第75話 記録に立ち向かうための力(3)
ヴァージンの目に飛び込んできたのは、国際大会に使おうと思えば使えそうな、大きな室内プールだった。中等学校によくあるような25mプールではなく、50mプールが8レーンはありそうなサイズで、天井に向かって伸びる大きなガラスが、真新しいプールであることを見る者に伝えていた。
この日はセイルボートの貸し切りだったため「一般利用お断り」の札が立っていたが、「セイルボートの紹介で」と言うまでもなく、ヴァージンは顔パスで中に入ることができた。彼女自身は泳がないものの、室内プールの温度を考えて、オメガからここまで着てきたパーカーをロッカールームに入れてから、プールに向かった。
「グランフィールド選手!」
入口の側でバタフライを泳ぎ終え、ちょうどプールから顔を出したセイルボートが、大きく手を振る。ヴァージンが、すぐにその声に気付くと、セイルボートは素早くプールから上がり、プールサイドで彼女を待った。
(水泳選手なんて、初めて間近で見るような気がする……)
それは、プロトエインオリンピックの出場が決まった2年前に、彼女がニュースで見たセイルボートとは全く雰囲気が異なり、とがった顔さえ優しく見える、とても28歳とは思えない若々しい青年だった。セイルボートがキャップとグラスを取ると、その甘いマスクはさらに輝きを増す。
(水に外からの光が当たると、セイルボートさんが光を放っているように見える……)
ヴァージンはセイルボートの目の前まで近づき、軽く頭を下げた。
「セイルボートさん、初めまして。私、今までセイルボートさんを見たことがなかったから……、こうやってプールで見ると、ものすごく輝いているように見えます」
「私もです。テレビの中の世界だったグランフィールド選手が、本当に会ってみると、テレビ以上に強そうです」
ヴァージンの手とセイルボートの手が、しっかりと握りしめられる。プールの雫がヴァージンの手に伝わるが、その雫からはセイルボートの本気さえ伝わってくるのだった。
(私だって、トレーニングで本気を感じると言われたことがあるけど、ここでは私の方がそれを感じる……。いつだって、アスリートの戦う姿に本気を感じるという気持ちは、同じなのかも知れない)
ヴァージンは大きくうなずいてからセイルボートの手を離し、そっと話し掛けた。
「強そうって言って頂いて、ありがとうございます。それにしてもセイルボートさん、私が入ってきた時、最後のストロークがすごく激しかったです」
「グランフィールド選手も、私の泳ぎを見てそう思うんですね……。貸し切りじゃないときに周りから言われることがありますが、同じアスリートから言われるとは思っていませんでした」
「止まっている姿以上に、パフォーマンスを見てその選手の強さを感じますから。私だって、よく走る姿がカッコいいとか、強さを感じるとか、応援に来てくれたファンから言われますもの」
「やっぱり、そうだよね……。でも私は……、グランフィールド選手は走る姿が強いけれど、それ以上に強いと思うところがあって……、あのメールはそれを伝えようとしたのです」
そう言って、セイルボートは茶髪に手を当てて、髪に残った水をそっと床に落とす。
「それ以上の強さ……」
「そうです。あのメールではうまく伝えられなかったのですが、ヤグ熱が収まった頃に、文化省のスポーツ振興課の人が、何もかもの気力を失っていた私に言ってくれたんです……。グランフィールド選手だって、実力はあるのに何度もどん底を経験して、その度に足で、スピードで跳ね返してきたんだと……」
(どん底……)
ヴァージンは、これまで経験してきたショックをわずかな時間で思い返した。たしかに、今はジャンパー膝というケガを引き摺りながら世界記録と戦っているものの、ヴァージンは事あるごとにショックを受けるような出来事と接し、そこからまた立ち上がっていくのだった。彼女の17年に及ぶアスリート生活の大半が、それの繰り返しだった。
「セイルボートさん……。きっとそれは、だからこそやらなきゃ、って気持ちが強くなったのかも知れません。こんな状態のアメジスタにせめてものエールを送りたいとか……。応援してくれるファンだって、こんな状態で走る私を見て『頑張れ、アメジスタ!』って力いっぱい言ってくれて、私がそこからパワーをもらうのです」
「なるほど……。ちょうどグローバルキャスでグランフィールド選手のレースを見る時の、私の声に似てますね」
