第75話 記録に立ち向かうための力(4)
「53秒62!」
ヴァージンの戦う世界と比べれば、はるかに短い時間を刻んだストップウォッチの数字を、彼女はプールから上がってきたセイルボートに告げた。セイルボートは少しだけ首を横に振って、耳に入った水を落とした。
「まずまずの記録ですね……。本気で挑んだ私にしては……」
セイルボートが、ヴァージンの持っていたストップウォッチに目をやり、再び首を小さく横に振る。彼の満足する記録がどの程度か分からないヴァージンは、その言葉に驚きの表情を見せることなく、肩をすぼめようとしているセイルボートに言葉を掛けた。
「セイルボートさんが本気で戦う姿、私、ものすごく印象的でした」
「本当にそうですか……?自己ベストから1秒以上も遅くなっているのに……」
セイルボートの言葉の中で「1秒」という言葉が、プールサイドでヴァージンの耳に重々しく響き渡る。ヴァージンですら14分近くのタイムの中での1秒は遠い時間のように感じる以上、それよりもはるかに短いタイムで左右される1秒はそのいくらも重い差となってくるのは、彼女は言われなくても分かっていた。
その代わりに、ヴァージンはセイルボートのこう告げた。
「私だって、自己ベストから遠い記録を出してしまった時は、とても悔しくなります。だから、その気持ちは分かります。でも……、それはより強くなるためのスタートラインです」
(あ……、なんか、自分が自分に語り掛けているような気がする……。なんだろう……、この胸の鼓動……)
ヴァージンの脳裏で、セイルボートが次々と水面を切り開いていく音がさらに高まっていくように思えた。それは、世界記録に打ち勝てなくなり出した彼女の脚を再び前に突き動かす鼓動だった。
(走りたくなってきた……。たとえ記録が伸び悩んでいても、アスリートってこんなに強くなれるんだ……)
ヴァージンがわずかな時間で、自ら言い放った言葉に戸惑っているうちに、セイルボートが口を開いた。
「そうですよね……。やっぱり、出してしまった記録は次へのスタートラインだし、そこから強くなっていけばいいですよね……」
「本当に、その気持ちが大事だと思います。ずっと後ろ向きになっていたら、記録は後ろにしか向かいません」
「それ言えますね……。オリンピックに行けずに落ち込んでいた時も、そうでしたし……。でも、その気持ちも分かっているからこそ、グランフィールド選手は私よりもずっとずっと強いんだな、と感じます」
「ありがとうございます……」
プールから上がった直後のような、がっかりしたような表情は、セイルボートの顔からすっかり消えていた。その表情を見たヴァージンも、さらに気持ちが高まってくるのだった。
(全然違う種目なのに……、タイムという言葉で、同じアメジスタの人とこんなに気持ちを伝えられるなんて……、昔じゃ考えられなかった……。本当に、アメジスタにセイルボートさんがいて……、心が支えられる感じ)
気が付くと、セイルボートは「もう一度記録と戦う」という言葉を残して、再びスタート台に向かおうとしていた。ヴァージンはそっとうなずいて、再び電子ピストルとストップウォッチを手に取った。
セイルボートのタイムは、1回目をほんの少しだけ上回っていた。
(セイルボートさんとの1時間、ものすごく私の力になった……。なんかセイルボートさんが、見えなくなっていた道を私に教えてくれたような気がする……)
ヴァージンは、実家に向かうタクシーの中で、何度もセイルボートの泳ぐ姿を思い出していた。ストロークの叩きつける音は時間が経つにつれてヴァージンの脳裏から消えつつあるが、その代わりに、セイルボートの本気の姿に心の中から語り掛けた彼女の言葉が、時間が経つにつれて彼女の脳裏に浮かび上がってくるのだった。
(出してしまった記録に対して、後ろ向きになってはいけない……。いや、後ろ向きになりたい気持ちは分かるけど、そのままズルズル行ってしまったら、いよいよ私は世界記録が見えなくなってしまう)
グリンシュタインが近づいてくるにつれて、再び車窓に400mトラックが映った。自らの戦うべき場所をその目に見た彼女は、右手の拳を力強く握りしめた。
その後、ヴァージンは実家で三日ほど過ごした後オメガに戻り、家に戻り次第メドゥにトレーニングを再開すると告げた。メドゥから「気が変わった」理由は特に尋ねられなかったが、何かを取り戻したようなヴァージンの声を聞いただけで、メドゥが安心したようなトーンの声に変わったことは、電話口ですぐ分かった。
(もう一度、ギアを上げたい。世界記録と、ウィンスターさんに勝つための力を、アメジスタで私は見た!)
