第74話 ウィンスターの魔力(5)
(勝負が始まった!)
世界競技会、男子100m決勝。その場にいる誰もが、ホームストレッチ側を駆け抜ける8人に注目する。9レーンを走るイリスが、わずか1秒でトップスピードに達し、ナイトライダーの姿をその後ろに追いやる。
(イリスさん、何度見ても勇敢なアスリートに見える……!懸命に前に出ようとしているし……!)
次の瞬間、ヴァージンは思わず「イリス!」と叫んだ。ヴァージンの目は9レーンだけをじっと見つめていた。
だが、ヴァージンが軽く瞬きをした瞬間に、その奥から長身の体がイリスに迫ってきた。スタジアムじゅうから沸き起こるような、この種目の王者の名を呼ぶ声が一気に高まってくる。
(……っ!)
ヴァージンが息を飲み込んだ瞬間、イリスもまた真横に並んだナイトライダーを細い目で見つめた。
(イリスさんの目……、倒したいって叫んでいるのに……!)
イリスのスピードをもってしても、「神」の見せた底力を前に、全く勝負にならない。残りが20m、10mと、ヴァージンのほうに近づいてくるにつれて、イリスはどんどん後ろに押されていく。気が付けば、3位の選手とほとんど変わらないポジションで、先頭を行くナイトライダーを見つめることしかできなかった。
(イリスさん……)
ヴァージンは首を下に垂れて、「神」の前に散った勇ましきアスリートの名を心で叫んだ。だが、その余韻も空しく、スタジアムは新たな記録の誕生に歓声が湧き上がった。
「9秒50……!世界記録だ……」
世界最高の陸上の大会で叩き出した、誰も追いつくことのできない記録に、ヴァージンは思わず電光掲示板を見つめた。普段はより記録計に近い場所で味わう「達成の瞬間」だが、やや遠いところにいる時でさえヴァージンは同じような喜びを感じた。その声は、少なくともイリスが世界記録を達成した時以上に大きくなっていた。
(さすがに、イリスさんを待たないほうがいいのかな……)
興奮冷めやらぬスタンドを見つめながら、ヴァージンは何度かその足を後ろに動かそうとした。そのたびにヴァージンは踏みとどまった。慰めたいという気持ちと、明後日の自らの勝負に備えたいという気持ちが半々のまま、彼女の心をどちらかに傾けることすらできなかった。
だが、ここが通常の大会ではなく世界競技会で、2位に入ったイリスにもインタビューが入ることを思い出した瞬間、ヴァージンはゆっくりとその場を後にした。イリスがロッカールームに戻れるのは、かなり時間が経った後で、全ての競技が終わったスタジアムで待っているわけにもいかなかった。
ヴァージンは、その代わりにホテルの部屋に備え付けたパソコンから、イリス宛にメールを送った。
――今日も『神』の壁は厚かったですが、イリスさんは絶対に成長しています。いつか勝てるって信じてます。
(こんな言葉でイリスさんに響くかな……。直接会っていたら、この10倍くらい言ってしまうような気がする)
送信ボタンを押したヴァージンの目には、わずか10秒にも満たない勝負の瞬間から1時間が経っても、まだイリスの力強さがはっきりと映っていた。その姿を思い出しながら書き始めたものの、途中からナイトライダーに意識が行ってしまうのが、彼女にははっきりと分かった。
(イリスさんしか見ていないのに……、注目させる。それが「神」であり、私のような「女王」なのかも知れない……。少なくとも、さっきのレースを見ていたら、ウィンスターさんも絶対と呼ばれる存在にはなかなか勝てないって、思ってしまいそう)
ヴァージンははっきりとうなずいた。受信メールには、彼女が中身こそ読まなかったものの、これまでで最も多い件数の期待が寄せられていたのだった。
女子5000m決勝の日は薄曇りの空に覆われ、眩しい日差しがそれほどない分、気温も抑えられていた。
(いよいよ、13分50秒の壁を私が破るときが来た……。相手は、私が今までで最大の強敵と認めたウィンスターさん。きっと、ウィンスターさんさえ抜かせば、43回目の世界記録だって、きっと見えてくる)
集合時間が近づき、サブトラックからメインスタジアムへと移るヴァージンは、最後に左膝を軽く指で押した。ジャンパー膝で痛めたところは全く気にならなかった。
(これはいける……。2度も足踏みしたけど、今日こそ記録を達成できる……!)
