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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
届け 神の領域に
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第75話 記録に立ち向かうための力(5)

 11月としてはやや気温が高めのオメガ・ファーシティの空は、青く澄んでいた。普段と同じように、本番の4時間前にスタジアムに姿を見せたヴァージンも、かつてないほど自信に満ちた気持ちで選手受付へと向かった。

(今日はウィンスターさんが5000mに出ていない……。世界競技会が終わった後も、月に2回くらいはレースに出ているから、今日はウィンスターさんと戦えると思ったのに……)

 1500mの名簿も横目で見たが、彼女の新たな宿敵であるウィンスターの名前はどこにもなかった。その代わり、彼女はプロメイヤの名前を出場名簿の一番下に見た。ヴァージンのトレーニングタイムが好調だということを知って、慌ててエントリーしたようにしか思えない場所だった。

(プロメイヤさんだって強敵だし……、強いライバルの存在は、私が世界記録を破るための力になる!)

 ヴァージンがロッカールームで着替えを済ませ、それからサブトラックに向かうと、既にプロメイヤが軽くストレッチをしていた。プロメイヤはヴァージンの姿を一度見て、再び目を反らした。

(プロメイヤさんも、本気だ……。ウィンスターさんに追いつけなかった悔しさが、はっきりと見える)

 ウィンスターがプロメイヤに「見下す」ような態度を取ったかは、まだ分からない。だが、レースでつけられてしまった「格」を意識していることは間違いなかった。それ故、そのウィンスターから「女王」と呼ばれ続けているヴァージンをも強く意識していることもまた、自然だった。

(私は、今日も最後に世界記録と戦う。プロメイヤさんをどこで抜けるか、そこで壁を破れるかが決まるような気がする……。だからこそ、プロメイヤさんとだって、私は本気で勝負したい)

 早くもレースの展開を組み立てたヴァージンは、その後もプロメイヤと一切目を合わせることなく、最終調整に入った。彼女が少し走り出すだけで、レースに対する自信が徐々に高まっていくのが分かった。


 ヴァージンがスタートラインに向かう時、スタジアムには多くのファンからプラカードが掲げられた。一度ウィンスターに敗れたとは言え、そこに集う多くが、ヴァージンが5000mの女王であること、そして次の世界記録を出すことを疑っていない様子だった。

(「Go!! WORLD RECORD QUEEN!!」の文字が、今日はいつになく輝いて見える……。今日の私に、不可能はない)

 ヴァージンの隣でスタートを待つプロメイヤが、ヴァージンを細い目で見つめる。勝負に挑むその表情を受けて、ヴァージンもまたやや目を細めながらプロメイヤと、その先に待つ新たな記録を見つめた。

「On Your Marks……」

 スターターの低い声がヴァージンの耳元に入り、トラックに立つ12人の選手が一斉にスタートラインに立つ。その時、ヴァージンは普段以上に気持ちを落ち着かせていた。

(大丈夫。今日の私は、何も問題なく戦えるから……!)

 勝負の号砲が、ファーシティの空に鳴り響いた。ヴァージンの足がいち早くラップ68秒まで加速すると、その後ろにぴったりと付いたプロメイヤが、ヴァージンのペースが落ち着くのを見計らってラップ67.8秒まで上げて、最初の400mを駆け抜けようとするときに横からあっさりと追い抜いていく。

(ここまでは、私とプロメイヤさんにとっていつもと変わらない展開。問題は、ラップ68秒からどの程度上回って、最後の1000mの勝負につなげられるか……)

 ここ1ヵ月半ほどのトレーニングで出せているタイムを考えれば、プロメイヤが「かつての」ヴァージンを意識した走りを見せる限り、ラスト1周までプロメイヤを追い抜けないことはなさそうだ。

(このところの調子を考えれば、少しペースを上げただけでプロメイヤさんは私の敵じゃなくなる……。でも、プロメイヤさんだってそんなあっさり引き下がるようなライバルじゃない……)

 2周、3周と周回を重ねるにつれて、少しずつプロメイヤとの差が広がっていく。それでも、ヴァージンは意識的にペースを上げず、ラップ68秒を保つ。ここ最近は、意識しなくても少しずつペースが上がってくるだけあって、逆にプロメイヤとの差を考えることなくペースアップができる。それは、彼女にとって大きな武器だった。

(プロメイヤさんは、まだラップ67.8秒か、それをやや上回るペースで走っている……。そこまで速くない)

 そして、2000mを過ぎる時に、自らのタイムを体で感じた。5分39秒から40秒に差し掛かるところだ。同時に、5周目はほんのわずかにペースを上げていることを、自らの体で意識する。

(無意識に、世界記録に向かってペースを上げている……。体は全く疲れていないし、ラスト1000mを本気で戦える力は、まだ残っている……!)

