第74話 ウィンスターの魔力(4)
アロンゾで繰り広げられる世界競技会の熱戦は、女子5000m予選の日を迎えた。
(いよいよ、私がウィンスターさんと勝負する場……。大丈夫、明後日の決勝は十分戦えるから)
入口からスタジアムを見上げ、ヴァージンは大きくうなずいた。その時、遠くのほうに一人の青年が横切るのがヴァージンの目に映った。
「イリスさん……!」
ヴァージンがイリスの名を呼ぶと、イリスはレーシングウェアに身を包んだままヴァージンに振り返った。
「グランフィールドさん!……今日が女子5000mの予選なんですね」
「そうですね。イリスさんも、今日が100mということですね」
「そう。昨日が予選で、今日が準決勝と決勝。さっき準決勝が終わって、20:40に100mの決勝があります」
「そうなんですね……」
ヴァージンは、この日の自身のタイムスケジュールを思い浮かべた。女子5000mの予選から男子100mの決勝まで1時間ほどしか開いていない。そこで、イリスに言われる前にヴァージンは言葉を返した。
「私、イリスさんを応援するために残っています。今日こそ、ナイトライダーさんを破るところを見たくて……」
「……気持ちだけでいいですよ。グランフィールドさんだって、今回はいろんなところで楽勝じゃないって言われてますし……、明後日の決勝に集中したほうがいいと思うんです」
「イリスさん。言われているほど、私は苦戦しないと思います。3年間負けなしですから。それに、今の私は次の世界記録を十分狙えるようなコンディションに仕上げていますから」
ヴァージンがうなずくと、イリスは軽く笑いながら彼女の肩を二回、三回と叩いた。
「グランフィールドさんがそこまで言うんだったら、僕だって希望が湧いてきます」
イリスは、「頑張ってください」と残してサブトラックへと姿を消した。その後ろ姿は、今度こそ「神」ナイトライダーに食らいつきたいという自信に満ち溢れているように、ヴァージンには思えた。
(私とウィンスターさんが、同じ予選1組……)
選手受付にあった出場者名簿を見て、ヴァージンは改めて「強敵」の名を意識した。普段は、予選が2組、3組ある場合は自己ベストNo.1とNo.2は同じ組に当たらないのだが、今回はウィンスターの実力がはっきりしないこともあり、ヴァージンとウィンスターが予選から同じレースに出ることとなったのだ。
その代わり、プロメイヤやロイヤルホーンといった、これまでヴァージンが破ってきたライバルとは決勝まで同じレースに出ないようだ。
予選への最終調整を終え、集合場所へと向かうヴァージンは、10m先に特徴的な髪形をしたウィンスターの姿が見えた。
(女子選手の中では一番というくらい背が高いから、ウィンスターさんが目立つ……)
ヴァージンは、あえて声を掛けることはせず、集合場所まで進む。それは、カリナやメリアムから伝えられたような、「他の選手を見下す」ようなしぐさをしないかを遠くから見るためでもあった。
(私、ウィンスターさんがそこまできつい言葉は言わないと思っているけど……、どうなんだろう。今までウォーレットさんとかプロメイヤさんとか、勝負前に挑発してくるようなライバルは見ているけど、もし挑発したとしてもこの二人と同じくらいのような気がする……)
明るく元気なカリナでさえ怯えてしまうほどの存在である証拠は、ウィンスターの後ろ姿を見る限りは全く見当たらなかった。だが、それは二人の間に数人の選手が紛れているからという可能性もある。ヴァージンは気を抜くことなく、ウィンスターを見つめ続けた。
その視線を察したのか、ウィンスターは集合場所までやってくるとヴァージンに振り返り、微笑んだ。
「ヴァージン・グランフィールド。世界競技会で、もう一度あなたと戦えるなんて、夢のようね」
「私こそ、この数ヵ月のウィンスターさんを知って、かなりやる気になっています」
ヴァージンがそう言うと、ウィンスターは軽く笑いながらヴァージンの肩に手を掛けた。ヴァージンの身長よりも10cm以上高いウィンスターは、腕をそこまで下ろすことなくヴァージンの肩を軽く撫でている。
(なんか……、包み込むような感じだ……)
ヴァージンは、ウィンスターの手のぬくもりを感じた。決して夏の気温のせいではない。これまでヴァージン以外のどの相手も寄せ付けなかった不思議な力を感じた。
