第75話 記録に立ち向かうための力(1)
(休みます、と言ってはみたものの……)
アロンゾから自宅に戻ったヴァージンは、もう翌日の朝には普段通りトレーニングウェアをしまったクローゼットに向かい、ウェアに手を伸ばしたところで首を横に振るのだった。マゼラウスとメドゥに抱えられながらホテルに戻るほど、レース当日はジャンパー膝の痛みが激しくなったものの、オメガに戻ってくるときにはほとんど痛みを感じなくなった。トレーニングに行こうと思えば行ける状況ではあった。
(まだ目標を失っていない私は、できれば今すぐにでも走りたいのに……)
タクシーでの口論も含め、メドゥがヴァージンの体を心配していることは、本人にも分かっていた。無理をして記録を伸ばそうとしていることも分かっていた。
(本当に、少し休んだら、次の記録を出せるのかな……。でも、あの時はなんか、そういう気がしていた……)
自らの意思で「休む」と言った以上、気持ちに逆らってでも少し休むことしか、ヴァージンに選ぶ道はなかった。それはちょうど、スパートに入る直前に「フィールドファルコン」が激しい戦闘意欲を彼女の足に送り続けるような感触とも重なるのだった。
(できれば、1週間、2週間……。今年最後のファーシティ選手権から逆算すれば、1ヵ月もトレーニングしないなんて選択肢はない……。だから、ズルズル休むんじゃなくて、自分の記録になる休み方をしないといけない)
そう思いながら、ヴァージンは気持ちを落ち着かせようとパソコンに向かう。未読の応援メールが多数残っており、中でも3年ぶりの敗北を喫した瞬間より後に届いたメールには全く追いついていないのだった。
(私を応援してくれる多くのファンが、すぐに私を慰めてくれている……)
時間がある分、ヴァージンはメールの文面をじっくり読むことができた。「女王だって負ける時もある」とか、「次の世界記録は、その悔しさの先にあるから」とか、ヴァージンの心を優しく包むようなコメントが、次々とヴァージンの両目に映り、その度に彼女は軽くうなずくのだった。
やがて、最新のメール近くまでたどり着いたとき、彼女の手が止まった。
(ファスター・セイルボートさん……。たしか2年前のオリンピックに出られなかった、水泳選手……!)
差出人の名前と、アメジスタ語で書かれたタイトルを見て、ヴァージンは一瞬でその人物を頭に思い浮かべた。テレビのニュースで伝えた「二人目のアメジスタ代表」の映像が、彼女の脳裏で蘇る。
(彼がいま、アメジスタから私にメールを送っている……。なんだろう……、夢を見ているみたい)
2年前のアメジスタは限られた場所、限られた人間しかメールのやり取りができなかったものの、それから時間が経って、セイルボートまでメールでコメントを送ることができるようになったのだった。
ヴァージンは、パソコンの画面に向かって大きく息を吐き出した。それからゆっくりとメールを開いた。
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ヴァージン・グランフィールド選手へ
初めまして。私は、ファスター・セイルボートと言います。
本当だったら、2年前のプロトエインオリンピックで、グランフィールド選手と一緒にアメジスタの歴史を刻むはずだった。そう言えば、おそらく分かってもらえると思います。
さて、私は数日前の世界競技会をアメジスタの家で、グローバルキャスの中継を見ながら応援していました。やっと家でもテレビで応援できるようになって、私は声を大きくして、アメジスタを背負って走るグランフィールド選手を応援していました。グランフィールド選手が負けるなんて、本当に信じられなかったです。
おそらく、久しぶりに敗北の味を知って、ショックを受けているだろうと私は思います。そこで、私がどのようにしてショックから立ち直ったか、ちょっとメールが長くなりますが、伝えられたらと思います。
私は、2年前に「オリンピックに行けない」と告げられて、絶望のどん底にいました。勝負する場所もなくなり、1ヵ月くらいはプールすら見たくなくなりました。親も友人も、勤め先の同僚も、私に何か言葉を掛けてくれるものの、その一瞬に全てを賭けるアスリートの気持ちに立っていないと思ってしまう慰めがほとんどでした。
「次がある」という言葉を聞くと、「本当は次なんてないの分かってるのに!」と、私は拒絶反応すら起こしました。その気持ちは、何度も挫折を繰り返してきたグランフィールド選手にも分かると思うのです。それでも、ショックから逃げていたら、ショックという一番弱い相手に負けてしまったことになるのです。
なので「次がある」といった、夢のある言葉を信じること。それが、ショックから立ち直れる唯一の方法だと思います。私は、半年くらい経ってからそのことに気付いて、やっと本気で泳げるようになりました。
グランフィールド選手も、きっと「次は世界記録」と言われていると思いますが、メンタルだけは失わないでください。私にとって、アメジスタにとって、グランフィールド選手は最高の希望です。
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(なんだろう……。改めてセイルボートさんの言っていることに耳を傾けると、素直な私を見失っていることに気付いてしまう……)
記録が頭打ちになり、ついに連勝もストップし、その度に焦っていることに気付いたヴァージンは「その通り」と心の中で自らに言い聞かせ、改めてメールを最初からゆっくりと読み進めた。
(アメジスタのみんなは、今の私をきっと……、強く後押ししたいのかも知れない!)
