第74話 ウィンスターの魔力(7)
「大丈夫か、ヴァージン!」
ヴァージンは、左膝を押さえてからわずか数秒で、マゼラウスとメドゥに腕を支えられる。痛みこそ、ジャンパー膝を発症した時と比べればはるかに軽いものの、少なくともこの数ヵ月間はここまで痛むことがなかったため、二人とも心配そうな表情でヴァージンを見つめていた。
「えぇ……。なんとか……。少し動くと、また血管が悲鳴を上げそうだから……、少し休みたいです」
そうヴァージンが言うが早いか、メドゥは首を左右に動かし、近くのベンチを探す。だが、どのベンチも埋まっているようで、仕方なくヴァージンに告げた。
「このままタクシーで帰って、ホテルで痛みが引くのを待ったほうがいいのかも知れない」
「ヴァージンよ。私とメドゥの肩を持て。今は、地面に足を付けない方がいいからな」
マゼラウスの提案とともに、メドゥがヴァージンの左腕を、マゼラウスが右腕をそれぞれ肩に乗せて、ゆっくりと歩き出した。二人の肩を抱えられながら、ヴァージンは小声で「ありがとう」とだけ言った。
「タクシー乗り場は近いぞ。よし、もう少しだ、ほら」
ヴァージンがふと目を横にやると、メドゥの表情は辛そうだった。もとアスリートとは言え、ヴァージンと同じく足を中心に鍛えていることもあり、肩で重い体を支えるのは慣れていない様子だ。だが、それでもメドゥは、再び膝を痛めたヴァージンに「苦しい」という声を上げることなく、ゆっくりとその体を運んでいく。
ほどなくして、タクシーを捕まえた3人は、ヴァージンを真ん中、マゼラウスを奥にしてホテルまでのタクシーに乗り込んだ。そこでようやく、ヴァージンは一息ついて、二人に軽く頭を下げた。
「ありがとうございます……。久しぶりに負けたのに、コーチにもメドゥさんにも迷惑かけてしまって……」
すると、メドゥが首を左右に振りながら、ヴァージンに告げた。
「そんなことないわ。私は、代理人としてヴァージンを守らなきゃいけない立場だし……。それに、女子5000mが終わって客席を出る時、一人のファンが『またジャンパー膝を再発したんじゃねぇか』と吐き捨てるように言って……、なおさらヴァージンを守らなきゃ……って思ったの」
「そう言われてたのですか……。私は、まだ走りたいのに……」
そこまで言って、ヴァージンはメドゥの表情を伺った。彼女の表情は、決して穏やかではなかった。何かを言おうとして、必死にこらえているようにしか、ヴァージンには見えなかった。
その時、ヴァージンの背中を貫くような低い声が響いた。
「私は、ヴァージンに無理をさせ過ぎたのかも知れない……。お前が毎日タイムトライアルをするようになったと聞いて、止めなかったのも私の責任かも知れない」
「コーチ……。あれは、たぶんもう、毎日本気で走っても大丈夫だと思って……、やったことで……。そうでもしないと、50秒の壁を切れないと思ったから……」
その時だった。ついに、メドゥの低い声がヴァージンの溢れ出る言葉を止めた。
「ヴァージン!」
1秒もしないうちに、目線をマゼラウスかメドゥに移したヴァージンは、思わず肩をすぼめた。タクシーの席に座っているにもかかわらず、メドゥの息は少しずつ上がり始めていた。
「あまり無理しちゃいけないって言われてたのに……、ヴァージン、自分で自分の管理もできなくなってるの」
「自分の力を信じてたから、私は走ったんです」
「私、ずっと心配してるの!もう33歳になったヴァージンは、若さで何とかなる年齢じゃない!」
メドゥの目は、完全に吊り上がっていた。膝の痛みすら忘れて、ヴァージンはひたすらメドゥの目だけを見つめ続けた。
「ヴァージンの気持ちだって分かる。あれだけ強いライバルが現れたら、ヴァージンはいつも以上に頑張ってしまう。けれど……、無理はしちゃいけないと思う。体がダメになったら、走ることもできないわよ」
マゼラウスのため息が、張り詰めたタクシーを和ませるようにヴァージンの肩に吹きつける。
「メドゥの言う通りだ。本番に最高の力が出せるようにする方法は、何も無理なトレーニングだけじゃない。きついと思ったらやめろと、お前がケガした時から私は言ってきたが、いよいよ本格的に、回数を抑えたトレーニングを考えるしかなくなったようだ」
すると、今度はメドゥがマゼラウスの提案に身を乗り出した。
