で笑った。すると、記者の何人も彼女が心で思っていたように笑った。その笑い声を待って、インタビュアーは次の質問を彼女に投げかけた。
「いま、新しい強敵、イザベラ・ウィンスター選手が、女子5000mでもほぼ負けなしの存在になっています。そんなウィンスター選手も、超えるために存在するライバルと言っていいのでしょうか」
「そうですね。ウィンスターさんから、尊敬しているって言葉をよく言われますが、実力は私とほとんど変わりません。世界記録の次に、その日その日で超えていかなければならない相手だと思います」
「自己ベストでは、これで2秒以上も上回ることになったのに、ウィンスター選手を意識するのですね」
「意識はします。ただ、それは今日走ったプロメイヤさんとか……、他のライバルに対しても同じように思っています。私は、世界記録を更新し続けていますが、その記録を知っているからと言って、レースが楽に勝てると言ったら違います。世界記録だって、いつ、誰が破ってもおかしくない。だから、私だって世界記録に立ち向かうしかないですし、立ち向かう意味があると思うです」
再び、記者たちから大きな唸り声が上がる。その声が静まるのを待って、インタビュアーが最後の質問を彼女に投げかけた。
「それでは、最後にお尋ねします。ヴァージン・グランフィールド選手の代名詞と言うべき、世界記録。私たちは、どこまで更新できると信じていいですか」
(次の記録……、いや、そうじゃない……)
13分50秒という大きな「壁」を乗り越えたヴァージンにとって、次に意識しなければならないのは、数十分前に自らの脚で叩き出した13分48秒26という新たな世界記録しかなかった。だが、目の前にいる記者たちと、彼女の走りに声援を送るファンやアメジスタの人々は、そのような答えを待っていないのではないか、と彼女は考えてしまった。
そして、しばらく答えを考えた末、ヴァージンはマイクに向かってこう言い放った。
「私には、永遠に限界なんてないと思います。もし限界があるとしたら、それは私が、走ることへの情熱を失った時です。その時まで、私はきっと、世界記録をいくつも更新し続けるはずです。そう信じます」
次の瞬間、いくつもの拍手が会見場に沸き起こった。その拍手を耳にするうちに、ヴァージンの目にいくつもの涙が溜まっていった。彼女が会見で発した言葉は、どれも熱がこもっていただけに、彼女の頬を流れていく涙の帯もまた、スタジアムの興奮に似た熱を解き放っていた。
(私、会見になるとレースと同じように本気になってしまう……)
会見場からロッカールームに戻り、ようやくレーシングウェアを脱いだヴァージンは、会見で言い放った言葉を何度も思い返していた。何度も跳ね返された壁を破った彼女に、限界という言葉はない。多くの人々が待つ次の世界記録に向けて走り続ける。そういった決意をマイクに向かって言うつもりだったのに、トラックに立った時と同じ感覚で話してしまい、強いメッセージを無意識に出すのは彼女の悪い癖でもあった。
(でも、それが私らしいって言ってくれるファンもいるし、そんな言葉を言えるからこそ強いって言ってくれるファンもいる)
「夢語りの広場」から、事あるごとに告げたヴァージンの信念は、この日もまた増えていく。それはまた、彼女の新たな走りを生み出し、立ち向かうための力になっていくのだった。
(明日から、次の世界記録との戦いだ……)
ヴァージンは、普段と同じようにバッグを肩にかけ、ロッカールームから1歩、2歩と出た。
「……うっ!」
突然の激痛だった。世界競技会の当日以来、怖いくらいに発症しなかったジャンパー膝の痛みが、ヴァージンが気を抜いた瞬間に襲い掛かった。
「……った!」
ロッカールームの出口で、崩れるように倒れたヴァージンは両手で左膝を押さえるも、膨れ上がった痛みは彼女の手ではどうすることもできなかった。
(やっぱり、68秒を切るラップを出し続けたのが、今になって膝への負担に変わっていったのか……、やっぱり無意識のうちに本気で走る回数を増やし過ぎたからか……)
ヴァージンは、大会に出場していた女子選手に抱えられ医務室に連れられ、そのままファーシティの総合病院に搬送された。
世界記録に立ち向かい続け、この日も壁を打ち破った女王ヴァージンは、もはやボロボロの体だった。
結果として、これが彼女の手にした最後の世界記録となるのだった。