第8話 思いがけない再会(6)
ヴァージンは、ヒューレットの目線がマゼラウスに向くと同時に、ヒューレットから逃げ出した。そして、アルデモードの背後に逃れ、そこで身を潜めてマゼラウスを見つめた。アルデモードは、ヴァージンの手が感じる限り、震えていた。
「貧しい国から出た女を、よくここまで育てたよなぁ……」
ヒューレットは、一歩、また一歩とマゼラウスに歩み寄る。それでも、マゼラウスは決して動かない。堂々と立つ指導者の姿に、ヴァージンの目は細くなる。
スタジアムの中で、大きな歓声が上がり、そしてすぐに消える。再び静かになった途端、マゼラウスの目に、ヒューレットの右腕が飛び込んできた。
「いっ……」
マゼラウスの右腕は、ヒューレットに掴まれてしまった。マゼラウスは、ほぼ同時に左手を出して防ごうとしたが、一足早かった。そして、ヒューレットがマゼラウスを見下すように言った。
「お前さえいなければ……、じわじわ成長することもなかったよな」
「何だと!」
マゼラウスは、左手でヒューレットの腕を解こうとしたが、すぐにヒューレットの左手に取り押さえられてしまった。腕がクロスし、マゼラウスはじわじわと痛みを感じ始める。
(……コーチ)
祈るように見つめるヴァージン。だが、歳に似合わぬ腕力を持ったヒューレットに、それは届かなかった。
「どけっ!」
数秒の膠着状態の後、マゼラウスの脛はヒューレットの右足で力いっぱい蹴られた。マゼラウスの体が、気の抜けたように前かがみになったと同時に、ヒューレットから突き離された。
マゼラウスは、前かがみになったまま懸命にヒューレットを睨みつける。だが、一度後ろに身を引いたヒューレットは、それが助走だったとばかりに、すかさずマゼラウスに突進してきた。
「女子5000mにいらねぇ奴を、お前は育てたんだよっ!」
(……っ!)
ヒューレットの動きを止めることも、逃れることもできず、マゼラウスは腹を激しく殴られた。体から力が抜けるのを、マゼラウスは感じかけた。だが、はっきりと感じる前に、今度は脇腹を叩かれてしまった。
「……ぐぁ……!」
最後に、首を両側から殴られ、マゼラウスはアスファルトの上に崩れ落ちた。長いことスポーツに携わっていたその強い体をもってしても、マゼラウスにはなす術がなかった。
「コーチ……」
ヴァージンは、かすれた声でマゼラウスの名を呼んだ。時間と共に、ヴァージンも震え始めていた。アルデモードを楯に身を潜めていたが、ヴァージンの足は何度もマゼラウスに向かって飛び出そうとしかけた。
「どうして……、こんなことになっちゃうの……」
力尽きたマゼラウスを見下ろすヒューレットの姿。それは、現役のヴァージンであっても変えることのできない光景だった。
ヴァージンの目に、悔し涙が溢れだす。その目から、ヒューレットやマゼラウスの姿が、かすんでいく。目の前の景色が、まだ秋だというのに、凍りついていた。
だが、その凍てついた景色を焦がすように、張りつめた空間に小さな声が上がった。
「専務……」
(アルデモードさん……)
アルデモードは、その場で前かがみになってヒューレットを睨みつけた。もはや、ヴァージンやマゼラウスのようにされてもいい、という体勢になっていた。
だが、ヒューレットはアルデモードに顔を向けるだけで、近づいて来ようとしない。その場を取り巻く空気が少しだけ変わっていた。
「一言だけいいですか……」
「どうしたんだ……。会社の決定に従わないとでも言うのか」
「いえ……。決まった以上は、それに従います。ですが……」
ヒューレットの体が、アルデモードに向く。同時に、アルデモードはヒューレットに向かって歩きだし、ヒューレットの前で両膝をついた。
(アルデモードさんまで……)
無防備になったヴァージンは、さらに体を震わせてアルデモードを見つめる。もはや気が気でなかった。この話を持ちかけた張本人が、ヴァージンやマゼラウスと同じように叩かれるのは、もはや時間の問題かもしれない。
ヴァージンは、不本意ながら、はっきりとそう悟った。だが、アルデモードはその予想を覆した。
「専務のような人がいるから……、アメジスタから出た人は、自分をアメジスタ人と名乗れないんです」
「だから、どうした?大学を出たくらいだから、アメジスタが世界一貧しい国って……、知ってるよな?」
「知ってます。この体で!」
(アルデモードさん……!)
