第74話 ウィンスターの魔力(6)
先頭を走るウィンスターと、2位のプロメイヤの差が少しずつ離れていく。その中で、3000mを8分29秒で通過したヴァージンは、ラップ68秒のペースからほんのわずかにペースを上げていた。彼女の足で「翼」を羽ばたかせる「フィールドファルコン」が、これまで見せたことのないほどに戦いたいという意思を伝えていた。
(今のところ、私とウィンスターさんの差は30mちょっと……。もしこのままラップ66.5秒のペースで走り続けるとしたら、残り1000mで50mの差を詰めなければいけない。今まで、この差を跳ね返したことは何度もあるけど、ウィンスターさんのスパート次第で全て決まる……)
最後に待ち受けるはずの直接対決の瞬間まで、あまりウィンスターのことを意識しないつもりだったヴァージンの目に、背の高いそのライバルが否応なしに映り込む。そして、ウィンスターもヴァージンを意識しないという雰囲気を見せながらも、ヴァージンとの勝負を待っているようにさえ映った。
(まだ焦ることはない。ここから少し、ウィンスターさんがスパートを見せれば、ウィンスターさんとの勝負が「壁」との勝負になる……。面白くなってきた……!)
3200m、3400mと、トラックに引かれた白いラインを通過するたびに、ヴァージンはウィンスターの距離を目で確かめた。少しずつ広がっていることには違いないものの、彼女が思っているほど圧倒的なペースで後ろを引き離してはいないようだ。ただ、中距離走で培ったウィンスターの軽々しく走るフォームが、その姿を見る者に余裕を見せているのもまた、確かだった。
(50mの差は付かないかも知れない……。それに、今までウィンスターさんのスパートを見ても、そこまで速くなっていない……。少なくとも、50mまでなら、私は勝てる)
だが、冷静なファイトを続けるヴァージンの前で、いよいよプロメイヤのペースが落ちていく。ラップ67秒ちょうどまで上げてウィンスターを追おうとしたが、3600mほどで無理が来てしまったようだ。
そして、突然ペースの落ちたプロメイヤを、コーナーの外側からカリナが抜き去っていく。その後に残ったのは、ヴァージンの目に徐々に迫ってくる、「少し前まで強敵だった」存在だった。
(プロメイヤさんまで、勝負を諦めさせてしまう……。ウィンスターさんは、周りのライバルを寄せ付けないと聞いたけど……、もしかしたら本当にそうなのかも知れない……)
2位につけているのは、一度はウィンスターに怯えたカリナだ。少なくとも、ヴァージンの目に映ったこの時のカリナは、まだ闘志を失っていないようだ。少しずつペースを上げ、残り3周を前にウィンスターと同じラップ66.5秒にまで達した。
(こうなったら、わたしも勝負しなければ……!)
女子5000mの「女王」も、ついにウィンスターとの勝負を確信した。3800mを過ぎて次のコーナーに差し掛かった時、彼女のストライドが一気に大きくなり始めた。
(もう、スパートを待っている時間はない!)
ヴァージンがラップ65秒のペースまで一気に加速する。その気配が、45mほど前を行くウィンスターにもはっきりと伝わったかのように、ウィンスターもほぼ同時にヴァージンと同じペースまで加速していく。力強さと余裕を見せながら、ウィンスターが軽々しくコーナーに入っていくのを、ヴァージンの目は捕らえた。
(4000mで、11分10秒……。やっぱり、ウィンスターさんはコンスタントに50秒台前半のタイムを出すような実力を持っている……!)
それから遅れること8秒から9秒、ヴァージンも11分18秒から19秒に変わる直前に4000mを通過する。失速したプロメイヤをあっさりと抜き去り、この段階でヴァージンの20mほど前にカリナ、45mほど前にウィンスターが走る展開になった。
(ラスト1周までに、どこまで差を詰められるか……!)
ウィンスターが、4200mを通過した瞬間に、再び加速を始めた。今度はラップ64秒と、4月の直接対決でヴァージンに見せつけたペースだ。それを見た瞬間、ヴァージンも再びスピードを上げる。
(いつものスパートさえ決められれば、ウィンスターさんをきっと追い抜ける!今までよりも少し早めに通過できているのだから、世界記録だって間違いなく狙えるはず!)
残り2周の勝負に挑むヴァージンが、絶対の自信を見せる。それは、この種目の「女王」であることのプライドと、今度こそ「壁」を破りたいという強い意志の二つが合わさった、ヴァージンの本気に他ならなかった。
だが、目の前で逃げ切ろうとするもう一人の「女王」の存在は、このレースの雰囲気を変えようとしていた。4400mを過ぎたとき、ついにカリナのストライドが小さくなったように、ヴァージンの目に映った。
(カリナさんまで……、勝負を避けた……!)
ヴァージンの目に一気に迫ってくるカリナの背中は、完全に疲れ切っていた。その後ろ姿からは、またしても追い抜けなかった悔しさと、ケトルシティ選手権の前にヴァージンに見せたような、「女王」に対して最後の希望を託す光の二つを見せていた。
かたやウィンスターは、ヴァージンと本気で勝負する瞬間を待っているようにさえ見えた。その全てを短い時間で感じ取ったとき、ヴァージンははっきりと心に決めた。
(ウィンスターさんに……、私は勝つ!この種目の女王は、私よ!)