 2000mを過ぎても、プロメイヤとの差は徐々に開いているものの、最初の3周と比べればほとんど離されていないようにヴァージンは感じた。それは、ヴァージンがラップ68秒よりも少し速いペースでトラックを駆けているという何よりの証拠だった。

(プロメイヤさんが勝負を意識し始めるとき。それが、私が動き出すタイミングになる)

 ウィンスターの前では、ウィンスターに食らいつくことしか考えていないように見えたプロメイヤは、この日は女子5000mの世界に降り立った頃のように、ヴァージンを意識したペースで攻めている。逆に言えば、プロメイヤがその腕を大きく振るときは、ヴァージンと同じようにスパートを見せる瞬間だった。後ろでそのタイミングを待つヴァージンからは、ものすごく分かりやすいタイミングと言っていい。

(どこで動く……、どこから動く、プロメイヤさん。私は、どこで動き出したとしても、今は間違いなく勝てる)

 トラックを駆け抜けるヴァージンは、プロメイヤの後ろ姿を見るだけで自信すら感じていた。それは、形の上ではプロメイヤに奪われたとは言え、ヴァージンの見せる「女王」の風格に他ならなかった。


(そろそろ、ラスト1000mが迫ってくる……!)

 10分10秒をほんのわずかに過ぎるタイムで3600mを通過したヴァージンは、ここでプロメイヤの腕をじっと見つめた。最初のターゲットを意識した「フィールドファルコン」も、ヴァージンのスピードアップを待っているかのように、強い力を彼女に送っている。そして、彼女のペースは体感的にラップ67.8秒ほどと、プロメイヤと全く変わらなくなっていた。

 そして、ヴァージンが思っていた通り、4000m手前の直線に入った瞬間、プロメイヤがその腕を大きく振った。

(プロメイヤさんが、ペースを上げる……!)

 ヴァージンがスパートの最初の200mで見せるラップ65秒のペースで、プロメイヤがラスト1000mのラインに向かってスパートを見せ始めた。それを見た瞬間、ヴァージンも右足で力強くトラックを蹴り上げ、ラップ65秒のペースまで駆け上がった。二人の差は、わずか10mしかない。

(本当の勝負が始まった……。ここまで、かなり速いペースで走れているから、世界記録とも十分戦える!)

 ここ3回、少しずつ遅くなっていく記録が幻であるかのように、ヴァージンの脚が一人の強敵と、なかなか破れない「壁」に立ち向かっていく。4200mでプロメイヤがラップ62秒から63秒ほどのペースにギアチェンジすると、ヴァージンはその瞬間からラップ62秒のストライドに切り替えた。

(よし、プロメイヤさんの背中が少しずつ大きくなってきた……!最後の1周を待たずに、自分との勝負に切り替えられるはず……!)

 ラスト1周が迫る直線に入ったところで、プロメイヤが周回遅れの選手を一人かわすと、ヴァージンも続けてその選手をかわす。距離的にはロスになるその瞬間さえ、ヴァージンのスピードは全く落ちなかった。逆に、プロメイヤは次に出すべきスピードを考えているのか、無意識のうちにペースを落としていた。

(プロメイヤさんとは、ラスト1周では勝負しない……。本当に立ち向かう相手は……)

 ヴァージンは、直線の中間地点であっさりとプロメイヤの横に立った。一瞬、プロメイヤの腕が大きく振られたような風をヴァージンは感じたものの、プロメイヤがペースを取り戻す前に、ヴァージンはその前に出た。

 そして、ラスト1周を高らかに告げる鐘を、彼女は久しぶりにその場で聞いた。

(私は……、世界記録と戦うアスリート。本気で立ち向かえば、きっと手が届く……!)

 ラップ55秒のトップスピードまで駆け上がるとき、ヴァージンの脳裏に、2ヵ月前にプールサイドで見たセイルボートの表情が思い浮かんだ。どんなに落ち込んでいても、前に進むことを意識し続けてきた彼女の姿を、彼の「強い」表情が教えてくれたことで、世界にその名と記録を輝かせるアスリート、ヴァージン・グランフィールドがさらに前に進んでいく。そして、両足に携える「フィールドファルコン」の「翼」が、トラックを全速力で羽ばたいていく。

(スピードを感じる……。私の出せる限りの、本気のスピードを……!)

 後ろから食らいつこうとしたプロメイヤなど全く気にせず、ヴァージンはまだ見ぬ記録に立ち向かい続けた。それは、女子長距離界で誰よりも世界記録の意味と重みと歓びを知る、「女王」の本気に他ならなかった。


――Go!! WORLD RECORD QUEEN!!


(今日こそ、私はあの壁を破る!)

 全くスピードを緩めることなく、ヴァージンの体が運命のラインを駆け抜けた。

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