「私は、世界競技会でも2冠を狙ってるわ。昨日1500mで優勝したし、明後日の決勝もいいタイムが出せると思ってる。でも……、1500mと違って、5000mはグランフィールドがいるから、苦戦すると思ってる」
「私も……、半分はそう思ってます」
ヴァージンが素直にそう返すと、ウィンスターは再び微笑みながらヴァージンに告げた。
「私は、この数ヵ月、5000mの強豪と言われてきたいろんな相手を破ってきた。どれも、言われているほど実力があるとは思えなかった。でも、グランフィールド。あなたは別格よ」
「別格……」
ヴァージンは、静かにそう返すと、ウィンスターがもう一度ヴァージンの肩を撫でた。
「私は、グランフィールドがあっての女子5000mだと思ってる。あれだけの記録を作ってきたあなたを、他のライバルがそうしているように、尊敬しなきゃいけない存在だと思ってる。私は、世界記録を手にしない限りは、グランフィールドをこの種目の女王だと、心からそう感じてるわ」
「ありがとうございます」
そこでウィンスターはヴァージンの肩から手を離し、一度うなずいた。
「ヴァージン・グランフィールド、その力、今日と明後日、見せてもらうわ」
「勿論です。私は、ウィンスターに勝てば世界記録だと思っていますので」
ヴァージンのその返事の余韻と共に、ウィンスターは出場選手の中に消えていった。そこでヴァージンは、静かに息をついた。
(女王、か……。やっぱり、ウィンスターさんは私をずっと尊敬している……。人を選んでいるのは間違いない)
ヴァージンは、ウィンスターの手が触れた肩を自らの手で触った。手のぬくもりは、まだ残っていた。それは、尊敬する者に対する愛情であると同時に、他を寄せ付けない不思議な力であるようにさえ思えた。
(あと、他のライバルを、やっぱり「実力がない」と言ってる……。実力を認めていないというのは、言われた通りなのかも知れないけど……、私がいる限り、ウィンスターさんはそこまでみんなを追い詰めないと思う)
ヴァージンは、静かにうなずいた。女子1500mの頂点に立った存在の背中を見つめながら、ここまで女子5000mを守り続けてきた最速女王は、その相手に打ち勝つとはっきり心に決めた。
ヴァージンは、予選から本番を意識した走りを見た。最初の数周ほど付いてきたライバルはほとんど無名の存在ばかりで、どれも最終的には周回遅れに追いやったほどだ。逆にウィンスターは、あえて先頭に出ることなく、3位集団の真ん中に常にポジションを置いて、最後の1周で軽くスパートを見せて予選1組の3位に食い込んだ。(他のライバルと同じで、ウィンスターさんは手を抜いている……。私は、トラックを見たら手を抜くという選択肢が出てこないけど……)
2位に圧倒的な差をつけて予選を走り終えた「女王」が、ゴールしたウィンスターを見つめながら、静かに悟った。本番のタイムを知っているだけあって、ウィンスターの手加減した走りがやや不気味にさえ、ヴァージンには思えた。
それと同時に、ヴァージンはウィンスターが告げた言葉の意味を裏返していた。
(逆に、私がウィンスターさんを寄せ付けない存在で……、ウィンスターさんがそれを意識していたとしたら……。いや、そんなことないか。1500mで頂点に立って、そっちの世界を支配しているわけだし)
ヴァージンは首を横に振り、トラックを後にした。時折ウィンスターの2ブロックブレイズの髪が横目で映るが、決勝の時まで気にしないことにした。
――トラック競技は、間もなく男子100m決勝となります。
予選を走り終えても、ヴァージンはサブトラックで軽めの調整をしていたが、場内アナウンスとともに再び選手専用エリアの中に戻った。世界競技会のチケットはイリスも買っていなかったため、ヴァージンは競技の邪魔にならないよう、ダッグアウトに続く階段の脇で、最速を決める闘いを見ることにした。
(イリスさん……、今日こそナイトライダーに勝てるはず……)
ヴァージンの立っている場所がゴールのすぐ先のため、スタート位置に立つ8人のファイナリストの顔は遠めでしか見えない。だが、その中で最も外側の9レーンを走るイリスの表情は、どことなく輝いているように見えた。彼は決して、「神」ナイトライダーの顔色を伺うことなく、100m先のゴールだけを見つめ続け、勝負の瞬間を待っていた。
(頑張れ、イリス……)
スターターの低い声がスタジアムに響いた。ヴァージンは、祈るような目でイリスを見つめていた。