「よく言われます……。最近は、レースの後にアメジスタからのメールも来て、同じような声援をもらいます」
二人は、同時にうなずいた。それからセイルボートが再び話し掛ける。
「そんな、いつだって諦めないところが、グランフィールド選手の本当の強さだと思うのです。世界記録と戦い、世界の強すぎる相手と戦い、襲い掛かる数多くのショックとも戦わなきゃいけない。それに打ち勝つ強いメンタルを持った、グランフィールド選手……、本当に強いです」
「本当に、ありがとうございます……。その言葉、久しぶりに負けた、今の私にものすごく響いてきます……。その言葉をはっきりと言えるセイルボートさんのほうが、強いです」
そう言いながら、ヴァージンは何度かセイルボートにうなずいていた。プールサイドにこぼれた水に反射するように、彼女の行く先をほんの少しだけ照らしてくれる光が二人を包み込んでいた。
「その言葉、グランフィールド選手からもらったパワーに変えますよ。アメジスタが生んだ、世界最高のアスリートからもらった、勇気ある言葉を……」
そう言うと、セイルボートはキャップを被り、ヴァージンに軽く微笑みながらスタート台に上がった。
「私に、泳ぐ姿を見せてくれるのですね……」
「勿論です。グランフィールド選手のいる前で、私の本気を見てもらいたくて、今日まで待っていたのです。私がどれだけの本気を見せられるか、この目で見ててください。100mバタフライです」
「分かりました」
ヴァージンは、セイルボートに短く返した後、はっと気付いて彼に話しかける。
「もし何でしたら、私がストップウォッチやりましょうか」
「あ、たしかに……!」
プールサイドには、ストップウォッチと電子ピストルが乗ったカートが置かれており、ヴァージンが数歩歩けば届く場所にそれがあった。コーチがおらず、誰もタイムを計ってくれる人がいないセイルボートにとって、それはまたとないチャンスだった。
ヴァージンは、右手の人差し指にストップウォッチのスタートボタンを乗せ、左手で電子ピストルを高く持ち上げた。そして、彼女が「当たり前のように」告げられる言葉を、セイルボートに聞こえるように言った。
「On Your Marks……」
「水泳だと、そこは違いますよ。Take Your Marks って……意味は一緒ですけどね」
「分かりました。Take Your Marks……」
その言葉を、ヴァージンがやや低い声で言った時、セイルボートの目線は50m先にあるプールの端をじっと見つめていた。それは、ちょうどヴァージンがスタートに挑むときに見せる目線だと、本人はすぐ分かった。
(彼だって……、おそらく再来年のオリンピックで世界と戦う……。あの目は、その時を夢見ている)
一呼吸置いて、ヴァージンは左手の電子ピストルを放つ。その瞬間、スタート台からセイルボートが勢いよく飛び込み、波しぶきと激しい音の中に消えていく。それから、時折腕を大きく水中から出したと思えば、それを水に強く叩きつける。スタートから離れるにつれ、いよいよヴァージンの目には時折浮き上がる背中が、腕を叩きつける時にはねる水に消えていくだけになった。
(陸上に比べて、水泳はどれだけのタイムが速い部類か分からないけど……、次々と叩きつけるストロークに、ものすごいパワーを感じる。走るときよりも、体が激しく動いているように見えるし……)
ヴァージンがそう感じているうちに、50mプールの端まで一気に突き抜けていったセイルボートが素早くターンをし、今度はヴァージンに向けて両腕を鋭く見せた。しぶきの中で時折見せる顔の表情さえ、ヴァージンの目からは本気を感じる。
(これは……、本当に強い……。水泳選手って、これほどまでに水中で強くなれるんだろう……。私の足がトラックを叩きつける以上のパワーを感じる……)
胸を打つような衝撃がヴァージンに襲い掛かり、彼女は瞬き一つできなくなるほどだった。
(私と同じアメジスタ人が、記録と戦っている……。そして、世界と戦っている……。なんて素晴らしいことなんだろう……)
ヴァージンは、思わず涙を流そうとしたが、ストップウォッチを持っている以上、その動きが止まるまでは涙を見せるわけにいかなかった。それどころか、繰り返されるストロークのリズムが、彼女の心に響きつづけているのだった。
そして、最後に大きなストロークを見せ、セイルボートは壁にタッチした。それと同時に、ヴァージンの手はストップウォッチを止めた。その手は、もはや震えていた。