ついにヴァージンは、パソコンの前から立ち上がった。そして、脳裏に自らの故郷を思い浮かべた。
(セイルボートさんが頑張っているのに……、私がたった一度の敗北で心が折れてはいけない……。いま、私はアメジスタから力をもらいたい気分……)
次の瞬間には、ヴァージンの決心はついた。アメジスタに行って、セイルボートに会うということを。
それから数分後に、ヴァージンはセイルボートに返信し、彼のトレーニングを見学してもいい日程を尋ねた。そこに合わせて、彼女は2年ぶりに帰郷することにしたのだった。程なくして、1週間後の木曜日の午後なら個人貸切になっているので大丈夫と返事が来て、その日程だけを見てヴァージンは早々に行きと帰りの飛行機の予約を取るのだった。
(気持ちが焦っているぶん、アメジスタに戻って力をもらった方がいい。アメジスタは、たった一つ、私が帰るべき国なのだから……)
――グリンシュタイン行き、ビジネスクラスのお客様、お待たせいたしました。
オメガセントラル国際空港の搭乗口は、ヴァージンの前に何十人も同じユニフォームの選手が並んでいた。数年前は土木業者ばかりがアメジスタ行きの飛行機に乗っていたものの、この日彼女の目の前にいたのは、明らかにバレーボールのオメガ代表の男子チームだった。
(アメジスタにバレーボールチームができたって、聞いたことない……。ということは、練習試合じゃない……)
少なくとも、サッカーなどのチームスポーツは、ヴァージンが世界と戦う以前からどの競技も世界最低レベルと称され、ついには練習試合すら拒否されるのがほとんどだった。それ故、アメジスタに向かう飛行機に、アスリートが集団で乗り込むことなど考えられなかった。
(じゃあ、いったい何をしにアメジスタに行くのだろう……)
だが、次の瞬間、ヴァージンの脳裏に一つのブログが思い浮かんだ。
――アメジスタはグリンシュタインから離れれば離れるほど、マウンテンバイクのトレーニングには最高だ。林業のために切り開いたと思われる山道を、マウンテンバイクで上り下りするとき、よその国では決して感じることのない心地よい風を受ける。何より、アメジスタの空気に人の手がほとんど入っておらず、人間が人間らしく、人間の本当の力を出せそうな予感さえ抱かせる。
――アメジスタは、あらゆるトレーニングをするのに、最適な場所なのだ。
(マウンテンバイクのトップアスリート、ヘンリオール・ホイールズさん……。アメジスタのことを書いたのは、まだ今年のはずなのに……)
あのブログで、多くの人がアメジスタでトレーニングをしたいと思ったのだろう。ヴァージンは、一人、また一人とボーディングブリッジに吸い込まれていくバレーボールチームの後ろ姿を見ながら、小さくうなずいた。
だが、彼女自身がチケットを搭乗口にかざそうとした瞬間、思わず息を飲んだ。
(でも……、自然の道を走れるマウンテンバイクはアメジスタの道でも問題ないけれど、バレーボールチームが合宿できるような場所も環境も、アメジスタにあるのだろうか……)
新たな発見が、新たな疑問を生んだ。ヴァージンは、アメジスタでその疑問に対する答えを見つけようと、心に誓った。