翌日の自主トレから、ヴァージンはトレーニングセンターのトラックで早速13分50秒52と、世界競技会を上回るタイムを出し、さらに翌日にはマゼラウスの前で13分50秒16までタイムを上げるのだった。
だが、マゼラウスが大声を上げて喜んだのは、それから1週間も経たない日だった。ヴァージンは、5000mタイムトライアルのラスト1000mに入る直前で、いつにないタイムを予感していた。
(11分17秒くらい……。ラップ68秒を意識しているのに、少しずつ速くなっているような気がする……)
今や、彼女のライバルは序盤からラップ67秒台で走り続けるため、本番では目標より少しだけ速いタイムで4000mを通過することが何度かあった。だが、ここは他に誰も走っていない、一人きりのトラックだ。それにも関わらず、ヴァージンは本番と同じように少しだけペースを上げていたのだった。
(これは、もしかしたら記録に手が届くかもしれない……!)
トレーニングでは二度クリアしている「13分50秒の壁」。4000mを普段より早く通過した彼女には、その段階で破るという確信しかなかった。
ラップ65秒、それからラップ62秒ほどと、ヴァージンの足が思い通りのペースでトラックを駆け抜けていく。ゴール脇でストップウォッチを持っているマゼラウスもまた「いいぞ!いいぞ!」と、普段以上に力強い言葉で、世界記録と戦う一人のアスリートを支えた。
(今日は、絶対に記録を破る……!破ってみせる……!)
ラスト1周に入る直前、彼女の脳裏に一瞬だけ、セイルボートが水中で見せる本気の表情が浮かんだ。普段よりも速いペースで挑み続けてきた彼女だったが、ここからペースが伸び悩むことなど、この日は気にしなかった。
ラップ55秒の風を感じ続けたヴァージンは、マゼラウスの待つゴールラインを真っ先に駆け抜けた。次の瞬間、彼女の耳に「よしっ!」と大きく叫ぶ声がはっきりと聞こえた。
「コーチ……、もしかして私、出せましたか……!」
「お前も分かってるようだな……。まずは、私の手元を見ろ」
ヴァージンは、呼吸を整えながらマゼラウスの横に立ち、ストップウォッチに刻まれた数字を見た。
(13分48秒27……!)
ヴァージンは、声に出すことなくその数字を二度、三度と読み上げた。それから、力強くうなずいた。
「48秒って……、私、自分からすごいって言ってしまいそうです……!」
誰も競う相手がおらず、追い抜く時のタイムロスがない状況を考えても、このタイムがヴァージンにとっては速すぎるレベルだった。彼女は、その出したタイムだけで体から疲れが一気に吹き飛んでいくように思えた。
「すごいというレベルじゃない。お前にとって最高って言っていいくらいのタイムだし、久しぶりにお前から『アスリートに限界なんてない』という言葉を感じているよ」
「ありがとうございます。私、この1週間ぐらい……、ずっと前向きになれているような気がするので……、本番までこの走りができれば、いよいよあの記録が現実になります」
「……だな。本番で、お前が大台を破ること、誰もが待っているからな」
そう言って、マゼラウスはヴァージンの肩を軽く叩いた。それさえも、彼女を前に進むための大きな力であるように、彼女は感じた。
その後もヴァージンは、ファーシティ選手権までの間に13分48秒台をさらに1回、49秒台を2回と、現在の彼女の世界記録が13分50秒01だとはとても思えないようなタイムを叩き出した。停滞していたタイムが、一度の敗北と、忘れかけていた心を取り戻したことで、再び動き出した。
メドゥのアドバイスもあり、タイムトライアルを行わなかった日もあるものの、5000mを本気で走るときは、それまでの走りとは全く違う雰囲気を、彼女は常に感じ続けていたのだった。
(私は、間違いなく世界記録を出す。私が勝負するべき相手は、壁の先に待つ、新たなワールドレコード……)
ヴァージンの心は、既にファーシティ選手権で出すはずの、過去最高のタイムに向けられていた。普段以上に、レース当日が待ち遠しかったほどだ。