集合場所へと続く通路を、ほぼ同じ時間にヴァージンとウィンスター、それにプロメイヤやカリナが通り抜けた。世界競技会を回避したメリナと、10000mにしか出場しないロイヤルホーンが抜けたところで、自己ベストが13分台の選手が4人も集う、誰が優勝してもおかしくない勝負が始まろうとしている。
(ウィンスターさんは、やっぱり勝負の前に他の選手を見下してはいない。ただ、私と違って、声を掛けるようなこともせず……、我が道を行く感じに見える……)
女子1500mで誰も付いて行けないもう一人の「女王」は、ヴァージンの視線を意識したのか、ここでようやくヴァージンに振り向いた。その目は、言葉に出さなくても、この種目の「女王」に一目置いているように見えた。
(私を意識している……。でも、私だってウィンスターさんが……、最大のライバルに見える……)
ヴァージンは、一度首を横に振った。点呼の声も聞こえなくなるほど、彼女は勝負に集中していた。
「On Your Marks……」
予選の総合タイム順に、最も内側にヴァージンが立ち、そのすぐ横にプロメイヤが立った。カリナとウィンスターは、そこから数人のライバルを挟んだ先でスタートを待つ。
ヴァージンは、普段以上に長い呼吸を、これから突き進むトラックに向かって吹きかけた。
(よし……)
鳴り響いた号砲とともに、ヴァージンの足がラップ68秒のペースまで一気に加速した。そして、その横からはヴァージンよりもやや速いペースでプロメイヤが先頭に出ようとする。そして、ウィンスターの横顔がヴァージンの右目に見えてくる。
(ウィンスターさんは、最初にどのペースで仕掛けてくるか……)
4月に対戦した時には、ウィンスターが2000mまでヴァージンのペースを伺っていた。だが、この日のウィンスターは、ヴァージンが気配で感じる限り、それよりも速いペースで前に出ようとしている。
(ラップ68秒を切るようなペース……、いや、67秒に近くなっている……)
これまでヴァージンが戦ったライバルの中では、むしろメリナが序盤で見せるペースに近い。そうヴァージンが思った通り、ウィンスターが最初の直線に入った瞬間にヴァージンの前に出て、それから直線を出るまでの間にプロメイヤをかわした。
プロメイヤが前にいても、ヴァージンの目にウィンスターの2ブロックブレイズの髪がかすかに見える。
(こういう展開になった……。ウィンスターさんは、ラップ67.2秒。66.5秒のラップを見せていた時と比べてゆったりとした動きだけど、着実に離されるのが分かる)
すると、2周目に入ったプロメイヤがかすかにペースを上げ、ウィンスターの背中にぴったりと付いた。
(プロメイヤさんが、2周目から相手を意識するのは久しぶりかも知れない……)
ヴァージンとプロメイヤの差も、はっきりと付き始める。だが、ヴァージンはその流れに乗らなかった。彼女の頭には、プロメイヤが普段の走り方ができなくなっているとしか思えなかった。
(最初からウィンスターさんを意識してはいけない……。自分のスタイルが決まれば、ウィンスターさんの自己ベストを考えれば余裕で追いつけるはず!)
4周、5周とラップ68秒のペースを続ける中、プロメイヤとウィンスターがラップ67秒台前半のペースでレースを引っ張っていく。ウィンスターを追い続けるプロメイヤも、この時点では全くペースを変える気配がない。むしろ、プロメイヤがウィンスターとのスパート勝負に臨んでいるような気配さえ漂う。
そして、ヴァージンが2000mを過ぎた瞬間だった。ほとんど意識していなかった背後から、突然サーモンピンクの髪が彼女の視界に飛び込んだ。
(カリナさんが、前に出てくる……!1ヵ月前にあれだけウィンスターさんに怯えていたのに、カリナさんは世界競技会になるとそれを感じさせない……)
ヴァージンも、カリナに刺激されるように、ほんの数歩だけストライドを大きく取ったものの、すぐに元のペースに戻した。一方、カリナはその前を行く二人を上回るラップ67秒ペースで、じりじりとその差を詰める。
(こうなると、ウィンスターさんも少し後ろの二人を意識するかも知れない。それでも、私は追いつける!)
2800mを過ぎたあたりで、そうヴァージンが心に言い聞かせた瞬間だった。30mほど前に見える2ブロックブレイズの頭が、エンジンがかかったようにダイナミックに揺れ、食らいつくプロメイヤを振り切った。コーナーに入ったヴァージンがウィンスターの動きを横目で見たとき、早くもそのペースはラップ66.5秒に達していた。
(ウィンスターさんが、残り1000mどころか、残り1500mよりも前に勝負に出た……)
もう一人の「女王」が、ここで本気を見せ始めた。その後ろ姿を見た瞬間、女王ヴァージンは心が一気に燃え上がってくるのを全身で感じた。