ヴァージンの体感で12分47秒、ついにラスト1周を告げる鐘が鳴り響く。ウィンスターは、ラスト1周で大きくペースを上げていかないようだ。ヴァージンもラスト1周のラインの手前でカリナを抜き去り、ついにウィンスターの背中をその目で見た。
(35m差……!)
記録計が12分53秒から54秒に変わろうとしている中、ヴァージンの脚が力強くトラックを蹴り上げ、一気にペースを上げた。コーナーの途中でラップ55秒のペースを体に感じる。
(ウィンスターさんは、まだラップ64秒!これは、間違いなく追いつける!)
ヴァージンがトップスピードで直線に入った。その瞬間、ウィンスターがついに後ろを軽く振り返った。彼女の表情は、決して余裕ではなかった。ただ、ヴァージンとの差が瞬く間に25mから20mに詰められるのをその目で見て、ウィンスターの闘志が少しだけ高まったこともまた、間違いなかった。
(この目はきっと、並ぶ直前に勝負を仕掛けてきそうな目……。まだウィンスターさんだって、諦めてない!)
ラスト200mのラインをヴァージンが駆け抜けたとき、ウィンスターの背中は15mもないほどまで近づいていた。4800m時点でのタイム差も2秒台だ。
ヴァージンは、全くスピードを落とすことなくコーナーへと入った。前を行くウィンスターの背中をターゲットに捕らえた「フィールドファルコン」が、これまで数多くのライバルに見せつけた戦闘力を武器に、トップスピードで羽ばたき続ける。
(これはもう、最後の直線勝負だ……!)
二人の「女王」のペースは、明らかにヴァージンのほうが上だ。残された時間を考えれば、間違いなく追いつける。そうヴァージンが確信しながら、最後の直線に入った。
その時、ウィンスターの腕が大きく振れた。
(ラスト100mから、スパートをかける……!)
その差5mまで迫ったウィンスターが、ほんのわずかにスピードを上げる。そして、ウィンスターがペースを上げたと同時に、ヴァージンの体に感じるスピードが徐々に落ちていくように思えた。
(戦いたい……!勝ちたい……!ウィンスターさんに負けたくない……!)
「フィールドファルコン」の戦闘力で懸命に食らいつくも、ヴァージンに横に出るだけの力はなかった。ゴールラインの20m手前で、ウィンスターが再び腕を振った瞬間、「フィールドファルコン」が地面に叩きつけられるような重い衝撃を、ヴァージンの足は感じた。
最速女王の足は、体一つ分だけ、前に出ることができなかった。
(負けた……)
記録計には、13分50秒68という、この日頂点に立ったウィンスターの「力」が刻まれる。世界記録への期待がどよめきに変わるスタジアムの雰囲気を感じながら、ヴァージンはゆっくりとウィンスターの前に向かった。
すると、ウィンスターは苦しそうな表情を浮かべながら、真っ先にヴァージンに告げた。
「何とか逃げ切ったけど……、苦しい勝負だった……。グランフィールドと戦えただけでも、幸せだわ……」
「おめでとうございます、ウィンスターさん……。私だって、ウィンスターさんと戦えて、嬉しかったです……。でも、一つだけ希望を言うなら、あと一歩前に出たかったです……」
ヴァージンが静かにウィンスターに告げると、ウィンスターは力なく首を横に振った。
「大丈夫よ、グランフィールド。私は、まだ女王と呼ばれるには早すぎるし、力がなさすぎる……。このタイムで限界よ」
ウィンスターが、ヴァージンの肩を何度も叩く。疲れ切った表情は和らぎ、やや高いところから落ち着いた目線でヴァージンを優しく見つめていた。
「今日のレースで、私はさらに確信した。グランフィールドが女子5000mの女王だと。私には到底及ばない、世界記録の感覚をその体で知っているだもの、尊敬するわ」
そう言うと、ウィンスターは3位に入ったカリナには近づかず、メディアのカメラが多そうな場所へとゆっくりと消えていった。その後、ヴァージンも地元メディアのインタビューを受けたが、その間もウィンスターとは一切話すことなく、ただ「勝者」ウィンスターの背中を見つめるだけだった。
(女王は私だと言われたけど……、3年ぶりに私は負けた。それが、今日の現実……)
連勝が13で止まった、女子5000mの最速女王。13分50秒89と、わずかの差でもう一人の「女王」に及ばなかったヴァージンは、早くも次の勝負で打ち勝つことを誓った。
だが、それから30分もしないうちにヴァージンに、忘れかけていたもう一つの現実が訪れた。
バッグを持って選手専用エリアを出た彼女を、マゼラウスとメドゥが待っていたが、その姿を見て足を一歩前に出そうとしたときだった。
「痛っ……!」
突然彼女の左膝に軽い痛みが次々と走った。去年痛めた、ジャンパー膝の再発だ。
(嫌だ……。今すぐにでもウィンスターさんと勝負したいのに……。50秒も切れていないのに……)
左膝を押さえるヴァージンは、思わず目を閉じた。