ヴァージンは、息を飲み込んだ。彼が、ヴァージン以外の誰に対しても見せていた殻を、このタイミングで突き破ろうとしている姿が、ひしひしとヴァージンに伝わってきた。
「僕は、本当はアメジスタの出身なんです!でも、アメジスタと言う、勇気が……ありませんでした」
「……ほぅ。国籍を偽ったわけだな」
「偽ってなんかいません。ヴァージンと同じように……、心はずっとアメジスタです」
アルデモードは、両手を地につけて、顔も上げることなくヒューレットに訴え続けた。
「アメジスタに、こういう素晴らしい、勇気のある人間がいるって……、専務も認めて下さい!」
「くだらんな……」
そう言うと、ヒューレットは後ろを振り返り、スタジアムの正面玄関に向かってすたすたと歩き始めてしまった。誰かを迎えに行くような様子で、ヒューレットは先程ヴァージンとアルデモードが出会ったあたりで、アルデモードに振り向くことなく、腕組みして立ち竦んだ。
「アルデモードさん……」
未だに起き上がらないマゼラウスに目をやろうとしても、ヴァージンの目線はアルデモードから動かすことができず、彼の勇気を感じ続けていた。
「あ……」
ようやくその声に反応したのか、アルデモードはゆっくりと立ち上がり、ヴァージンの方を向いて立ち竦む。
「本当に心配した……。一番、アルデモードさんが殴られるんじゃないかって……」
「僕が戦うかよ。こんな場所で」
無意識に首を横に振ったアルデモードがヴァージンの目に飛び込むと、ヴァージンは右手の拳を軽く握りしめて、歯を食い縛った。目の前に立つ青年が、自身に対する支援を持ちかけた張本人だとは、思いたくもなかった。
「どうして、戦わなかったんですか……」
「だから、この場所で戦っちゃいけないんだよ。僕は」
アルデモードの声は、普段の通りに落ち着いていたが、時折息遣いが荒い。ヴァージンが彼のその姿を見たことは、一度もなかった。
「……専務と、部下の関係だからですか」
「違うよ。分からないかなぁ……」
そこまで言って、アルデモードはゆっくりと体の向きを変えた。彼の視線の先に、スタジアムの外壁が映っていた。
「君が戦う場所は、ここだろ!トラックの上だろ!」
ヴァージンにははっきりと分からなかったが、アルデモードは声を嗄らして泣いていた。
「君は、ここでの勝負に全てを懸ければいいじゃないか!」
「アルデモードさん……」
ヴァージンは、アルデモードの横に駆け寄って、目の前にそびえ立つスタジアムを一対の目で見つめた。既にヴァージンの勝負は終わってしまったが、勝負の世界はこの中にぎっしりと詰まっていた。
「アルデモードさんの言う通りです……」
「やっと分かったね……」
「うん……。何を言われても、私はこの場所で戦い続けるって決めたんだって、思い出した……」
ヴァージンは、思い出したように笑みを浮かべた。アルデモードの方に顔を向けると、アルデモードも一緒になって笑っていた。
「僕だって、同じだよ。だから、戦いたくなかった……。それに、ヴァージンが、ほんのわずかでも戦わない意志を持っているのに、目の前で二人も不本意な戦いに巻き込まれてしまうのが、あまりにも辛かったから、何としても僕は、止めたかったんだ……」
「アルデモードさん……!」
ヴァージンは、狂ったようにアルデモードの胸に飛び込んだ。疲れ切ったヴァージンを癒すように、アルデモードの両腕がヴァージンを包み込んだ。
(なんか……、アルデモードさんの方がすごく大人に見える……)
その後、ヴァージンとアルデモードは二人でマゼラウスを起こした。幸いにして意識はあり、血も流れていなかったが、脛や腹を殴られた痣は深く残ってしまっていた。
「すいません……。コーチ」
ヴァージンが深々と頭を下げると、マゼラウスは軽く首を横に振った。痛みの残る腕を組んで、マゼラウスはヴァージンを落ち着いた表情で見つめた。
「私はいいんだ。君さえ怪我がなければ」
「えぇ……。もう痛いところもないです」
「それはよかった……。で、ヴァージンよ」
マゼラウスは、アルデモードを軽く見て、再び視線を戻した。
「この青年は、いま素晴らしいことを言ったな……。ちゃんと聞いてたか」
「はいっ!」
ヴァージンは、何度も首を縦に振った。彼女を見つめるマゼラウスの目と、アルデモードの目が、かすかに笑っているのが分かった。
オメガ・アイロンからの支援は見送りになったが、僅差の4位に登り詰めたヴァージンは、少しずつではあるが注目され始めた。これまで無名のアスリートとして勝負に挑んでいたヴァージンに、スポンサー契約を名乗り出る企業が現れ始めたのだ。
ヴァージンのこの年の勝負は全て終わったが、オフシーズンの彼女には、前年のようにトレーニングだけに明け暮れるというわけにはいかず、合間合間でスポンサーに名乗り出た取引先を訪問する生活が待っていた。
だが、あの時アルデモードが言った一言を、ヴァージンは忘れることができなかった。アメジスタを差別する人の存在、そしてそれを乗り越えようとする存在……。アルデモードは、ヴァージンにとっての精神的なコーチに他ならなかった。
そして12月に入り、ヴァージンは18歳の誕生日を迎えた。この若きアメジスタのアスリートが、18歳にして世界に大きな名前を残すことになるとは、当のヴァージンでさえも、まだ夢の世界に他ならなかった。