「あなたも、そこまで深刻に考えてない……。ヴァージンは、放っておくと常に本気で走っちゃうから問題だと、私は思ってる!本気で走らないトレーニングを増やしていいと思う……。それに、全力で走る回数を減らせば、ヴァージンのピークだって先延ばしできる!」
「……っ」
ヴァージンは、気が付くとメドゥを思い切り睨みつけていた。ちょうどその時、タクシーがホテルのエントランスに滑り込み、ゆっくりとそのドアが開いた。
「メドゥさん、私、そこまで言われたくない……。トレーニングまで手取り足取り管理されたくない!」
「ヴァージンが、自分を過信し過ぎているからでしょ!ちょっと、出なさい!」
メドゥがヴァージンの手を掴み、引っ張るようにしてタクシーの外に連れ出した。ヴァージンは膝の痛みを忘れるほど、メドゥだけに集中していた。
そして、エントランスの端までたどり着くと、メドゥがヴァージンを突き放して、2mほど離れて睨みつけた。
「私は、ヴァージンがトレーニングで無理してるって聞いて、さっきから心配で言ってるの。本気で走らない方が、選手生命を長く伸ばせるのは間違いないわよ」
メドゥの声は、ホテルのエントランスの壁に跳ね返って、幾重にもヴァージンの耳に聞こえてくる。一つ、二つとその声が響くとともに、ヴァージンは右手の拳を丸めていた。
「自分と戦えないトレーニングなんて、楽しくない!面白くない!走ってる意味がない!」
ヴァージンも息が上がっていることすら忘れ、彼女は苦し紛れの声でこう叫んだ。だが、メドゥはゆっくりとヴァージンに近づく。今にもその首筋を掴もうという手のしぐさだ。
「いい、ヴァージン。私とあなたは二人三脚よ。その意味、分かってる?こっちだって、仕事なのよ!」
だが、次の瞬間、二人の肩の間に硬い手が割り込み、力づくで二人を引き離した。
(コーチ……!)
「恥ずかしいだろ!お前たち!」
マゼラウスは、静まり返った空気だけを残して、後ろを振り返ることなくホテルの中に消えていった。何度もマゼラウスに叱られたヴァージンでさえ、あそこまで大きな声を上げるのを見たことは記憶になかった。
次の瞬間、ヴァージンが先に下を向いた。
「みんながみんな、気持ちまで焦っている……。コーチに言われるまで止められなかった、私が恥ずかしいです」
すると、メドゥは静かに首を横に振り、ヴァージンの肩に右手を乗せた。
「私も……、ヴァージンを守りたいという気持ちが先走ったのかも知れない……。自分の過去にも重なったから……、ついカッとなってしまった。悪いのは私よ」
メドゥがそうヴァージンに声を掛けると、ヴァージンは力なく首を縦に振った。
「メドゥさん……。今の私は、競技に集中できるような気持ちじゃないです……。今日破れなかった『50秒の壁』を、今年中に破りたいけど……、気持ちが落ち着くまで、休ませてください……」
「気持ちが落ち着くまで、か……。一応、今年最後のレースは申し込むけど、気持ちが落ち着かなかったら、大記録へのチャレンジ、来年にしたっていい。その時は私、ヴァージンのために全てを尽くすから」
メドゥが透き通った声を取り戻すと、ついにヴァージンは涙声になってメドゥの肩に飛び込んだ。
「メドゥさん……」
「どうしたの、ヴァージン」
ヴァージンは、メドゥの腕に涙をこぼしながら、一度だけメドゥを見上げた。それから、ゆっくり口を開いた。
「悔しい気持ちって、どうしてこんなに人を突き動かすのか……、なんか今日分かったような気がします」
「そうね……。最速女王、3年ぶりの敗北だものね……」
「そうです……。トレーニングに対してあんなこと言われて……、普段だったら素直に従ったような気がするんです。左膝に負担をかけたこと、あの時点で分かっていたのですから……」
「そうね……。でも、私も言葉が足りなかったと思う。いろいろな人を相手にしなきゃいけないのに、ヴァージンの気持ち一つ分かってあげられなかった……。私は、もしかしたら未熟な代理人なのかも知れない」
メドゥのその言葉に、ヴァージンはかすかに首を横に振った。
「懸命にトレーニングすれば、メドゥさんだって一流の代理人になれると思います……。努力すること、私以上に知ってますから……。何と言っても、私が今でも……尊敬できる人間ですから、メドゥさん!」
「ありがとう!」
その後ヴァージンは、メドゥの胸の中で懸命に泣いた。その時彼女は、本当の意味で悔し涙を流せたような気がした。